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下田原/前下田原

宮里一夫さんの「<ウチナー>見果てぬ夢 -宮里栄輝とその時代- 」に宮里栄輝の実家とその所有地について触れられています。

現在の与儀公園一帯は、戦後もしばらく農業試験場用地であったが、そのほとんどが昔は「与儀下田」の土地であり、地名も「下田原」(シムンターバル)と呼ばれていた。ここが試験場用地になったのは、「与儀下田」が広大な土地を有していて、県として購入交渉がしやすいという理由であったからという。この一帯は琉球王朝時代は湿地帯であった。「与儀下田」の先祖はそこを開墾、造成して土地を増やした。[宮里]栄輝の幼時の記憶では「与儀下田」には100人以上の小作人がいた(与儀下田については『球陽』尚泰24年の項に、5代目の送料宮里栄宗が暴風のため部落民が困っている時、米やソテツ等を供出し,上から庶民を助けた功績により勢頭座敷の位を授けられたという記録が出ている)。
栄輝の実家は屋号を「前下田」と名乗った。本家の前の方角に分家して屋敷を構えたので「前下田」という屋号になったのであろう。私[宮里一夫]も中学校迄はそこに住んでいたのでおぼえているが、300坪くらいの屋敷で、大きくて精巧なヒンプンが特徴であった。「前下田」が分家、独立したのは明治に変わる5年前の1863(文久3)年のことだ。宮里与蔵が「前下田」を創設した人で栄輝の祖父にあたる。与蔵の妻カメは陶器で有名な那覇市壺屋の出身で高江洲という旧家から嫁いできた。男勝りの気性で、娘時代には陶器の商売でヘソクリを貯え、結婚後はその金を元手にして現在の那覇市樋川の裁判所や中央公園一帯に次々と土地を買い求め「前下田」の資産を増やした。
p17〜19
「前下田」は2、3町歩(1町歩は3000坪)位の土地を所有していた。分家の際本家から貰ったのは少なく、やり手であった祖母カメが結婚後に少しずつ増やした。当時は1町歩もあれば中の上クラスの農家であったから、裕福な部類に属したといえる。祖父の代迄は1町歩位は自分で耕し、残りは小作に出していた。しかし代替わりしてからはその1町歩位の畑も父親が農業を嫌ったので自分では耕作せずもっぱら住み込みのイリチリー(下男)にまかせた。畜舎の低い二階には常時2、3人のイリチリーが住んでいたというから典型的な寄生地主といったところであろう。
p22
与儀の名門として世間からは裕福そうにみえた「前下田」だが、実体は楽ではなかったようだ。当時実家が没落してゆくのが目に見えるようにわかったという。土地が急激に減り、小作人も減った。砂糖も4、50丁作っていたのが半分以下に落ち、イリチリーもいなくなり、しまいには母が一人で畑に行くようになったとある。
---
では「前下田」の大半の資産が無くなったのはいつ頃か。これは私[宮里一夫]の推測だが、大正末期頃と思う。「前下田」は、祖母カメの働きによって現在の那覇市樋川の裁判所から中央公園にかけて「前下田原」(メーヌシムンターバル)と呼ばれた程の広大な土地を所有していた。そこに従来垣花にあった沖縄刑務所が那覇港の拡張に伴って移転して来ることになった。「前下田」のまとまった土地に刑務所側が目を付けたというのが正確かもしれない。そのほうが地権者が少なくて購入交渉もやりやすかったので。刑務所は1926(大正15)に移転して来ているから売却そのものはその2、3年前といったところであろう。
p27、28
<ウチナー>見果てぬ夢 -宮里栄輝とその時代-  (抜粋と編集)


那覇市が作った真和志民俗地図には「下田原」「前下田原」はありませんがそう呼ばれていたのは確かなんでしょう。土地整理前後での原(はる)の範囲や呼称の変化はよくわかっていないところがあるようです。
参考:グダグダ(β) 原域の変化
参考:グダグダ(β) 土地整理事業と原名

宮里栄輝については別の機会に。
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宮古島の寄留商人

まず寄留。

寄留(きりゅう)は、日本の旧法令で、90日以上本籍外において一定の場所に住所または居所を有することである(寄留法1条)。昭和27年住民登録法(後の住民基本台帳法)の施行とともに、寄留法は廃止され寄留という制度は全く存在しなくなった。
寄留 - Wikipedia


