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嘉手納並裕

沖縄タイムス社の「私の戦後史 第5集」から角萬漆器社長の嘉手納並裕さんの経歴を要約してみます。

嘉手納並裕
明治42年若狭町生、父並芳、母カマドの長男。
生家は「ヌイムンカデナー」という漆器問屋で職人をかかえて生産もしていた。
那覇尋常高等小学校、沖縄県立工業学校漆工科卒、卒業して17歳で内地に行きあちこちで修行、昭和4年20歳で帰郷する。昭和10年再度上京し昭和14年に帰郷、その後昭和15年徴兵。
昭和20年広東で敗戦、翌年横須賀で復員。宮崎へ向いそこで疎開していた妻子と再開、その年に沖縄へ戻る。体力が回復しない間の手慰みとして作った廃品利用の筆入れと裁縫箱が評判となり商売のようになる。その後天願の630部隊のペンシャープ班長、その時に暇つぶしで描いた絵が好評でジャンパーに絵を描くようになる。仲宗根宗温の「金武湾デパート」に依頼されものを作りはじめる(材料が無いためペンキ塗り)。
昭和23年那覇へ戻るが若狭町は米軍が使っていたためマチグヮーの外れにあるテント小屋に落ち着き嘉手納漆器店を再開する(一年程前に沖縄漆器や紅房は再開していた)。


落ち着いてからの工場の新設や漆器を廻る苦労話等もありますがとりあえず割愛します。

関連:グダグダ(β) 角萬漆器(嘉手納漆器店)
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ハルゴー・ハルマーヤー

ハルゴー
ハルゴーというのは首里の金城、崎山部落を例にとると魚下附近から嶽下、長良辺にかけては遠畑で個人で毎日畑を巡視することはできないので、ハルドゥナイ(畑隣り)の人々が寄り合ってハルゴーをつくり、作物の盗難があった場合交代して夜中巡視したのである。なにごともなく無事一年が過ぎた場合には金を出し合い会食した。
国場部落ではカツマタ原、カラヤー原、アレー田原、長田原屋(ハルヤー)、クチャンミ原屋があって、それぞれのハルシンカ(畑の地主)が各原、各原屋でハルゴーをつくり、首里から移住してきたヤードゥインチュ(屋取人)に巡視を頼んでいた。各ハルゴーシンカは年一回ヤードゥインチュの家でヌチャーシーして御馳走を食べる習わしであった。
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ハルマーヤー
国場部落では農作物の盗難を巡視する役目の人で、大抵60歳前後の老人が六尺棒を小脇にかかえて、さとうきびその他の農作物に被害はないかと監視して歩いた。
那覇市史資料編第2巻 中の7 p250(抜粋と編集)


原屋(ハルヤー)は住み込んで農耕するための家で、「長田原屋(ハルヤー)、クチャンミ原屋」では屋取人に巡視を頼んでいたということですから、国場の周辺部には寄宮十字路付近以外にも屋取がいたということになります。

関連:グダグダ(β) 戦前の寄宮 (宮城原・寄増原の屋取)

小路と家々 2/釣り(久茂地)

「那覇の民俗編集ニュース」の「小路と家々」の続きです。

隣りに泉藤太郎という靴屋兼風呂屋経営をしていた商人がいたが、頗る口が悪く、県人相手でありながら馬鹿者あつかいし、皆の憎まれ者であった。
近くに大和豆腐店があり、染物屋、計量器の久永があり、当間先生の提灯屋があり、ユミハイチョーチン、波の上祭りになると注文が多く猫の手も借りたいくらいの忙しさ。ニービチに使用するワタブーチョーチン、ミソライパパー[?]と共に、オイク饅頭の三良ウンチュー、たまに本土から来るチンドンヤと、今では笑いの昔話であろう。
アガリヌサチはよい子どもたちの遊び場で広く、対岸のコウガンと石投ギエー、小さい瓦のワレでトントンミー、4波くらい投げるのは上手で平均2波であった。
この付近は満潮になっても泥深で水泳に向かず、久茂地橋の下はナービヌスクで飛び込みに向きどこかのプール同様であった。中には泥を身に塗り黒ん坊になり、帰宅中の一高女の生徒にたわむれるものもいたが、怖いのは一中生であった。彼らに見つかるとドツかれるので橋口からジャブンと姿を隠した。
那覇の民俗編集ニュース(抜粋と編集)

