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国場の原名

昔の国場の範囲と原名の図を作成してみました。

真玉橋の対岸の瓦屋原が切れてしまいました... あと画像右下の仲井真周辺は旧川筋を推定して書き込んでみました。現在の地図でもよく見ると川だった名残があります。

※訂正があります(10/10/16追記)。国場十字路周辺の境界(溝原と仲井真)ですが、旧川筋と国道507号(旧琉球政府道46号線)の交差するところに橋がありそのあたりが境目になっていたようです。上の図では溝原が東側にふくらみすぎることとなります。それと南側境界線も一部間違っていたようです。
訂正した図と追補もしてあります。(10/10/18訂正済み)


国場の原(ハル)は以下の10箇所です。
  •寄増原(ユシマス原)
  •洗田原(アレーラ原)
  •長田原
  •勝良殿又原(カツラマタ原、俗称カンダバタ)
  •溝原(ンズ原)
  •国場原
  •垣新原(ガチェーラ原)
  •瓦屋原(カラヤー原)
  •後原(クシバル、ウィーバル)
  •前原(メーバル、別名アタンジャ)


出典は国場誌です。
現在も変わらない箇所にある国場集落とその後背部の後原、前方の前原というのは命名がわかりやすいですね。瓦屋原あたりは瓦を作っていましたが戦後の与儀タンクと近年の造成で地形は大きく変化してしまっています。
今回説明していない原名(ハルナー)については次にしたいと思います。
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兼久・前島・泊

兼久・前島・泊周辺の航空写真と地図です。
地図が昭和初期、航空写真が米軍撮影の昭和20年になります。写真は干潮時でしょうか?

安謝川の現在との幅の違いがよくわかります。
戦後暫く経って解放された土地のパターンで泊・前島ともに区画整理されているので旧道と現在の道に関連性がほぼありません。泊は米軍が土地をならしてしまったため名前のついたポイントが跡形もなく消えてしまっています。

※2011.02.10追記
旧道と現在の道に関連性がないというのはまちがいです。わずかですが一応関連性はあり、まったくの無からの開発はありません(天久新都心が無からの開発に近いとは思いますが)。

兼久(前島)

カニクです。過去に兼久というのを書いたのですが... ともかく前島の兼久、塩田だった兼久です。

図は「わったあ兼久/知念良雄」付属図を参考に作成。
兼久は安里川河口の泊高橋交差点脇ですね。那覇の全体図では中央上部の道路が横断している水色の部分になります。

この図でも少しわかりますが、泊高橋以北の昔の道は58号線よりかなり西側を通っており、現在の58号線の上之屋のあたりは泊旧集落の上を通っています。ゆえに泊高橋も現在より海側に架かっています。
そして道筋の細かな違いや兼久集落まで58号線が飲み込んでしまいました。

兼久・前島・泊は戦後米軍の物資集積所や部隊が駐屯し1955年の解放まで暫く待つことになります。その間この地域の米軍は朝鮮戦争(1950 -1953年)のバックアップをしていました。

1947年
1月 寄宮十字路の東側一帯と安謝部落に居住許す
1954年
1月 泊埋め立て地落成
壺川、久茂地、若狭の軍用地2.4万坪解放
具志、宮城両部落の軍用地一部解放
4月 辻町の一部解放
1955年
5月 前島町の軍用地5万坪解放
6月 旧泊、古島区2.4万坪解放
1956年
4月 泊二丁目解放

立ち入り制限(2)より

米軍が埋めたスクラップで大もうけとかそういう話もあります。

寄増原・洗田原・宮城原 2(寄宮 3)

寄増原・洗田原・宮城原(寄宮 2)の続編というか追補です。出典は国場誌。

寄増原(ユシマス原)
地名の由来はマシ(増)が古くは、升でモミや米をはかるところから、転じて田の面積をいうようになり、田の代用語としても使われていた。
寄増原は「球陽」には世伊真世原と表記されている。
国場誌(p 90)より部分引用


洗田原(アレーラ原)
現在では住宅地に代わり昔の面影はない。アレー(荒れたところ)ラ(地の意)ではないだろうか。洗田原は当て字であろう。
国場誌(p 89)より部分引用


国場誌は近年発行なだけあってよく整理されていて資料としても面白いものでした。

寄増原・洗田原・宮城原(寄宮 2)

寄宮
寄宮で説明していたものを図にしました。
那覇市の字、旧真和志市に属する。
1946年(S21)、字与儀宮城原(あざよぎみやぎばる)、字国場寄増原(あざこくばよせましばる)、洗田原(あらいたばる)の3小字で成立。
寄増原の<寄>、宮城原の<宮>をとり寄宮とした。


大原区(寄宮)で取り上げた通り寄増原がほぼ大原区です。原(はる)の境界(寄増原/宮城原)として存在していた道がそのまま現在の寄宮三丁目と二丁目の境目になっています。
この辺りの旧道は、現在は歩行オンリーのような細い生活道になっているところと、新しく通されたバイパスに飲み込まれたところが混在していて、現在の道路と(原の)境界が一致するところと細い生活道のような道が境界であっただろうと推定されるところがあります。

大原区(寄宮)では
>この大原への移住は那覇近郊への解放の第一号で、その後。知念地区・石川地区・田井良地区より陸運関係の近親者や友人達が次々移動して現在の繁栄を来している。
と説明されています。
また、
>旧真和志校の後方の岡で、大石毛という丘陵地のしたの原野地であったがブルトーザで切り開いて平地となし
とされていたことからわかりますが識名・繁多川の丘陵のふもとの原野地で耕作されていませんでした。洗田原の土地柄をみてもこのあたりというのはあまり良い土地ではなかったと思われます。
国場が古い集落で周辺には畑も多数あったのと対照的でもありますし、現在の市街地化した現状からは過去は国場の方が栄えていたというのもわかりにくいものがあります。