このブログでは戦前の沖縄にいた内地出身商人(やその2、3世)のことを寄留商人として扱っています。戦前の宮古島や石垣島にも本土出身商人と沖縄本島出身商人がいて寄留商人として扱われています。
この区別は外部の人間ということで妥当なものだと思われますし、外部とのネットワークを生かして商売するという構造は本土・沖縄間で商売していた内地出身商人と離島・本島間での本島出身商人では大差ありません。
このブログでは那覇・真和志を扱いますが、離島や県内他地域出身商人は寄留商人としてあつかいません(県内出身者は人物カテゴリです)。

本題ですが宮里三郎で検索してみるといくつかヒットします。

「お店紹介13《山小(やまこ)百貨店》」 松谷初美
山小百貨店は、西里通りにある老舗の店だ。現在の店主、宮里康弘さんは3代目である。創業は明治34年。創業者(宮里三郎)は、沖縄本島から渡ってきた。ちなみにその頃、宮古には鹿児島や沖縄本島から多くの商人たちが入ってきた(いわゆる寄留商人と呼ばれている人たちだ)。宮古には明治30年代には36件の寄留商人による商店や事業所があり、宮里さんの先代もそのひとりということになる。商売をする地元の人は少なかったらしい。
ぱずみゃー(初めは)、雑貨を扱う店、宮里商店として始まった。地元のもの(牛や馬、黒砂糖、宮古上布など)を本土や沖縄本島で売り、本島から米、豆、油、醤油などをを仕入れてきて売っていた。昭和初めには、衣料品、化粧品なども加わり、商品も多岐に渡るようになったので、昭和12〜3年宮里百貨店と名前を変えた。その後、屋号の「山小」に変え現在にいたっている。
くまから・かまから vol.62 [くまから・かまから] - メルマ!

http://melma.com/backnumber_33637_1630598/


1915(大正4)年6月には原田直兵衛、渡辺覚之丞、永田龍次郎、宮里三郎ら寄留商人は、宮古通船株式会社を設立し、数隻の木造小型蒸気船を所有して、平良〜那覇間の貨物運送を始めた。1918(大正7)年、沖泊りの汽船と桟橋間の貨客運送も始めるようになり、これまでになく安全で効率的になった。
第二次築港は1917(大正6)年、同じく上原仁徳ほか17人の商人団から(後略)

http://www.wave.or.jp/minatobunka/archives/report/120.pdf
http://www.wave.or.jp/minatobunka/archives/index.html


宮古や石垣の記録を読めば本島出身商人も探せると思うのですが手が回っていません。
このブログでの取り扱い範囲は次のようにします。

本島在住内地出身商人/Category 寄留商人
※県内出生の2、3世も寄留商人カテゴリ
本島在住沖縄出身商人(現沖縄県の範囲)/Category 人物
※県外出生の2、3世も人物カテゴリ
---
本島以外在住内地出身商人/Category 寄留商人
※基本的に取り扱わず
※ただし本島との関係が濃いものを除く(本店支店関係、本島在住者の2、3世など)
本島以外在住本島出身商人/Category 人物
※現在の那覇市の範囲の出身者を除いて基本的に取り扱わない

木村栄左衛門

大正5年の沖縄県人事録から。
木村栄左衛門さんは木村義雄さんの父になります。

木村栄左衛門
実業家
那覇区西本町1ノ3
君は福岡県小倉市鋳物師町の人、文久2(1862)年を以て生る、亡稲元源平氏の末子にして三兄二姉あり、夙に木村家を嗣ぎて婦人との仲に一男を挙げ、現に鹿児島商業学校に在学中なり。君は幼時郷里に於て漢学を修めしが、爾来深く学ぶことなくして自然に修養を積み、尚ほ余暇を以て独学に勤めたり。明治21年初めて沖縄に来りて池畑運漕店に入り、其店員として十有余年間を恪勤精励し、内外の信望甚だ厚かりしが、遂に同38年を以て独立開業せり。(中略)大正4年10月池畑、杉原の両運漕店と同盟して那覇運送合資会社を組織し、其代表者となりて経営に尽瘁しつつあり、又自宅に於ては各保険会社の代理店を営み、副業として特産たる先島上布類の販売をもなせり。
玉突及烏賊釣に趣味深し。
沖縄県人事録(大正5) (抜粋と編集)