---
当時の久茂地川は満潮になるとクチミチャーとチクラが釣れ、休日ともなれば子ども大人を問わず橋には人の行列であった。たまにはンナトグワーが美栄橋近くまで泳ぎつき潮の減るのも知らず、アガリヌサチで子どもらに棒切れで打たれて捕えられたのを見たが1メートル余りのものであった。
那覇の民俗編集ニュース(抜粋と編集)


オイク饅頭は内地の人が始めたものだったかな?
ところどころわからない単語、読み間違いをしている可能性のある単語がありますのでご注意(引用元は手書きされています)。

小路と家々 1(久茂地)

那覇市史を製作している期間に発行されていた「那覇の民俗編集ニュース」から久茂地の「小路と家々」を引用します。図は「那覇民俗地図」「戦前の久茂地村民俗地図」を参考にして作成しました。

久茂地大通りから才の神に向うと、病院小路の角に勢理客、大田、山田、亀島家があり学校小路は旧藩時代からの士族の学校があり与儀、比嘉、冝保と大家が並び、更に大通りには名渡山、中里、宮古宿小路があり、宮古在番の宿があり、古屋門で200坪ばかりの土地に老朽化したカワラブキのいかめしい建物があった。
ウエヌヒラには南風原、我謝、伊差川、譜久原家と、その通りは右は病院小路に、左は才の神の寺グワァー前に市長宿舎があり、明治末期の区長、当間重慎氏の手により完成したものであった。
また大通りに出ると、小沢書店があり、沖縄での教科書の元売所で、新学期になると行列になった。
向いには西平小小路があり、ブリキ屋、家具、金細工、製粉、久茂地饅頭の本家があり、ハーモーウクサンは一人暮らしであったが駄菓子屋で、モチヤガラスのひょうたんに入った赤いニッキーは庶民の子供たちに人気があった。
下駄屋、菓子屋、掛絵、判○屋は軒を並べ寄留商人で福田のランプ屋があったが、長女は先生、次女は身体障害児であったが頭がよく店で客を相手に商談し、足でそろばんをはじきジンモーキヤーと噂され、持参金づけで沖縄ムコを探しているとのことであった。
那覇の民俗編集ニュース(抜粋と編集)


ウエヌヒラは下の図(沖縄志/伊地知貞馨)では「上ノ平」としてあり、上図での箇所とは異なっています。


才の神の福田ランプ屋の主人は福島県出身で立志伝中の人でした。
参考:グダグダ(β) 才の神(セーヌカン)

最初の図で饅頭?と書いてあるのは久茂地民俗地図で「山田 餅屋」と書かれています。
「名渡山」というのは名渡山愛順・愛擴の名渡山家だと思われます。

名渡山愛擴 - Wikipedia (画家、染織家 1932-2011)
名渡山愛順|作家紹介|美術館|沖縄県立博物館・美術館 (松下町出身、画家 1906-1970)

仲地唯謙・唯隆(地蔵仲地)

大正5年の沖縄県人事録から。
画像は沖縄県立図書館貴重資料デジタル書庫の「沖縄県人事録/楢原翠邦編(大正5)」からで、切り出して画像加工してあります。

仲地唯謙
那覇区会議員
那覇区上泉町3ノ9
那覇区泉崎なる地蔵堂の辺り、宏荘○○なる邸宅あり、是れ県下屈指の富豪にして多数の土地家屋の所有者にて、人呼んで地蔵仲地と云ふ、同家の祖先は首里より出でし貝氏にして、俗に久米仲地とも称せり。君幼にして父君を喪ひし為め現商業銀行頭取たる伯父唯隆君同家監督の任に当り、自体其全権を鞅掌して維持経営に努むる事年あり、君は大正4年を以て遂に家督を相続せし今尚ほ同居し居れり。明治19年泉崎の邸に於て生る(中略)同45年に帰郷し(略)遂に家業たる質商を止めて今日に至れり。
沖縄県人事録 (抜粋と編集)


