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那覇市有地/輸出品目(55年)

那覇市勢要覧(55年)から抜き書き。
市有地の利用割合を円グラフから数値のみ書き出しました。

市有地 276000坪
--------------
軍使用地 3500坪(ママ/35000坪?)
塩田 30000坪
泊埋め立て地 49600坪
拝所 20000坪
賃貸 20000坪
港湾 12000坪
水道用地 16000坪
公園、公共 30000坪
その他 53000坪


拝所が2万坪もあるのに驚いた。軍用地は桁間違いだと思われます。
続いて輸出品目(数値は百の位で四捨五入)。

黒糖 412.2万 (1位)
 1.5万
トマト 6万 (8位)
海人草 16.4万  (5位)
貝殻 56万   (3位)
鰹節 21.5万   (4位)
棕櫚、タバ皮 0.2万
牛馬皮 約4万
泡盛 5.6万
帽体 10.2万  (7位)
宮古上布 3.7万
琉球かすり 0.5万
パイン缶 11.2万 (6位)
畳表 0.8万
くず鉄 138.3万 (2位)
空き缶 2万
空瓶 4万
麻袋 1.5万
-------------
その他 35万


一位が黒糖、二位がくず鉄、三位が貝殻です。
農産物でトマトだけが記載されているのが目を引きます(しかも8位)。そして泡盛はまだメジャーではないですね。
海人草(5位)は回虫の虫下しとして使われるようですから昭和の時代にはニーズがあったんでしょう。今ではなくなってますが帽体(パナマ帽/7位)も結構な輸出額です。
屑鉄も内地の復興ブームには必需品だったでしょうねぇ...
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大島系

下記論文から大島系の商人のことについて抜き書きしておきます。
このあとには宮古系の商人の出世とその後の身の振り方として若狭などでのホテル経営のことにも触れられています。

那覇市商業の形成過程 : 那覇市国際通りを中心に
http://ci.nii.ac.jp/naid/110000979279
昨年は奄美復帰50年(1953年本土復帰)を迎えたが、初期の頃は、奄美大島系の商人が多く、例えば琉球繊維、児玉繊維、天城屋(紳士服専門)、川畑衣料、荒垣商会(化粧品販売)等は、卸・小売商として界隈の業界を牛耳っていた。大島系商人の台頭は鹿児島から大島経由の闇ルートと密接な取引関係があったからであろう。糸満系商人は漁船を使用した台湾から与那国・石垣経由の闇ルートで商機を掴んだ者が多かったようだ。


そのほかむつみ橋の大洋堂とかも奄美系の人ですね。

王の殿(湧田神社)

墓地制限でトゥングヮーマーチューのことを「殿小/トゥン グヮー?」と推定していたんですがすぐ横に「王の殿」があることをすっかり忘れていました。

王農大親 (おうのううふや)
生没年未詳 尚清王の第八夫人の父。領地に神の出現があり、それが王の目に留まるなど徳の高い人物とされる。三重城の築城にも関係する。城岳から奥武山付近までが領地で、領地内の王樋川、王井、王の殿(湧田神社)は、その名にちなむ。

http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-40489-storytopic-121.html
尚清王[1497 - 1555]は、第二尚氏王朝の第4代国王。


殿(トゥン)は拝所ですがどう説明したもんか...

立ち入り制限(2)

立ち入り制限の続き。
抜き書きしてあったノートから立ち入り制限関係を書き留めておきます。

1947年
1月 寄宮十字路の東側一帯と安謝部落に居住許す

1950年
2月 栄町誕生
1953年
10月 国際通りの起工

1954年
1月 泊埋め立て地落成
  壺川、久茂地、若狭の軍用地2.4万坪解放
  具志、宮城両部落の軍用地一部解放
4月 辻町の一部解放
1955年
5月 前島町の軍用地5万坪解放
6月 旧泊、古島区2.4万坪解放
1956年
2月 与儀公園落成
4月 泊二丁目解放
1957年
   漫湖5万坪埋め立て


那覇の立ち入り制限になぜ埋め立て地のことも書いたかというと当時の立ち入り制限地域の多さと土地不足をかなり救ったんではないかと感じるようになったからです。
過去記事のみなと村に55年当時のみなと村の写真があって、それは開南小学校付近から漫湖方面を望むものなんですが更地にコンセットが立ち並ぶものなんですね。当時の58号線付近の写真をみてみると海側(松山、若狭)に何も無いのに対して反対側の国際通り側はすでに市街地化が進んでいます。海側の何も無い少し異様な風景はみなと村からコンセットを取り除いたような風景ですが、その軍用地から1マイル以内は立ち入り制限があるので使える土地面積はさらに減ってしまいます。
那覇(と真和志)で土地が不足する一方土地返還の予定が立たない状況では使用可能な土地の最大有効活用として埋め立てを考えるのは行政として当然のことだと思います。

那覇中学校あたりの道路はきっちり碁盤目になっていますがこれは返還の前にきっちり開発計画が練られたおかげです。主に真和志地区ですが、計画性の無い復興のおかげでスプロールを起こしてしまっている地域と少し住民が落ち着いてから開発された地域との差は激しいです。
しかし開発計画が戦前の道路と違う形で計画されてしまったため東町あたりの旧跡を尋ねる時には道路を当てにすることが全く不可能です(表示はされてるんですが)。
現在昭和中期の建築物が取り壊し時期に来ているのでそのスプロールも解消されようとしていますが、しばらくしたら資料でしか辿れない風景が増えるんでしょうね。しょうがないことではありますが...

