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屋根獅子

最近はポピュラーな工芸品扱いの漆喰獅子ですが新参士族や百姓の風習だったとは思いませんでした。
もともと屋根職人が余技的に作るものであまり価値などは認められていなかったとは聞いたことがあるのですが階級でわけられる風習だったんですねぇ...

屋根獅子
商家(新参や百姓)では魔除けとして屋根の正面に漆喰造りの獅子をのせ顔を戸口に向ける。譜代士族の家ではやらない。
那覇市史資料編第二巻中の7、p338


別箇所から。

[以上の記録などから判断すると、]最初から屋根獅子として考えられたものではなく、石獅子の魔力を借りて、我が家の魔除け火伏せに用いられないものかと考えた末に、ちょうど頃よく屋根瓦(赤瓦)が普及して来たので、屋根葺工の手によって思い思いの屋根獅子を作るようになったと考えるべきである。
この屋根獅子は那覇周辺に多く地方に行くにしたがって少なくなっている。先島地方ではほとんど見受けられなかった。
那覇市史資料編第二巻中の7、p238


また下記ページを読んでみるとなかなか複雑なようです。

琉球の唐獅子
http://www.zyyms.net/yanejisi1.htm
屋根獅子の起こり
http://www.zyyms.net/yanejisi2.htm
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ガラス工場(戦後)

承前。
グダグダ(β) 前田硝子工場
那覇市西新町3ノ24 電69
硝子工場 前田龍五郎
日報の沖縄人名録 昭和12年版


琉球ガラスの歴史紹介ページに関連するかのような記述がありました。

沖縄で初めてガラスが作られたのは明治中旬ごろといわれており、長崎や大阪から来た職人の技術によって、那覇の西町に工場が建ちました。
当時は主にランプのほや、漬け物瓶等実用的な製品が作られていました。
---
戦後、沖縄におけるガラス工場の復興は、戦後からつくっていた人たちや、疎開先から引き上げて来たガラス職人たちが生産をはじめました。
---
沖縄における戦後ガラス製造のはしりは、1950年に前田正男さんが設立した一軒のガラス工場(那覇市与義)でした。
前田正男さんは、父親の代から那覇市西町でガラス工場を経営していましたが、戦争で工場は閉鎖。
戦後になって息子の正男さんが工場を与儀に移転し、復興させました。
---
奥原さんは十歳でガラス工場に見習いとして入り、戦前までガラス職人として働いていました。
1952年、奥原さんは、戦前からのガラス職人・島袋栄松さんとの共同経営で、前田さんからガラス工場を譲り受け、「奥原硝子製造所」と改名し、再スタートさせました。

琉球ガラスの歴史と特徴 | 琉球ガラス生産・販売協同組合 (抜粋と編集)
http://ryukyuglass.org/docs/ryukyuglass/history.php


人事録での前田龍五郎さんは正男さんの父になるのでしょうか。
この与儀の工場(セントラル病院近く)は移転して、工場は現在牧志にあるようです。

寄宮区画整理 4(写真など)

寄宮区画整理地域一帯の写真などをまとめてみます。
戦前。
長田原(1945)
右上の一帯が長田原。国場の特徴的なカーブが見える。

米軍撮影。自分がやった画像処理のため少し見にくいですが、中央に陸軍の射撃場(一部は現寄宮国映通り)とその横に真和志小学校が見える。

60年代の沖大と沖縄高校で、元写真はhttp://okishyou3.ti-da.net/e2215124.htmlです(無断拝借失礼)。
撮影場所は後原あたりの丘の上からになるのでしょうか。沖縄高校(現尚学院)時代。


1970年(国土地理院)
http://archive.gsi.go.jp/airphoto/ViewPhotoServlet?workname=MOK701&courseno=C12&photono=9

1977年(国土交通省)
http://w3land.mlit.go.jp/cgi-bin/WebGIS2/WC_AirPhoto.cgi?IT=p&DT=n&PFN=COK-77-1&PCN=C59&IDX=9

1984年(国土地理院)
http://archive.gsi.go.jp/airphoto/ViewPhotoServlet?workname=OK841X&courseno=C12&photono=7

まちのたね通信から。
真和志/1964年頃の寄宮区画整理地域。現在の長田1丁目〜2丁目付近。
http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=1832

那覇/上間タンク。琉球水道公社が1966年11月20日、上間高台に完成。
http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=1833

