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きぶんじゃ川・三原川の改修工事

65年の建設事業計画で取り上げた川の改修工事の区間を図示してみます。

きぶんじゃ川は、真和志三原、大原の開眼橋、三原橋、振興橋を通り安里川へ注ぐ(略)素堀のままとなっているため、流水の浸食が激しく、流域の住宅が危険な状態にある。65年度においては、安里川分岐点から振興橋間の 485メートルを改修を行って、都市防災を予防することになったもの。
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三原川は松川小学校前より真和志2号線間を流れているが素堀のままとなっている。このため大道練兵橋から上流、真和志2号線までの465メートルを改修する計画を立て(後略)
市民の友 1964年1月15日 第165号(抜粋と編集)


図の上が三原川、下がきぶんじゃ川、図内のポインタは振興橋(A)、練兵橋(B)、繁多川交番(c)、真和志支所(D)です。
真和志2号線については別記事で「真和志支所前から、繁多川交番にいたる真和志2号線」とあるんですが「大道練兵橋から上流、真和志2号線までの465メートル」となると条件が合いませんので繁多川交番から沖縄工業高の道も真和志2号線だったのではないかと思われます。

戦前相当の真和志民俗地図を見ると上図の範囲内に集落の表示はありません。また現松川小学校はサクマ森(一帯は佐久間原)、練兵橋から松川小学校に向けては射撃場があります。
真和志民俗地図ではけぶんじゃ川はクチャガーラグヮー、三原川には名前がありません。
参考:グダグダ(β) 練兵橋
参考:グダグダ(β) 二又原(松川)
参考:グダグダ(β) 字大道の原名(南)(佐久間原)
沖縄主要都市地図(1958年)では練兵橋から松川小学校までしか道はありません。
戦前は畑に素堀の川が流れている状態だったので問題はなかったが、戦後の爆発的な宅地化で改修が必要になったという感じでしょうか。

けぶんじゃ川はケブン川原(識名)に源を発し、三原川は筆山(繁多川)近くの石田ガーが水源ではないかと思われます。
それと三原川は戦後の便宜的な呼称でではないかと想像します。
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知事公舎周辺(50年代)

まちのたね通信から50年代の知事公舎周辺の空撮写真。

那覇まちのたね通信 | 那覇(航空写真)/安里、栄町上空から壺屋、寄宮、与儀方面を望む/戦後/1950年代
http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=1861


クローズアップ。
左写真は安里から古波蔵方向への撮影なので右写真とは上下が逆になっています。

50年代ですでに区画も道も現在と殆ど変わりませんが、戦前のこの一帯(宮城原)は農業試験場用地なのでほとんど無人でした。イユサギ毛には小さな集落があります。
1の区画の大通り沿いには与儀十字路(60年代)であつかった店舗群がすでにあるようにも見えます。

農業試験場(農事試験場)はもともと与儀部落の耕作地だったようです。
参考:グダグダ(β) 与儀の暮らし

牧志中央通り(52年)

沖縄主要地主要商工年鑑(52年)での牧志中央通り(第十五図)。右図はその範囲を示したもので、図中の店舗等はゼンリン地図69年版から。

1は国際通りから前島向け。
わかば美粧院(角)、嘉数商店、グリンホート写真館、相互自動車株式会社、なかち食堂、すたいる理髪館、道をこえて上原商店、丸昇商行(洋品雑貨)、道をこえてやまき商会、宮城商店、東恩名タタミ工場、先島館、東和理容館、茶甚商会、比嘉自転車店、金城製靴修理所。温泉マークは湯屋と書かれています。
そのほか今村高等洋服店(f)、翠明館(g)

2も国際通りから前島方向へ。
牧志派出所(角)、屋良商店、○那嶺商店、みなとや食堂、白ばら食堂、奥原菓子店、村田金物店(角)、1ブロックこえて兼城雑貨店、我那覇金物店、青年会館(角)、道をこえて久高家具店、嘉数商店、三和オフセット印刷所、沖縄石灰工業所(角)
崇元寺から沖映通りに抜ける道(十貫瀬)は「牧志通」と書かれています。上左図中で牧志通りにある温泉マークは牧志湯、そのとなりは那覇鉄工所(a)となっています。そのほか外間医院(b)、英文堂印刷所(c)、高良洗濯屋(d)、入船旅館(e)

