

左図は71年の長田原周辺、右図は原名です。
左図でのピンクは住宅地(色の濃い箇所は密集地)、表通りのみ描いてありますが黒の点は店舗や工場です。
地形的には現在の上間小学校、沖大(切り崩されています)、寄宮中学校が丘、全体的に図の右上にある識名方面に向かって高くなっており、寄宮十字路(洗田原)が低地、図右下の仲井真部落は南に向かっての傾斜地になっています。
状況としては沖大前の通りには店舗(食堂多し)が立ち並びはじめ、寄宮十字路周辺は店が建ち並んでいます。
※寄宮十字路の店舗は完全には描けていません(後日追記します)。寄宮十字路周辺から沖大にかけては行政主導で戦後に人間がなだれ込んだこともあり住宅は密集しています。図で濃く表示した箇所はその中でもあまり大きくない住宅が建ち並んでいる箇所ですがこの図の範囲で余裕のある箇所は殆どありません。
想像になるのですが、図の右上は図の外側になっている上間に隣接していますので上間部落が周辺に拡大していった結果の住宅地ではないかと思われますし、洗田原は寄宮十字路周辺の割当地と大原区という戦後の早い時期に人が住みはじめた地域の周辺部ではないかと推測できます。
洗田原の戦前の集落は寄宮十字路の寄宮中学校そばと上間の坂から長田大通りに曲がる角にあり、この角には土帝君が残っています。
周辺の過密ともいえる宅地化に取り残されるように上間の丘の麓と寄宮中学校裏の畑地が残っていたのは不思議ではあります。65年の地図でも国場から寄宮十字路一帯は過密な住宅地ですが、長田原と後原の一帯には住宅がありません。
戦後の割当土地制度での移住は地主の意志を無視した非常手段であったわけですが、これらを見ると最初の移住が済んだあとは無秩序な割当土地制度による拡大はなかったのではないかと推測されます。
長田原の宅地化と区画整理計画は、
(1)個人所有地に建ちはじめた住宅により半宅地化しつつあったが、
(2)道路や下水道・排水溝が整備されず劣悪な住環境であったのを行政主導で整備しようとしたもの
であったと言えるかと思います。60年代は下水道計画が実行されはじめた時期であり、雨水などの排水溝と下水が分離して処理されはじめた最初の時期です。50・60年代の市民の友などには冠水や溝に対する苦情が多数掲載されていて、下水道整備以前は大雨による被害などを蒙りやすかったことがうかがえます。
結局長田原が農地のまま住宅空白地帯として残っていた理由はわかりませんが、それには那覇市内での農業がいつ頃まで割にあうものであったのかなどの考察が必要になるのでしょう。
参考:
グダグダ(β) スラム街地域調査(60年代に那覇市が行った/松尾から樋川)
参考:
グダグダ(β) 下水道PR