コメントで多数ご教示頂きました。多謝。

寄宮区画整理 3


左が71年、右が75年。下の図でオレンジの一帯が立ち退きと工事が進行中のようで、75年ゼンリン地図にも「区画整理地域」との表示があります。

寄宮中学校の長田原そばは道路がキチンと通り、そのそばの宅地はわずかに拡がりました。
上間小学校北東にあった国吉農園は「花鱗園」と名を替え、鯉や金魚を養殖するようになったようですが、地図で見る限りでは国吉農園も花鱗園もレイアウトの枠組みは変わらないため国吉農園も同じく養殖業であったのではないかとも考えられます。また75年には花鱗園の北に池が出現しています。
オキナワグラフ 1963年1月号の14ページには「花鱗園」の広告があり、住所は上間819番地ノ2となっていて営業種目に観賞用鯉と金魚の項目があります。
http://okinawa-ebook.wook.jp/detail.html?id=211820


左は75年、右が77年。この図でのオレンジの一帯に区画整理による道ができはじめ、早くも住宅が出現しはじめました。77年の図からは区画整理地域内の道路でできあがっている箇所を描いてあります。
77(昭和52)年国土交通省の写真と77年の図を並べてみます。
http://w3land.mlit.go.jp/cgi-bin/WebGIS2/WC_AirPhoto.cgi?IT=p&DT=n&PFN=COK-77-1&PCN=C59&IDX=9
77年の長田原
注意すべきは、77年版地図を参考にした左図は77(昭和52)年撮影の写真よりも情報が古いということで、当然図より写真の方が後に撮影されているため区画整理の進行状況もわかることになります。
写真では図より工事が進んでいて、77年地図では宅地造成中と表示されている花鱗園にも住宅が見えます。


左図が77年、右図が80年。区画整理で作られた道路はほぼ完成し、新たな区画の中に住宅がぽつぽつと出来はじめた。上間小学校周辺にも住宅が増えはじめ、長田大通りから入ったところにも商店などがある。
※この図のみ少し入ったあたりの商店なども描いています。

寄宮区画整理
ゼンリン地図を参考に作成してたこれまでの図を並べて、これらの図のみから推測できたことをまとめてみます。
区画整理の範囲は大体6つくらいの色づけができるかと思います。

(1)洗田原から上間向けの一帯は71年には住宅密集地帯でほぼ変化がない(道ができたりはした)。
(2)寄宮中後方は71年には沖大前通り沿い裏に住宅、長田原の中心の畑にも沖大前通りに近いところからぽつぽつと住宅が無秩序にできはじめていた。65年の地図では寄宮中学の側にだけ住宅がありここから広がっていったことがわかる。
(3)上間小前方は丘(上間小)の前の農地で、区画整理以降に長田通り沿いに店舗ができその後方に住宅ができていったが、80年当時は住宅店舗共に散見されるだけ。
(4)71年の早い時期から住宅があり、区画整理で道が通ってもあまり変化していない。
(5)沖大前通りの商店街。最初は沖大入口の長田通り入口付近に店舗があり、その後拡大していった。
(6)こちらも通り沿いの商店街で、こちらも長田通り入口あたりから店舗ができ(やんばる食堂は75年にはある)、区画整理による道ができた後に店舗が一気に増えた。

全体的なまとめとしては、大通り沿いとその周辺からの宅地化、沖大と沖縄高校の存在による食堂や飲食店、上間小学校開校と周辺の整地による宅地化がこの地域を変えていったのだと思われます。
60年代の区画整理計画の頓挫とその解決の遅れが周辺から取り残されるような一帯を作ってしまったわけですが、60年代はじめでも周辺地域はほぼ宅地化していますので長田原が農地としてのこっていた理由は結局よくわかりません。
上間の坂道をへだてた西門原などは地形も傾斜地で長田原よりも宅地としての条件は悪いように思うのですが60年代には宅地化しています(基本的に宅地は平地を選ぶというのを前提)。

いいかげんに70年代のこの一帯の変化を追ってみましたがこんな感じです。

寄宮区画整理 2

71年
左図は71年の長田原周辺、右図は原名です。
左図でのピンクは住宅地(色の濃い箇所は密集地)、表通りのみ描いてありますが黒の点は店舗や工場です。
地形的には現在の上間小学校、沖大(切り崩されています)、寄宮中学校が丘、全体的に図の右上にある識名方面に向かって高くなっており、寄宮十字路(洗田原)が低地、図右下の仲井真部落は南に向かっての傾斜地になっています。

状況としては沖大前の通りには店舗(食堂多し)が立ち並びはじめ、寄宮十字路周辺は店が建ち並んでいます。
※寄宮十字路の店舗は完全には描けていません(後日追記します)。
寄宮十字路周辺から沖大にかけては行政主導で戦後に人間がなだれ込んだこともあり住宅は密集しています。図で濃く表示した箇所はその中でもあまり大きくない住宅が建ち並んでいる箇所ですがこの図の範囲で余裕のある箇所は殆どありません。