このあたりは大きめの道路から一本入ると道が極端に細くなり、おまけに曲がりくねっている上に碁盤目のような規則性が全くないので初めての人はだいたい迷います。
現在古くなった家が取りこわし進行中で空き地が目立ってきていますが、あのままでは(消防法で)新築が建てられませんから地主or不動産業者がとりまとめないとどうしようもないのでしょう。

天久の地縁 3(平野区)



寄宮での平野区に関しては過去に天久の地縁で言及しています。

 >部落は米軍の土地接種にあい上之屋米軍基地にあった村落が現在地へ移住した。 
 >この時平野区は寄宮に移住した。これらは泊と本部方面からの屋取りと寄留民であるから移住後は交際は無い。
 >東原に三十戸ほどの首里出身の屋取り(ヤードイ)があった。
 >平野区は泊との境界付近に本部方面の出身者が集まっていた。 



東原に三十戸ほどの首里出身の屋取り(ヤードイ)があったというのは旧真和志市北部ハルナー図の泊付近にある東原(あがりばる)でしょうか。
それと 天久の地縁 2で触れたように自治会として独立存続もしています。

気になるのは屋取りと寄留民という記述ですが、上之屋で引用したことを思い出すと少し納得がいきます。
 >天久から分離独立したのが大正九年であったがいわゆる屋取部落とは内容的に違っている地域である。
 >それが、那覇と中頭、国頭地方をつなぐ乗り合い馬車の駐車場が置かれてから、与那原や北谷方面からの移住者があり、
 >また泊方面から自然膨張的に上之屋区域に移り住むようになって(真和志)北部の一拠点的存在となった。

泊後方や天久の周辺は昭和初期の人口膨張に他地域からの移住と士族の屋取部落が入り交じっていたようです。
屋取部落の住人は士族の出身ということで平民と交わろうとしなかったという話やいつまでもサムレー然としていたという話を良く聞きます。そのような有様では当然のごとく通婚などありえないでしょう。そのような独立性というか孤立性が移住元との交流の無さや移住先での身内交流の維持が継続できる一因ではないかと邪推してしまいます。

岡野区/住吉区(安謝)

戦後の住民移動と定着先が現在でも名残を残している例として自治会があります。
安謝での自治会を調べてみました。

http://www.city.naha.okinawa.jp/jitikai/map_mawasi.htmより引用および編集しました。

天久・銘苅・安謝・泊・安里のハル名には岡野/住吉という原名(はるなー)はありません。

旧真和志市北部ハルナー図

上の「旧真和志市北部ハルナー図」の原図は「真和志市區劃図」という真和志市誌に掲載されていたものを基にしています。真和志市誌には257ページに同名の「真和志市區劃図」で区画図が掲載されており、その図には真和志市における区割りと区名が掲載され過去の安謝には岡野区と住吉区が存在します。
ただし過去の存在地と現在の自治会の管理区域は少し違っています。

画面中央の安謝にある囲った部分は安謝小学校です。
住吉・岡野両区が存在した真和志市誌当時では現在の曙や港町などの埋め立てははじまっていません。図では水色の線の外側(海側)が埋め立て地になります。
那覇埋立図
那覇市のサイトからお借りしている図が良くわかると思います。
真和志市誌より引用します。
岡野区、1946年10月、松岡(政保)氏が工務局長時代復興計画をなし、工務関係の資材置き場として旧ブタノール敷地4万5000坪を解放してもらい安謝資材集積所を作り、日本より輸入して来る民用の資材集積を為し、さらに製材工場を造り、規格住宅を各地区に配給するため工作隊二百名以上の作業員が5、60の住宅を持ち、外に合宿所を作って、移住して以来、この工作隊の関係者が次々と移住して今日の部落を形成するようになった。岡野という名称も、岡の上の野原に自然部落が出来たので岡野と称えるようになった。

住吉区、旧那覇市・垣花・住吉町の人達が、垣花全体が軍に接収され、土地を失ったので、安謝の海岸一帯に部落を作り、移住し、旧名称のまま住吉区と唱えることにしている。
真和志市誌 p275

両地区の成立は岡野区は復興のための工作隊と家族の移住、住吉区は土地接収から移住という理由のようです。
また隣接する安謝・天久ともに古い集落のため独立性が高いのでしょう。

フチサ(フチシヤ 淵佐)

真和志市誌より引用します。

フチシヤ(淵佐)
湧田の郊外、古波蔵の南涯、漫湖に望んだところで、眺望、広闊、那覇人士の遊観の地として良く知られたところである。続にフチシヤと称え「淵佐」の字を充てることもあるが、実はフチシヤは淵下の意であろう。崎山御殿の南表にもフチシヤがあり、真和志村字上間の淵下原(ふちしゃばる)等みな同じ義で、方言「フチ」とは、懸崖の義でフチシヤは崖下というに当たっている。
真和志市誌 p80


以前フチサは地形に因する名前だったように記憶しているが忘れてしまったと書いたことがあったのですが自己解決しました。
場所は下記の図の通りになります。
古墓群
上間にある断崖のふもとの淵下原(ふちしゃばる)、首里金城町のフチサ、そして楚辺のフチサ。いずれも地形から来る命名でフチシヤ、フチシャ、フチサは変化の範囲内だろうと思われます。

関連:グダグダ(β) フチサ(フチシヤ 淵佐)

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