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小牧薫

沖縄県人事録(昭和12)から小牧薫さんの項を抜粋します。
写真は小牧商店でhttp://blogs.yahoo.co.jp/pusan_de/2527443.htmlよりお借りしています。m(_ _)m

小牧薫
肥料商
那覇市旭町5
君は鹿児島県人故小牧藤次郎氏の長男にして、明治35年を以て那覇市に生る。鹿児島商業学校に学び大正13年以降家業を継いで今日に及んで居り、肥料商の傍ら石門通りに日蓄堂を経営し、蓄音機販売店を兼営す。



鹿児島系の2世ですね。明治35(1902)年生まれですから昭和12(1937)年当時では35歳です。
小牧さんは戦後も那覇で商売をしており「目で見る琉球・琉球写真案内 1963年版」に「小牧貿易商事」という会社の代表として名前があります。
昭和38(1963)年当時で61歳ですね。

輸出入貿易業
小牧貿易商事
代表者 小牧薫
那覇市松尾254番地
日本興油興業 泰和株式会社 山形屋産業合名会社 富田商店 末弘株式会社 特約
目で見る琉球・琉球写真案内 1963年版 p205


同一人物かどうかの確認はできていなかったのですが、戦後の小牧さんを知る方から同一人物であり上岡作太郎さんとも懇意であったことをお聞きしました。小牧さんと上岡さんはご近所でもあります。
懇意の仲だったのは数少ない戦前からの寄留商人(の2世)同士なのも理由だったのでしょうか。
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クロコデールストア

「目で見る琉球・琉球写真案内 1963年版」にあるクロコデールストア広告(?)から抜出します。

一階 
雑貨部
 
白檀扇子、洋酒、ライター、高級万年筆、印度名香、其の他
ワニ皮部 
クロコデール、アリゲーター、トカゲ、ギャビヤル、虎、豹
二階
宝石部
 
世界ダイヤモンド協会鑑定
登録 保証書付き AAA-1
最高級ダイヤモンド米国推薦
指定販売 その他各種宝石
三階
卸部 商事部
屋上
ビヤ・ガーデン
クロコデールストアー
本店 那覇市牧志町1〜234国際中央通り
支店 那覇市松尾115
目で見る琉球・琉球写真案内 1963年版 p155(抜粋と編集)


店内のようすはありますが外観の写真はありません。
外人の撮影した70年代の国際通り。
国際通り
右手に「ワニ」という字が見えるのがわかるでしょうか。


クロコデールストアは照屋敏子がオーナーですが、近年書籍の発行によって知名度が上がりました。
支店は松尾市街バス停のあたりではないかと思うのですがよくわかりません。バス停あたり(ストリートビュー)はいつも白檀の匂いがしていた記憶があります。

目で見る琉球・琉球写真案内

「目で見る琉球・琉球写真案内 1963年版/沖縄興信所」という本がありますが、この本は企業や人物などを写真を添えて紹介したものです。
webにその目次があったので紹介しておきますが目次だけでも結構便利なもんなのです。

http://library.main.jp/index/jst36221.htm

県内だと図書館で閲覧できます。
この本は大宜味朝徳が発行していたようですがこの人もまた変わった人で(略)

Downtown Naha, 1967

Downtown Naha, 1967」と題された写真。

http://www.flickr.com/photos/ruap1967/4802887941

福山商事ビル近辺でむつみ橋から撮影された国際通り(70年代)を取り上げたのですがこちらは60年代です。最初の写真には青いガードレール(?)がありません。
国際通り

最初の写真は上のグーグルマップでの「玉宮モードコーナー」あたりから撮影されています。写真右手の看板で徳田宝石の一つ手前に「玉宮」とあるのがわかるでしょうか。
「目で見る琉球・琉球写真案内 1963年版/沖縄興信所(大宜味朝徳)」の260ページには玉宮商会が紹介されていています。

玉宮商会
営業種目 呉服・洋布地 其の他繊維製品 卸小売
代表者 宮城清次郎
那覇市松山町2の121番地若松通り
目で見る琉球・琉球写真案内 1963年版


若松通りにあることから卸業者であることがわかります。70年代のゼンリン地図では山形屋向かいの店舗は「玉宮モードコーナー」となっていて、ショーウインドーに布地と服等を展示してあった記憶が自分にもあります。
想像でしかないのですがこの玉宮モードコーナーは布地販売のためのショールームのようなものではなかったかと思います。

球陽館

戦後すぐからのホテル業である球陽館です。

昭和23年10月 初代/代表取締役社長・塩浜康盛が、那覇市字松尾9番地に、木造平屋の「ホテル球陽館」を創業。
昭和31年10月 那覇市久茂地2丁目5番地1に移転。地上3階建て鉄筋コンクリートのホテルを建築。
昭和48年3月 地下1階地上11階の新館を建築。
昭和59年7月 ホテルサンパレスに改名。
平成19年10月 創業60周年を迎える。ホテルサンパレス球陽館に改名。

http://www.palace-okinawa.com/sunpalace/concept/



この松尾9番地の球陽館は浮島通りにありました(ホームページには写真もあります)。
久茂地に移った球陽館( http://g.co/maps/9cqb7)からの風景を撮影した写真を公開されている方がいます。