想像になるのですが、図の右上は図の外側になっている上間に隣接していますので上間部落が周辺に拡大していった結果の住宅地ではないかと思われますし、洗田原は寄宮十字路周辺の割当地と大原区という戦後の早い時期に人が住みはじめた地域の周辺部ではないかと推測できます。
洗田原の戦前の集落は寄宮十字路の寄宮中学校そばと上間の坂から長田大通りに曲がる角にあり、この角には土帝君が残っています。

周辺の過密ともいえる宅地化に取り残されるように上間の丘の麓と寄宮中学校裏の畑地が残っていたのは不思議ではあります。65年の地図でも国場から寄宮十字路一帯は過密な住宅地ですが、長田原と後原の一帯には住宅がありません。
戦後の割当土地制度での移住は地主の意志を無視した非常手段であったわけですが、これらを見ると最初の移住が済んだあとは無秩序な割当土地制度による拡大はなかったのではないかと推測されます。

長田原の宅地化と区画整理計画は、
(1)個人所有地に建ちはじめた住宅により半宅地化しつつあったが、
(2)道路や下水道・排水溝が整備されず劣悪な住環境であったのを行政主導で整備しようとしたもの
であったと言えるかと思います。60年代は下水道計画が実行されはじめた時期であり、雨水などの排水溝と下水が分離して処理されはじめた最初の時期です。50・60年代の市民の友などには冠水や溝に対する苦情が多数掲載されていて、下水道整備以前は大雨による被害などを蒙りやすかったことがうかがえます。
結局長田原が農地のまま住宅空白地帯として残っていた理由はわかりませんが、それには那覇市内での農業がいつ頃まで割にあうものであったのかなどの考察が必要になるのでしょう。

参考:グダグダ(β) スラム街地域調査(60年代に那覇市が行った/松尾から樋川)
参考:グダグダ(β) 下水道

寄宮区画整理

左図は寄宮区画整理地域内の旧道、右は原名と地形のいいかげんな図です。
寄宮区画整理区域内の旧道
左図は寄宮区画整理地域内のみ描いてありますのでご注意。右図は道を境界とするものに関しては概ね正しいと思いますが、そうでないものはいい加減に描いてあります。
寄宮区画整理は洗田原・長田原・底田原と後原の四つの原にまたがっています。

旧道に関しては真和志民俗地図、那覇市明細地図、那覇市復興地図(1945年)を参考にして描いてありますが正確なものではありませんのでご注意。参考にした那覇市明細地図には旧住所(地番に近い)が図示されていて、旧道は大体土地の境界線を通っていることがわかります。

国土変遷アーカイブ 1970年
http://archive.gsi.go.jp/airphoto/ViewPhotoServlet?workname=MOK701&courseno=C12&photono=9


また国土変遷アーカイブの1970年の写真(上アドレス)では区画整理以前の土地の境界線がどの様なものであったかをうかがうことができます。
寄宮区画整理地域の国場側(後原)は全域が対象ではなく大通り沿いのみが整理されていますが、その後方の道は(おそらくほぼ)換地などが行われていないため畑の境界線にあった道が現在も舗装されてそのまま利用されています。
寄宮中学校後方も当時の土地利用状況は同じで、区画整理以前は土地の境界線にあった道と個人所有地の範囲内に建てられた建物が散在しています。行政が道などを作らず(作れず)に個人所有地に住宅が建ち並びはじめたあたりで区画整理を始めたというのが当時の状況だと思われます。また本来この計画は1964年から1967年に行われるものであったようですが、住民の反対運動などで1967年に中止され、話し合いで1972年に再開されています。
※1960年代の区画整理がどの程度進んでいたのか、それ以前がどのような状況であったのかというのは全くわかりませんので、以降の話はすべて地図などがある1969年以降の変化を扱うことになります。
参考:グダグダ(β) 寄宮の区画整理計画

1970年頃には洗田原一帯から上間の坂沿いはすでに宅地化されて住宅が密集、沖大前通りを挟んだ沖大側も住宅が密集しています。
1970年の写真と69年頃のゼンリン地図を見ると、寄宮中体育館から沖大前通りをまっすぐ行き長田大通り入口を左折し、上間小入口でもう一度左折して体育館に戻る一帯が畑や空地の中に住宅が散見される状態です。
同じ1970年前後の寄宮区画整理区域でも洗田原は住宅が密集、底田原の洗田原に近い一帯(現白バラ後方)も宅地化、長田原も沖大前通りは店舗が立ち並んでいます。この宅地化された地域と上間の丘(現上間小)に囲まれた地帯が寄宮区画整理区域で激変した区域です(下図)。

寄宮区画整理区域でも区画整理以前にすでに宅地化されていた地域に変化が無かったかというとそうではなく、現在のような碁盤目の区画を通すために洗田原などでは立ち退きなどが行われていることが地図を見ていくとわかります(下図)。


ちなみに寄宮中向かいの勝良又原は一時的に土地を失った人達に行政が無理矢理土地を割り当てた地域で住宅密集地です(下図ピンク)。
参考:グダグダ(β) 勝良又原(国場)

