香港通りという通り名が出てくるのですがどこかはわからないのでメモ代わりに記録しておきます。
当時の糸満は台湾や香港との密貿易の物資集散地となっていた。(略)このヤミ物資を買いにくるのは那覇の商売人。舟が入るとどっと押しかけてきた。
あのころの商売人は、多かれ少なかれ密貿易に関係していた。極端な物資不足の時代で、住民の生活も経済も密貿易で成り立っているのだから、警察も見て見ぬふり。
昭和24年に、那覇の香港通りに店を出した。密貿易人から依頼された品物をさばくためである。店と言ってもわずか1坪の小さなもの。名前の通りこのかいわいは、台湾や香港、本土からのヤミ物資や、米軍基地からの横流れであふれていた。
昭和26年に民間貿易が再開された。それまで外国貿易は政府間貿易に限定されていたのが、貿易庁に権限が移譲されると、だれでも商品輸入ができるようになったのである。いわゆる“LC時代の幕開け”だった。
私はこれを機に[糸満から]那覇に移り、本格的に小麦粉や砂糖などの食料品卸問屋「金城商店」をスタートさせた。
p232、233
金城商事がここまで来れたのも砂糖と小麦粉で基盤を築いたからだった。つまりこの2つが当たったのである。
戦後の混乱期は、食糧確保が第一でキビ作は後回し。また製糖工場も戦火にやられ、ほとんど皆無だった。この悪条件を克服し、昭和26年に大東糖業(宮城仁四郎社長)が戦後真っ先に操業を開始。その翌年には琉球製糖(金城金保社長)が設立された。
この2社の砂糖を独占的に扱ったのが“三羽ガラス”と呼ばれていた糸満の三人の女だった。幸陽商事の金城慶子氏と照屋商店の照屋ウシ氏、そして私[金城カネ]である。香港通りで私の店の両脇にこの2つが並び、3店で競い合っていた。
p234、235
私の戦後史 第五集 金城カネ(抜粋と編集)昭和27年3月|金城カネ個人商店、当社の前身である「合資会社金城商店」設立、資本金900,000円(B円300,000)。本店、那覇市樋川48-25(通称香港通り)。目的:砂糖・小麦粉・食用油脂・製菓製パン原材料一切、日用雑貨・食料品・果実類の輸入貿易、および卸・小売業。他附随関連する業務。琉球製糖(株)・大東糖業(株)・日清製粉(株)・鹿児島物産化工(株)(水飴)CENTENNIALMILLS(上等パン印小麦粉)、フライスマンベーキングパウダー・ドライイースト特約販売店。
http://www.kinjoshoji.co.jp/company/history.htmlおそらく仏壇通りのことではないかと思うのですが...
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