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ドウグヮーと鉦打ち

引き続き内間誌からですが葬送の項目に「ドーグヮーヤシチ」というのが見えました。
以下抜粋して引用します。

幹事
ダビ一切の面倒を見る。棺桶を買いに行く人(上之屋にあった)。

カニウチ(ニンブチャーとも言った)
何某が死亡したということをグソーにお知らせする意味だと聴いている。門の片隅に座を作って鉦をつるして葬式が終わるまで鉦を叩く役、ドーグヮーヤシチ(クニンダ)に行って頼んで来た。一人から二人であった。

坊さん連絡
約束の時間になると徒歩で来てお経をあげてくれた。一人から三人であった。末吉遍照寺の住職が来てくれるのが多かった。

出棺
ヤーゼー箱(葬式に必要な小道具入れ)持ちが先に行く。しばらくして頭に白紙を巻いた傘をさして個人の位牌、つづいて相続人とお坊さん、親戚の男、一般会葬者の男、コー、親戚の女(泣き人)、一般会葬者の女、最後にティンゲーを持ったカニウチと続いてゆく。
(略、墓におさめてから)坊さんがお経をあげ、供物を供えて会葬者が手を合わせて冥福を祈り、最後にカニウチが手を合わせ鉦をならして「後生極楽ウトーイミセービリ」と結んだ言葉が印象的であった。
内間誌 p73(省略編集)


興味深いのは棺桶を買いに上之屋へゆくというところと久米村の堂小屋敷に鉦打ち・ニンブチャーを頼みにゆくというところでしょうか。ニンブチャーは引用した通りのことをするのですが半ば賤民扱いされていたようです。

鉦打ちやニンブチャーはよくわからないので保留にしておきたいのですが、那覇近郊部落の葬儀で久米村まで呼びにいくなら真和志などでも同様であっただろうなと思います。
ニンブチャーやチョンダラーは本等もあるようなので読んでみてから考えます。
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テングヮンマタ

内間の端にティングヮンマタという道があります。天願又でしょうか。
図の一番右側で330号線付近になります。
内間旧跡
内間部落の中心部から沢岻に向けてゆく道ですが遊び場でもあったようです。ここでは内間だけでなく那覇・真和志・首里も含む周辺部落の人間が集まって毛遊びに興じたとこに注目したいと思います。

若者達の毛遊びの場所としてよく利用された。月の晩には近隣の部落からも若者達があつまってきた。沢岻、経塚、首里の平良、末吉、真和志の銘苅、古島、安謝、遠くは天久、泊、お隣の勢理客、仲西、宮城等...
道の真ん中に円座になり二才達(ニーセー)が弾く三線にあわせて娘さん達が唄を歌い、二才達は我先にとメーカタ、踊りに夢中になって遊んだ。時には格闘に近い争いになることもあって、夜中の三時頃まで続いたが若者達は何時の間にかどこともなく消えていった。
内間誌 p65(一部編集)


首里は平良、末吉。
真和志は銘苅、古島、安謝、天久、泊(那覇)。
浦添は勢理客、仲西、宮城、沢岻、経塚。
浦添
こうしてみると那覇近郊の農村で人間の交流はあったわけですね。内間誌の別箇所からそれがうかがえる箇所を引用したいと思います。

一年中を通じて若者達の寄り合いの場で、夜の早いうちはマーイシを待ったりして時を過ごし適当な時刻になると毛遊びに連れ立っていった。更に書き添えておきたいことは、沢岻、安波茶、仲間辺から泊市場へ農産物を販売にゆくときの中休み所であって、朝の九時、十時頃になると上記の部落の主婦や娘さん達が甘藷(イモ)、野菜等をいっぱい入れたバーキを頭に載せて次から次へとやってきて道路沿いの石垣に荷物を降ろして十分、二十分と休んで元気を取り戻して泊市場へ向かっていった。
内間誌 p65
前道(メーミチ)
部落内を流れる川に沿って、中の橋を中心にして東西に百メートルくらいづつ伸びている道路が前道で、中の橋西側の小広場が内間の中心的場所でいろいろの行事がここで行われた。
内間誌 p65


これは内間部落の前道(メーミチ)に関しての記述です。浦添の村から市場へゆくには安謝川を越えなければいけないのですが、交通の要所であるその橋を中心とした部落の内間では通行する人間同士自然とお互いに顔を見知っていたと推察できます。
昼間顔を見たことのある人達が夜は毛遊びの場で一緒になるわけですからそれは盛り上がるでしょうな(笑)。

ブタジョーグーのうちなーんちゅも年がら年中食べていたわけではありません。現在のように大規模な養豚も行われておらず各家庭で飼っていた豚を潰すのは盆と正月が主です。那覇では肉市場もあり小さく切られた肉を購入することも可能であったようですが一頭丸々潰すとなると保存食にする分も含めて大掛かりで日常で行うには大変です。
盆正月などの肉を口にする機会を楽しみにしていたのがうかがえる文があったので引用させて頂きたいと思います。那覇ではなく本部でいわゆる田舎の話ですが、「田舎」といっても那覇・泊・首里(と久米)以外はすべて田舎であって、マチがたち商業と貨幣経済が萌芽を見せていたこれらの地域が沖縄では特異的なのです。
以前に引用した船越義彰さんは大正末年生まれの辻育ちで生粋の那覇人ですが、義彰さんの少年期の想いでと引用した戦前の昭和の田舎の想いでを比較するとよくわかるかと思います。