上右図に書いてある店舗名はゼンリン地図69年版にあるもので、上左図の入船旅館と右図のホテル入船が同じ店舗で同じ敷地であったのかはわかりません。
また上左図での青年会館は上右図での「第五区青年会館」と同じ敷地ですが、これは牧志部落の所有物なんでしょう。

沖縄劇場通りの写真(50年代)

沖縄劇場通り(50年代初期)の続きのようなものです。下画像はまちのたね通信にある50年代のひめゆり通り空撮写真に加筆したもので、栄町(手前)から古波蔵方向(奥)へ向けて、北東から南西方向への撮影。

那覇まちのたね通信 | 那覇(航空写真)/安里、栄町上空から壺屋、寄宮、与儀方面を望む/戦後/1950年代
http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=1861


手前の栄町部分を拡大。

一番右の通りが330号線、その隣にある道が沖縄劇場通りです。この写真では現在は駅がある箇所に店舗が建ち並んでいた様子が写っています。
店舗名等は沖縄劇場通り(50年代初期)を参照して下さい。

母子センター通り(69年)

ゼンリン地図69年版での母子センター通り。ピンク色で示した箇所は店舗などの商業関連です。
商店、風呂屋、電気店、食堂、パン屋、プロパン、小鳥店、鮮魚店、理髪店、美容院、化粧品店、履物店、質屋、文具店、玩具店、菓子店、クリーニング店、精肉店、薬局、洋裁店、印刷所、畳屋など。

知事公舎近くということもあってか公共的要素をもった施設がいくつかあります。
宮城原保育園は実業家の金城キクさんが1962年に設立されています。

以下余談。
宮城原の範囲。宮城原は1947年に開放されています。
寄宮
戦後住む場所が無くなってしまった人達は寄宮一帯ほかに移住しています。

現在の新都心、天久・銘苅はいったん開放されていたところを1951年に再接収されています。銘苅にあった銘苅御殿(拝所)は義肢補装具製作所の向いあたりに移されましたが、新都心が整備されてきたので元の場所に戻ったようです。なんですが寄宮の銘苅御殿(跡?)もきれいに掃除されていて現在も拝みに使われているような雰囲気なんですよね。このへんはどうなっているのかよくわかりません。

戦前の一帯。
宮城原はもともと与儀の耕作地だったようですが、戦前に農業試験場用地になっています。公用地なので公的施設などが作りやすく、移住にもすぐ対応できたんでしょう。
47年頃の寄宮
1947年頃。この図は米軍の空撮をもとに作成された那覇市復興地図を模写したものです。
1947年に宮城原が開放された当初は真和志村役場周辺を中心として人が住んでいたわけです。図中赤で示した道は45・46年の地図には存在しませんが47年になって出現しますので、おそらく開放と同時に作られたのだと思われます。この時期は神里原が一番の繁華街だった時期でもあります。

土地収用による行政主導の移住ですから、区画も碁盤目でつくられていて敷地もだいたい一定です。

那覇まちのたね通信 | 那覇(真和志村)/与儀試験場地内移動部落/1950年6月8日、米軍は天久、上之屋一帯の立ち退き命令を出した/写真の移動部落は現在の寄宮1丁目辺り/中央の森は知事公舎裏
http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=1804

国際大通り(52年)

沖縄主要地主要商工年鑑(52年)での国際大通り(第六図)。

店舗名。
1はガーブ橋(むつみ橋)から安里方向(上)へ。
石垣自転車店(角)、昌栄堂印房、平敷染物店、すこし離れて上原靴店、台湾光隆有限公司、協和商会、上原靴修理所、昌栄堂時計店、喜納商店、西平商店(角)。平和通り(市場通り)をこえて友寄商店(角)、鉢嶺時計店、球陽堂書房、協和バス国際通営業所、国際劇場、井筒屋食堂(角)、道をこえて新開理髪館(角)レディ美粧院、三力食堂、いは製靴店、松本商店、永田屋、ひばり美粧院、沖縄バス
緑色で示した箇所は、オリオン興行(10)、国頭林産(11)、国頭林産の隣りが東洋写真館、向いが琉球新聞社