文久2(1862)年生まれだと大正5(1916)年当時は54歳くらいでしょうか。
画像は沖縄県立図書館貴重資料デジタル書庫の「沖縄県人事録/楢原翠邦編(大正5)」からのものです。

【追記】下記サイトの写真が大正3年の木村運送店のようです。

「大正3年の沖縄7 木村運送店」 - オニャンコポンな絵葉書たち - Yahoo!ブログ
http://blogs.yahoo.co.jp/kanemaru1967/47366299.html

香港通り

香港通りという通り名が出てくるのですがどこかはわからないのでメモ代わりに記録しておきます。

当時の糸満は台湾や香港との密貿易の物資集散地となっていた。(略)このヤミ物資を買いにくるのは那覇の商売人。舟が入るとどっと押しかけてきた。
あのころの商売人は、多かれ少なかれ密貿易に関係していた。極端な物資不足の時代で、住民の生活も経済も密貿易で成り立っているのだから、警察も見て見ぬふり。
昭和24年に、那覇の香港通りに店を出した。密貿易人から依頼された品物をさばくためである。店と言ってもわずか1坪の小さなもの。名前の通りこのかいわいは、台湾や香港、本土からのヤミ物資や、米軍基地からの横流れであふれていた。
昭和26年に民間貿易が再開された。それまで外国貿易は政府間貿易に限定されていたのが、貿易庁に権限が移譲されると、だれでも商品輸入ができるようになったのである。いわゆる“LC時代の幕開け”だった。
私はこれを機に[糸満から]那覇に移り、本格的に小麦粉や砂糖などの食料品卸問屋「金城商店」をスタートさせた。
p232、233
金城商事がここまで来れたのも砂糖と小麦粉で基盤を築いたからだった。つまりこの2つが当たったのである。
戦後の混乱期は、食糧確保が第一でキビ作は後回し。また製糖工場も戦火にやられ、ほとんど皆無だった。この悪条件を克服し、昭和26年に大東糖業(宮城仁四郎社長)が戦後真っ先に操業を開始。その翌年には琉球製糖(金城金保社長)が設立された。
この2社の砂糖を独占的に扱ったのが“三羽ガラス”と呼ばれていた糸満の三人の女だった。幸陽商事の金城慶子氏と照屋商店の照屋ウシ氏、そして私[金城カネ]である。香港通りで私の店の両脇にこの2つが並び、3店で競い合っていた。
p234、235
私の戦後史 第五集 金城カネ(抜粋と編集)


昭和27年3月|金城カネ個人商店、当社の前身である「合資会社金城商店」設立、資本金900,000円(B円300,000)。本店、那覇市樋川48-25(通称香港通り)。目的:砂糖・小麦粉・食用油脂・製菓製パン原材料一切、日用雑貨・食料品・果実類の輸入貿易、および卸・小売業。他附随関連する業務。琉球製糖(株)・大東糖業(株)・日清製粉(株)・鹿児島物産化工(株)(水飴)CENTENNIALMILLS(上等パン印小麦粉)、フライスマンベーキングパウダー・ドライイースト特約販売店。
http://www.kinjoshoji.co.jp/company/history.html


おそらく仏壇通りのことではないかと思うのですが...