当時の沖縄の慣習としてお正月用の豚『ショウグワチャー』を一軒で一頭宛屠っていた。中には二軒乃三軒で一頭のところもあった。芋と裸足の時代で、肉類を口にするのは正月とお盆と折目(ウイミ)の時だけであった。
 成長盛り、喰い盛りの高等科一年生の級友達は一刻も早く家に帰りを、トシノユルーの豚肉料理を腹一杯たべたかった。学校周辺の家々からはチーイリチャーのニンニクの葉の香りが漂よい、いやが上にも食欲をかき立てていた。
■II.昭和戦前期 -思い出の記 思い出の写真

http://www.town.motobu.okinawa.jp/schoolnet/motobu-e/100kinensi/sz/sz_omoide_t03.html

マルグムヤー・イリガーラー

現在の安岡中学校ちかくにあった「マルグムヤー」と「イリガーラー」です。

該当範囲が含まれる広域図はこちら。大嶺原と西原の境界は上の図でも少し見えます。
内間の原名
まず真嘉比から現ジミー近くを通り流れてきた銘苅川の河口があります。そのすぐ上流は大きな弧を描き安岡中側に曲がったあとに浦添側に大きく曲がります。その浦添側に曲がる弧は現在と異なりもっときついカーブを描いていて途中二箇所に深くなった箇所がありました。そこが「マルグムヤー」と「イリガーラー」です。
内間誌から引用します。

(内間部落内の)小川は首里ハンザン山から流れてきたもう一つの小川と前の川原で合流して一本の川となる。合流地点から80メートル位下流に一枚石で渡した橋があって、その下流に幅8メートル・長さ20メートルくらいの溜池状をなした場所、ここがイリガーラーである。
夏になると芋を洗うという表現がぴったりなくらい子供達でいっぱいになり、冬はサーターヤーで使役した馬も洗っていた。夕方近くになると釣り人が糸を垂れている姿も見られフナや川エビがよく釣れたようである。

湾曲した川を更に下ると(略)溜池の形をしたマルグムヤーがある。この場所は部落から離れているので子供達の水遊びの場としてはあまりなじんでいなかったようであったが満潮時には海水が逆流して来て20センチもあるチクラ(注・ボラ)がどんどん上がって来た。子供達はマルグムヤーの上流の浅瀬でチクラ取りなどして遊んでいたし、川バラスも沢山取れたので伝馬船もバラス運搬のため出入りしていた。
内間誌 p64(省略編集)


昔のボラ釣りの想いでを書いてあるサイトがありましたがのんびりしたもんですね。
http://www.town.motobu.okinawa.jp/schoolnet/motobu-e/100kinensi/sz/sz_omoide_t06.html
このマルグムヤーあたりを中心としてほぼ等距離に安謝・勢理客・内間がありますからマルグムヤー周辺は内間だけでなく周辺部落の子供達も遊んでいたことでしょう。
また(内間集落内の)合流地点から80メートル位下流に一枚石で渡した橋があってとありますからイリガーラは交通に便利な箇所のそばにあったクムイ(小堀)でもあります。
高シー
写真は安謝橋を勢理客から見たところです。安謝川河口は大分広いですが、マルグムヤー・イリガーラーは<幅8メートル(もあった)>と書かれるくらいですから安謝川は河口以外現在と大して変わらないくらいの幅だったと思われます。

クニンダの正月

久米村では正月はどうやっていたのでしょうか。

大晦日のうちに掃き清め、仏壇前と火の神前を飾り付ける。
明け方に来る若木売りの声に起こされる(若木は縁起物)。
アチホー(恵方)の井戸から汲んできて仏壇と火の神にお供えする。
子供は早く起こされて若水で顔を洗い、着替えて仏壇を拝み、両親に新年のあいさつを述べた。
まず宗家、親戚の高齢者から年始廻りをする。
二日目にはハチウクシー(仕事始め)、子供は書き初めをして仏壇に供える。
三日目には「ミッカ ノ シュク」(三日の節供)で夕食の膳を仏壇に供える。
四日の晩には火の神が天からお戻りになる日なので香炉のある場所には新しい札と聯を張り出してお迎えする。
七日目は「ナンカ ノ シュク」で七草雑炊を仏壇に供える。
出典:那覇市史 資料編第2巻中の7 p109、110(省略編集)


七日目まで書きましたががこのあと毎日ではないけども二十日の「ハチカ ソーグヮチ」まで行事があります(トゥシビーウィエー、ショウニンウィエー、アトゥシビー、ハリヤクとイリヤク、十五日、十六日のお墓参り)。
ほかには「ウビナリー(水撫り)」というのがあり、女性は吉日をえらんでユーチヌサチにお参りしたようです。
では大晦日はどうか。