古島

真和志間切の古島について抜粋します。

古島は大正9年に真嘉比から分離した。三つのヤードゥイから成り立つ。
•宇久増ヤードゥイ(興南高校付近の十軒)
•渡比屋ヤードゥイ(松嶋中学校付近の約十七軒)
•古島小ヤードゥイ(マカン道付近の俗称マカンジャーラ一帯の約二十軒)
那覇市史資料編第二巻中の7、p50


マカン道は真嘉比道で怪談で有名、真嘉比川原(マカンジャーラ)はマカン道より向こう側の川沿いです。
これらの集落は屋取(ヤードゥイ)のため習慣等は無いそうです。

参考:マカン道(北)
参考:マカン道(西側)

与儀(ユージ)

与儀について抜き書きしておきます。

与儀の地は泉崎湧田に住むものからは「ユージ・クヮングヮ」の併称で知られているだけにそれほど遠い田舎の感じは無く、また実際に毎日の生活物資の供給地でもあった。湧田ヌサチをではずれると古波蔵馬ィー、その馬場をまっすぐ通り抜けて坂を下りてやっと道<後の鉄路>に出てそれを横切って村らしい雰囲気になるところが与儀だった。
那覇市史資料編第二巻中の7、p498


県庁付近から城岳小学校(側に馬場跡も残っています)側を抜け坂道を下り330号線(元鉄道路線)を横切ったあたりの集落が与儀だったということですね。

与儀の本家筋はナナムートゥとて七軒あって現在も同様に繁栄している。
 イー(ラキブチとも与儀巫殿内ともいって高安姓を名乗る)
 ウフ アガリ<宮城>
 ウフ イリ<城間>
 ウドゥンヤー<城間 大東[ウフアガリ]の分家>
 ウフンミ<大嶺>
 シリー<城間>
 シチャナーカ<島袋>
那覇市史資料編第二巻中の7、p499


「ウフ イリ」は大西、ウフンミはそのまんま大嶺ですね。与儀巫殿内(ユージヌンドゥンチ)の屋号のイーは上の意でラキブチは竹葺きのことのようです。
与儀は那覇市内にも関わらず拝所がわりと残っていて祭祀も行われているようです。
ここでは省略しますが那覇市史では続いて各家における祭祀と与儀の拝所について書かれていて、家での祭祀対象に関帝がある家がある。

土帝君や関帝、あるいは天妃(媽祖)などもそうですがいつのまにか本来の信仰理由から離れてしまうのも沖縄らしくて面白い。

河川

那覇の河川についてまとめておきます。
国場川水系、安里川水系、安謝川水系の三つが大きなものとなります。
浦添との境目が安謝川、豊見城との境が国場川、那覇の中心を流れるのが安里川です。安里川は複雑に合流と分岐を繰り返しているのでわかりにくいですが源流は弁ヶ岳です。
那覇水系
源流があるのは弁ヶ岳の安里川、長田のガーブ川、首里辺りの真嘉比川、石田のキブンジャー川です。とはいえ安里川水系では安里川と真嘉比川以外は水がわき出すというよりも排水路のような流れで源流とは少し違うかもしれません。

安里川水系
安里川 - Wikipedia
沖縄県那覇市首里鳥堀町の弁ヶ岳に発し、那覇市と南風原町の境界付近を南西方向へ流れ金城ダムを通過し那覇市松川付近で真嘉比川、那覇市三原付近でキブンジャ川を合流する。

久茂地川は仲良橋付近で安里川から分岐し、牧志と前島の境を西流する。美栄橋付近で潮渡川を分岐し、南西方向へ向きを変え、十貫瀬橋付近でガーブ川と合流する。 

高低差

県立図書館にある海岸線の図です。

そして現在の海岸線と標高図。

小高くなった場所は緑色が濃くなっていきますが、その色で示される地域と旧海岸線がほとんど同じなのがわかるでしょうか。真嘉比川が合流する安里川と長田から与儀を通って流れてゆくガーブーの二つの流れが離れ島だった浮島との間を埋め立てていったんですね。
ちなみにこの浮島は浮島通りとは関係ありません。浮島通りは浮島ホテルというホテルが通りにあったことにちなんで命名されています。

那覇市の「景観行政について | 都市計画課 | 那覇市」にある「第1〜3章」(pdf)より切り出して作成(2012.08.22追加)。

http://www.city.naha.okinawa.jp/tokei/keikangyousei/index.htm

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