糸満宿屋/サザエとり

糸満出身、明治44年生の金城カネさんが語る糸満宿屋のようすです。

夏は魚が少なくなるので、那覇の向いにある神山島にサザエをとりに行った。渡地にあった糸満宿屋を根城にして、島で雇い子20人を寝泊まりさせ貝をとる。舟一杯になったら宿屋に運び、代わりに食料を積んで行く。4月から9月まで、ずっとこの仕事が続いた。
サザエを勝手にとることは許されなかった。島の持ち主である渡嘉敷村に金を払い、その権利を買うのである。父一人では小さな仕事しかできないので、3人で組を作っていた。雇い子には、サザエ10斤につき2円の花代をあげた。深い海に潜るだけに配当金も多かったのである。
さてとったサザエの処分は、私たち女の出番。糸満宿屋でシンメーナービにゆで、貝殻と身に分ける。ボタンになる貝殻は「仲尾」とか「くがるん」という海産物問屋の寄留商人が買いに来た。身の方はくしに5個づつ刺し、1本2銭で売った。
夜になったら宿屋の姉さんと、花の辻町にこのくし刺しを売りにゆく。「サザエコーイミソーレー」と呼ぶと、芭蕉の着物に紙をきれいに結った尾類が買ってくれる。これでなますを作って、酒のさかなにするのだった。私の毎日は荒っぽい海の男相手。辻に行く時には何か知らない世界をのぞいているようで胸がときめくのだった。
サザエとりの根拠地にした糸満宿屋は魚の集散地にもなっていた。宿屋の女主人である上原のカナーアンマーは商売にも義理にも強くとても賢い人。それでみんなが頼ったのだろう。伊江島や名護、前兼久から舟が入り「売りさばいてください」と魚を持ってくるのだった。那覇で売られる魚の多くはここに集められていたと思う。
カナーアンマーの力で魚を行商する女も20人はいつも集まった。宿屋はまるでセリ市のよう。その舵はカナーアンマーひとりの手で動かし見事にさい配を振るっていた。
私の戦後史 第五集 金城カネ p222、223(抜粋と編集)


神山島はチービシですが、そこに小屋を掛けて貝をとったということですね。
貝殻を買っていた寄留商人の「仲尾」はおそらく中尾、「くがるん」は古賀(くが?)ではないかと思われます。

金城カネさんは金城商事の方です。
http://www.kinjoshoji.co.jp/company/history.html


参考:グダグダ(β) かまぼこ
参考:グダグダ(β) カマボコヤ
参考:グダグダ(β) 貝ボタン
参考:グダグダ(β) 古賀商店

沖縄漆器株式会社

戦後(50年代初期?)の沖縄実業と文化人名録から。

琉球漆器製造販売
沖縄漆器株式会社
取締役社長 長嶺但貴
取締役 崎山嗣昌、宮平着連
監査役 安慶名克光、米次源次
沖縄実業と文化人名録 p210(抜粋と引用)


米次源次は米次源吉の縁者?
米次源吉は生没年不明ですが1894(明治28)年頃寄留、1932年初版の「沖縄県政五十年」には「米次翁はこの特産[漆器]に対する功労者である」とあるので昭和初め頃まで存命だったことがわかりますが、50年代初期の「沖縄実業と文化人名録」発行当時どうだったのかは微妙なとこではないでしょうか。

泉 長賢

昭和12年の沖縄県人事録から。
※沖縄本島と先島以外の出身者は繁雑さを避けるため寄留商人に分類しています

泉 長賢
米穀商
那覇市西本町5ノ2
君は明治20年を以て鹿児島県大島郡に生る。其初めて本県に来りしは大正8年にて爾来那覇市に定住して米穀商を営み、傍ら醤油醸造工場を経営して今日に及べり。
沖縄県人事録 (抜粋と引用)


昭和12年の「日報の沖縄人名録」では「沖縄味噌醤油醸造業組合」と「那覇米穀商組合」に名前があります。

木村義雄

昭和12年の沖縄県人事録から。

木村義雄
米穀肥料商
那覇市西本町4ノ23
君は本県海運界の先覚者故木村栄左衛門氏の嗣子にして明治32年を以て鹿児島市に生る。大正8年鹿児島商業学校を卒業し父業を継いで今日に及んで居り、現在家業の傍ら、沖縄近海汽船株式会社専務、沖縄製氷会社専務、那覇商運組重役、那覇米商組合長、沖縄肥料商協会長、泡盛移出商組合長、那覇商工会議所常議員等の要職にあり、県下青年実業家の白眉にして令名頗る高し。
沖縄県人事録 (抜粋と編集)


木村義雄さんは鹿児島生ですが父親は福岡出身のようです(木村栄左衛門)。
役職もかなりありますし大物と言っていいんではないかと思います。

関連:グダグダ(β) 那覇長者番付(S12) 2

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