---
仲地唯隆
那覇商業銀行頭取
那覇区上泉町3ノ9
君は那覇区泉崎の素封家として、金権と名望区内に普く、銀行家として敏腕の誉高し。明治5年を以て生る、唯順氏の三男にして、同17年分家して一家を成し、現に五男二女あり。(中略)其趣味としては養鶏を好み、其上泉町の邸宅には数十の矮鶏[チャボ]を飼養し、黎明床を出するや、先ず其鶏鳴を聴いて楽しめりと、邸内珍草異木多く、又盆栽をも好むといふ。
沖縄県人事録 (抜粋と編集)



上泉町(湧田)の旧家出身者ですね。

山里永昌

大正5年の沖縄県人事録から。
画像は沖縄県立図書館貴重資料デジタル書庫の「沖縄県人事録/楢原翠邦編(大正5)」からで、切り出して画像加工してあります。
山里永昌
県農工銀行書記
沖縄県士族
那覇区上之蔵町2ノ26
社会凡百の職中最も華々しきは実業界の闘志にして、就中金融経済の事務を鞅掌せる銀行員の如く高尚なるは他に少し。由来沖縄に於て斯界に人を俗に白足袋連と称せり、而して交際場裡の華として重きを為されつつあり。君は多年を斯界に貢献して声望甚だ高し、適材を以て推称すべき一人格たらずんばあらず。
明治10年を以て那覇区上之蔵に生る。故父永錫氏は○に那覇区会議員として貢献少からず、又県農工銀行創立の際委員として奔走努力し、創立後第1回の取締役に推薦せられ、斯界の重鎮として嘖々たる令名ありき。君は其長男にして夙に家督を相続し、既に三男三女の児を挙げたり、其学歴と称すべきは専ら之れを家庭に於て為し、初め師に就きて漢籍を修めしかど、別に成規の学業を履むことなくして多くを独学自習なし、終に今日を成せる希有の天才なり。長ずるに及び父君の意志を享けて銀行家たらんことを志し、明治33年を以て県農工銀行書記となり、爾来十有七余年の長きを孜々として鞅掌精励し、現に其計算主任として信望甚だ厚きものあり。而して君の家は代々資産家を以て称せられ、多数の地所及家屋を所有して其生活甚だ富裕なり。資性温厚篤実にして恭謙、極めて義理人情に厚く、又交際に長じ和歌及園芸の趣味あり。清秀端正なる要望、従容閑雅なる風采を有し、人格高潔なる好紳士なり。
沖縄県人事録 (編集と抜粋)


http://archive.library.pref.okinawa.jp/?type=book&articleId=50102

この人は山里永吉の父ではないかと思います(参照:山里永吉関連)。

勢力(雑誌) 明治40年

画像は沖縄県立図書館貴重資料デジタル書庫の「勢力 第1号-第4号」からで、切り出して画像加工してあります。

http://archive.library.pref.okinawa.jp/?type=book&articleId=61179
自転車についての連載があるのでたぶんこれは自転車ですね。

奥付には発売所として久米の坂元、久茂地の小澤、新年挨拶には金城清松や饒平名などのお医者さんの名があります。

参考:グダグダ(β) 坂元栄之丞
参考:グダグダ(β) 小沢朝蔵
参考:グダグダ(β) 青山書店/小沢書店

中島嘉次郎/吉村貞/藤井本店

画像は沖縄県立図書館貴重資料デジタル書庫の「勢力 第1号-第4号」からで、切り出して画像加工してあります。
明治40(1907)年に沖縄で発行された雑誌に掲載された広告です。

洋服調進所 那覇区西警察署通 中島嘉次郎

那覇久米清容館 写真師 吉村貞

那覇区字東1680 県下ニ於ケル呉服商ノ元祖 藤井本店
首里区字當蔵 藤井支店

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