2もガーブ橋から安里向け。
上原無線、豊田旅館、LIBERTYHOUSE、道をこえてサクラバス本社(6/角)、仲井間自転車商会、新星堂書房、新里商店、大宝館、バスのりば(7)、「雑貨店街・久高材木店(8)」、牧志派出所(角)。道をこえてわかば美粧院(角)、三光ラジオ相談所、真喜志商店、自声堂時計店、銀バス(9)
7は「バスのりば ナゴ、天願、ヤケナ、コザ、石川」となっていて、後には歯科材料竹富商店、土建大城組があります。
そのほか稲福医院(1)、渡嘉敷医院(2)、ギボ旅館(3)、北斗館(4)、沖縄製瓦株式会社(5)。書き込み忘れたんですが5と6の中間に丸幸冷凍所

LIBERTYHOUSEは琉球貿易(現りうぼう)がやっていた店だと思われます。1951年の沖縄商工名鑑から引用します。
琉球貿易商事
取締役社長 宮里辰雄
輸出入貿易島内販売運輸
本社 那覇市崇元寺通り
支店 八重山・石垣市
琉貿直営外人向けお土産品販売
リバーティハウス
那覇市国際大通り


リバティハウスやさくらバス周辺の写真も残っています。

那覇まちのたね通信 | 那覇(国際通り)/国際通り リバティイハウス/1951年
http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=1741


那覇まちのたね通信 | 那覇(国際通り)/国際通り さくらバス待合所付近/国際通り さくらバス待合所(現在の三越)付近
http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=1740

松尾大通り(52年)

沖縄主要地主要商工年鑑(52年)での松尾大通(第二図)。左は元図から南北(上下)を逆転させてあります。

店舗名。
1は国際通りから那覇高向け。
みやぎ自転車支店(角)、万辨舎、少し離れてさかえ理髪館、上村歯科院、松尾旅館、大田製紙店、玉川屋(角)、道をこえて山田タタミ(角)、渡嘉敷タタミ、非鉄金属共同集荷事務所、消防隊、琉台貿易、丸高鉄工所、丸入自転車店(丸八?)、喜久屋ホテル、丸善木工所(角)
2も同方向へ。
国際通り角に南部税務署、その後に天賞堂時計店、レストラン松屋本店(角)、道をこえて謝花商店、宮城高等洋服店、道をこえてきくや、道をこえて儀間本店、喜代家旅館、道をこえて金城商店。那覇高校をこえて末広食堂
そのほか小渡ふとん店(1)、冨士弁護士事務所(2)、沖縄時計商事株式会社(3)、善興堂医院(4)、玉吉理髪館(5)、末広旅館(6)、みやぎ旅館(7)、港ホテル(8)

まだ松尾消防署が国際通り側に移転していません。
上右図中で破線にしてある道は那覇高校のすぐ後の道なのかもうひとつ後なのかいまいちはっきりせず、戦前相当の真和志民俗地図では道はありませんのでよくわかりません。
大和人墓地跡は「那覇市旧跡・歴史的地名地図」を参照しました。

沖縄工業高校

Wikipediaの沖縄工業高校の項がまとまってましたので引用します。

1902(明治35)年6月15日 - 首里区立工業徒弟学校として首里区字当蔵(旧小禄殿内)で開校。
1914(大正3)年4月1日 - 沖縄県立工業徒弟学校となる。
1921(大正10)年6月13日 - 沖縄県立工業学校となる。
1945年4月 - 第二次世界大戦、米軍の空襲により校舎全壊。
1948年4月1日 - 沖縄民政府立工業高等学校として那覇市安謝で開校。
1952年4月1日 - 琉球政府設立により、琉球政府立工業高等学校となる。
1952年12月 - 現在地(那覇市松川200番地/
http://g.co/maps/scdwm)への校舎移転完了
沖縄県立沖縄工業高等学校 - Wikipedia


戦前は首里、戦後は安謝でスタートして1952年に松川へ移動ということです。
現在地は前原(松川)で、戦前相当の真和志民俗地図をみてもなにもない場所です。

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