上の図は那覇市復興地図の47年を模写したものですが、この範囲内にはほとんど住宅がないことがわかります。図の範囲から外れてしまっているのですが、左上の寄宮十字路から真和志小学校北方、下側の国場、右下の仲井真には人が戻って来ています。寄宮中の側にピンクの一帯がありますがここは割当土地制度で他の土地から来ている人たちの住宅区域です。
那覇市復興地図は米軍の航空写真を地図に起こしたものなので、1945年撮影の写真も那覇市復興地図と同じようになっています(当たり前ですが)。
長田原(1945)長田原(1945)

寄宮区画整理の再開

寄宮地区の区画整理に本腰
地域代表選出で円滑な事業執行
士は寄宮地区の土地区画整理事業を円滑に推進するため地域から選出された8人の審議委員に1月18日付で辞令を公布しました。
審議会は今後、土地区画整理をすすめていく上で、土地所有者、借地人の利益を守るとともに市、地主、借地人間の利害関係を調整して、事業がスムーズに執行できるようにする大切な任務にあたります。
ところで寄宮土地区画整理事業は1966年7月に中断していましたが、その後就任した平良市長はこれまでねばり強く関係者と交渉をかさね、昨年5月6日に地主代表、県知事、市長の三者間で合意に達して事業再開、さらに新しく土地区画整理法にもとづき借地権者も加え、昭和47年度から51年度までの五ヶ年計画で事業がすすめられることとなりました。
市民の友 昭和48(1973)年1月15日 第265号(抜粋と編集)



図は市民の友昭和48(1973)年11月15日(第275号)の計画模型の写真を参考にして作成。

白石武八郎

沖縄県人事録(昭和12)からの白石武八郎さんです。

白石武八郎
高炉セメント販売店長石商会
那覇市西本町4ノ37
君は明治27年を以て鹿児島市易居町に生る。幼少年時代を国頭郡大宜味村に育ち、明治43年那覇市立商業学校を卒業せり、徴兵適齢に際し一年志願兵として入営し、大正7年3月陸軍歩兵少尉に任官、同13年3月歩兵中尉に任官し、従七位に叙せられる。目下高炉セメント沖縄販売店長石商会の代表社員として同業界に活躍の傍ら、帝国在郷軍人那覇市聯合分会長及第六師団管下審議員等の公職を有し令名嘖々たるものあり、各方面の信望厚し、天資謹直にして闊達、思想穏健、挺身報国の念に燃え、挙措極めて真摯、非常時局に直面して将来の体制を期待される人物たり。趣味は読書。
【家族】長男 武弘君(大8)、次男 武文君(大13)、長女 英子さん(大10)、次女 佳子さん(昭3)、三女 邦子さん(昭10)の二男三女がある。


石油・ガス関係やカヌチャリゾートを経営している白石さんの曽祖父?ですね。武八郎さんは幼少年時代が大宜味、那覇で商業学校を卒業ということです。家業は何をしていたのか、ずっと沖縄で暮らしていたのかなどわからないことがあります。
名護の徳田球一も鹿児島の2世ですが北部にも寄留商人はそこそこ定着していたんでしょうか?

白石 武博氏(しらいし・たけひろ)
1962年(昭和37)年、沖縄県生まれ。
---
曽祖父が鹿児島出身で、私は「沖縄3代目」。

http://www.shiodomejuku.com/profile/shiraishi.html


「株式会社 白石」の会社沿革では下の様に紹介されていますが、武八郎さんも戦後は復興資材を扱うことから始めたのでしょうか。武治さんとの関係もよくわかりませんがあとで調べてみたいと思います。

1952(昭和27)年6月 故白石武八郎、建設資材販売会社 白石商会設立。
1958年(昭和33)6月 白石商会の社長へ白石武治就任。

http://www.shiraishi-oki.jp/company/index4.html


沖縄戦では中尉として軍務についたようです。

泊高台の上之屋でも内田高射砲隊の陣地構築作業があり、真玉橋の鉄道沿線に沿った小高い丘の防空壕掘りにも従事し、球部隊のあった製菓工場に割り当てられた生徒もいました。隊長は白石武八郎中尉でした。
「白梅 沖縄県立第二高等女学校看護隊の記録」(白梅同窓会)から

http://hb4.seikyou.ne.jp/home/okinawasennokioku/okinawasennosyougen/syougen17.html


【追記】「私の戦後史 第5集」にある嘉手納並裕さんのところに白石武八郎のことが出てきたので引用します。

「マルメマーケット」は今のデパートのようなもので、2階に「沖縄物産館」ができたのが昭和9年。経営者は白石武八郎氏だった。
私の戦後史 第5集(抜粋と編集)

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