トゥシ ヌ ユール(歳の夜=大晦日)
赤飯に豚肉のお汁、酢の和え物、ヒルヌファー(大蒜の葉)を夕食、仏壇にも供える。
ヒルヌファーは添え物で食べない。
床につく前にトゥシトゥイクニブ(年を取る九年母)といってシークヮーサー(クガニー)を家財道具一式に一滴ずつ感謝の気持ちを込めておいてやる。これは年を取らすという意味。
夜間トイレに行くのはタブーとされどうしてもという場合にはヒルヌファーを持参した。
またトゥシジリ(歳末の決算)もこの夜だった。
出典:那覇市史 資料編第2巻中の7 p126(省略編集)


那覇市史から抜き出しましたが古老の証言だと思われます。お年玉に一銭から五十銭(かなり多め)をあげたという話もあります。
明治期に近い久米村は衰退が激しい家もあり行事がすべて行われていたわけでもないように思いますが貴重な証言であることには間違いありません。また町方、町百姓、地方の百姓、首里等々すべて違う風習があったと思います。
資料編にはこのあたりも詳しく説明されていますので興味のある方にはご一読をお勧めします。

浦添

那覇の北方で紹介した作戦図を下敷きにした戦前の浦添の集落です。
浦添
戦前にあった県営鉄道の嘉手納へ向かう路線は浦添に内間、城間、牧港の駅がありました。
戦前鉄道

那覇の北方

周辺区域カテゴリで米軍関係でもあります。

那覇の北側、現在の牧港補給地区(キンザー)はどうなってたのでしょうか。
米軍の作戦図はこんな感じです。

499×438 148kb
上の図のフルサイズ版(2200×1933 341kb)はこちら。地名等はフルサイズ版でしか読めないようです。
http://blog.cnobi.jp/v1/blog/user/751a23b69498f4bd20ef6fec98828c36/1293761983
元図は下記サイトにあったものです。
HyperWar: USMC Monograph--OKINAWA : VICTORY IN THE PACIFIC
http://www.ibiblio.org/hyperwar/USMC/USMC-M-Okinawa/


Kuwan、Nakanishi、Miyagusuku、Yafusu、Gusukuma、Iso、Awacha(Nakama)、Dokeshi、Uchima、Jichaku、Machinato
の名前が見えます。
小湾、仲西、宮城、屋富祖、城間、伊佐、安波茶(仲間)、沢岻、内間、勢理客、牧港ですね。
米軍が地名に付けた表示がどれを基準にしていたのかわかりませんが「読み」の方に近い呼び名を付けているのがわかります。時代的な物だったのか漢字なんかより現地の呼称の方が重要だったのかなどいろいろ考えられます。
他の地域だと那覇がナファ、勝連がカッチンになってたりもします。

キンザー建設で小湾部落が消滅しています。小湾部落は河口沿いにありました。
1945年(昭和20)陸軍沖縄南飛行場を接収し米軍の物資集積所として建設
1948年(昭和23)天願から米陸軍第二兵站補給団が移駐
1978年(昭和53)米陸軍から米海兵隊に移管され、キャンプ瑞慶覧から第三海兵隊役務支援本部などが移駐した。
http://ja.wikipedia.org/wiki/牧港補給地区

小湾は見事な石積みで作られた防波堤そばの米兵の写真が有名です(写真は下記サイト等で見ることが出来ます)。


小湾地区の掃討 (浦添市勢理客4丁目)
http://www.okinawa-senjoh.com/kowan1.htm
http://www.okinawa-senjoh.com/kowan2.htm

HyperWar: USMC Monograph--OKINAWA : VICTORY IN THE PACIFIC
http://www.ibiblio.org/hyperwar/USMC/USMC-M-Okinawa/USMC-M-Okinawa-8.html

那覇・浦添境界

真和志の最北部は浦添と接しています。現在のパイプライン(鉄路跡)と330号線付近の境界線を見てみます。

基本的に安謝川が境界線となっているのですが、パイプライン沿いに一部川を越えて那覇市である箇所があります。パイプラインの西側の銘苅赤田原(アカタバル)、パイプラインより東側の古島宇久増原です。古島宇久増原はパイプライン右側から興南高校付近までの地域です。
ややこしいのは字銘苅にも宇久増原があり、銘苅の宇久増原は内間から安謝川を橋で渡りまっすぐすすむ道を多和田原との境界にしています。
※この図は内間誌と真和志民俗地図を参考にしましたが正確な図にはなりませんでした。

気を取り直して那覇側の多和田原。

内間誌p21の図を参考にすると安謝川の改修以前はこの図のように流れていたと思われます。「マルグムヤー」はクムイ(小堀)、イリガーラーはわかりませんが川の途中に水がたまる箇所が二箇所あったようです。現在の流れはこの二点をつなぐように直線的に流れています。
西原・大嶺境界は字内間の原(ハル)の境目です。

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