ホテル球陽館から見た那覇市街北西方面
http://www.panoramio.com/photo/31254448


ホテル球陽館から見た那覇市街南東方面
http://www.panoramio.com/photo/31254473


ホテル球陽館
http://www.panoramio.com/photo/31221284


これは建物の外観。

那覇まちのたね通信 | 球陽館/沖縄タイムス社ビルから望む
現在のホテルサンパレス/昭和35年(1960) 3月1日

http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=3407


「目で見る琉球・琉球写真案内 1963年版/沖縄興信所(大宜味朝徳)」という本に球陽館が紹介されていますが、本店が那覇市久茂地1丁目70、支店が那覇市浮島通りとなっています。外観は上の写真と同じ外観でまちのたね通信と同じく外観は白っぽく、黒っぽく塗装された Panoramio での写真とは時期が違うことがわかります。

長山冷凍/長山悦元

1958年の住所録から。

長山冷凍(合資会社)
仮事務所 那覇市6区18組
第一工場 久米島具志川村大田区実着
食用蛙移殖、冷凍蛙輸出、凍結蛙処理加工
輸出入通関業務、和洋小鳥卸並に販売
代表 長山悦元


6区はこのあたりです。
長山悦元の名で図書館を検索してみると「沖縄振興事業としての食用蛙/長山悦元/1957.2」という本がひっかかります。
また1926(大正15)年には沖縄でも食用蛙が扱われていたようです。

米国種の食用蛙の一匹五銭のお玉杓子を、裏の小溝に放しておいたら、三年目に東京へ十五円にうれトテも美味しかったと高貴の方からお墨付が下ったと飴ン棒の砂糖煮のような棚ぼた話しに誰も彼も稲時をやめての俄養蛙家-
滋賀県水産試験場から、その配布を受けているところが(略)沖縄、台湾等そのお玉杓子の数が、京の三十三間堂の仏の数よりも六倍も多く十八万八千五百三十六匹というドエラい頭かずだ
農家の副業に最も適する食用蛙の培養のしかた

大阪朝日新聞 1926.11.25(大正15)
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00492580&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1


もっとも沖縄では戦前から市場で蛙も扱われていましたのでそんなに驚くことではないのかもしれません。

大正5、6年頃の話だが「堂小屋敷のタンメーも時折来ていたようである。タンメーはブチグヮー(細長い竹の棒)で草むらをたたきながら大溝に沿って歩いてゆく。蛙がびっくりしてとびはねると、それをぱっと捕え腰に下げたティールにいれていた。タンメーの仕草が面白く、子供たちはタンメーの後を追っかけてあそんでいた。タンメーは安謝川まで行くと溝の反対側に回りナグモー向け(注:那覇向け)に進み蛙を捕りながら帰っていった」という。
安謝誌 p29、30

蛙は皮をはいで、もも肉2本つながった形で市場で20個くらいで3-5銭で売っていた。
カルテの余白/千原繁子 p74

Wikimedia Commonsでの著作権の考え方

日本を法管轄とするこの写真画像は、(1)1956年(昭和31年)12月31日までに公表(発行)された。または、(2)1946年(昭和21年)以前に撮影(製作)され且つ起算日から10年以内に公表されなかったものである。これらの二つのいずれかであるため、日本の旧著作権法第23条及び著作権法附則第2条の規定により著作権の保護期間が満了しています。
http://commons.wikimedia.org/wiki/Template:PD-Japan-oldphoto/ja


こういう風になってるわけですね。
とりあえず戦前の写真は保護期間が切れているという解釈で扱いたいと思います。

社会主義者たちの派閥 2

外間守善 その社会主義研究会には、伊波先生は参加なされたんでしょうか。
金城芳子 参加しなかったね。いらっしゃらないですよ。有幹のところにもいきませんよ。図書館では末吉麦門冬(安恭)や、真境名笑古(安興)さんたちがあつまって、思想的なそういったものにはあんまり関心がないような感じでしたよ。伊波先生は、城岳のハルヤー(春潮宅)に私たちを連れていっては、よくヒージャー会をやって、春潮さんといっしょに山羊汁をいただきましたよ。だから沖縄人としての啓蒙活動になるわけね。
※ハルヤー(別荘)は曝書山房で伊波普猷の別荘、当時比嘉春潮宅
沖縄を語る 金城芳子対談集 p31


参考:末吉麦門冬 とは - コトバンク
参考:真境名安興 - Wikipedia

検索してみたら伊波普猷の私の子供時分という文がありました。すこし引用します。

学校から帰へると、私はいつも城嶽の前のちつぽけな別荘にいつて勉強してゐたが、首里にゐた時分から昆虫の採集に趣味を有つやうになり、昆虫のことを書いた本を愛読して、いつも蝶々ばかり追ひまはしてゐた。城嶽の辺は私に取つては実に思ひ出の多いところだ。
---
私は満五ヶ年の小学校生活を切り上げて明治二十四年の四月に、いよいよ中学に這入るやうになつた。当時の中学はもとの国学のあとにあつたが、随分古風な建築物であつた。一緒に這入つた連中は漢那[憲和](大佐)や照屋[宏](工学士)や当間[重慎?](前区長)や真境名[安興](笑古)などであつた。
「龍文」沖縄師範学校附属小学校創立四十周年記念誌(大正10年11月20日発行)所載。

http://www.webmtabi.jp/200709/theses/okinawa_ifafuyiu_watashino_5.html


下のリンクは養秀同窓会にある「国学・一中出身者同窓生リスト」です。
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