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青山壮吉(青山書店)

青山書店/小沢書店で東町の青山書店主、青山壮吉について少し触れました。
沖縄県人事録(昭和12)に青山壮吉の項目があったので抜粋して紹介します。

青山壮吉
書籍文具商(青山書店経営)
君は鹿児島県鹿児島市西田町の人、明治15年に原籍地に生る。鹿児島商業学校卒業後直ちに実業につき明治40年初めて本県に来り、書籍文具商を営み那覇市に定住して今日に至る。今や逐年業務を拡張し、砂糖部、石炭部などを兼営、更に砂糖委託部をも併設するに至り、この他諸事業に関係を有して何も隆盛を極めて居り。傍ら那覇商工会議所議員に推されこの常議員なり。那覇信用組合理事、那覇市文具商組合長、沖縄糖業組合幹事などの要職を兼務せり。


いつのまにやら大商人っぽくなっていてびっくりしました。
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採石場

上之屋誌に安謝のブタノール工場あたりで石材を切り出していた証言がありました。

私は安謝部落後方の石山を買い火薬を使用して岩石を割り、間知石や粟石を採掘し、護岸工事用の材料を供給した。工事は壺川・古波蔵の河川工事や安謝川の護岸、さらには与那原の護岸工事なども請け負った。当時那覇には石材が無く、周辺でも天久と安謝に2、3ヶ所あるだけで、とくにコーラルは天久以外にはなかった。瓦葺きの家を造るときの柱を建てる石ヂや粟石を買いに遠く東風平方面からも荷馬車2、3台を連ねてよく来たものである。
しかしこの石山も昭和16年の太平洋戦争勃発で軍のブタノール工場のため接収された。
上之屋誌 p69


同じ構図で地質を書いてみました。参考にしたのは天久誌p5、元の図は「土地分類基本調査ー沖縄本島中南部区域」という県によるもののようです。
※元の図に準じていい加減に書いてあるので大体でしかありません。
安謝の原名(西側)
これを見てみると安謝部落後方の丘から天久一帯まで琉球石灰岩で出来ているのがわかります。また現在の天久自練付近は戦後石材を切り出されて地形が低くなっています(天久誌 p6)。

そういえば潮の崎や雪の崎も地形が変わっていますがあそこも石灰岩だったと思われます。戦後の埋立や護岸工事にはあの辺の石材が必要だったのかもしれません。
埋立の写真を見ると埋め立てる地域の外周に石垣のように石を積んでその中に土砂を運び込んでいます。まちの種通信には埋立風景の写真があります。

那覇まちのたね通信 | 都市計画/泊港南岸
naha.machitane.net/old_photo.php?id=2118

那覇まちのたね通信 | 都市計画/若狭海岸 埋立工事
naha.machitane.net/old_photo.php?id=2117

那覇まちのたね通信 | 都市計画/若狭海岸 埋立工事
http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=2115

銘苅

那覇市史から銘苅の項を抜き出します。

銘苅
安謝から分離して独立行政部落をつくったのが明治42年。多和田原、銘苅原、名護松尾原の三つの小字の結合体であって住民の大半が首里系士族で占めていて、なかなか活気に富み純農家世帯ながら教育熱もありさらにスポーツにも理解の在る真和志屋取部落の雄であった。銘苅には銘苅子を祀ってある銘苅御殿ありシグルクの井(カー)、などがあって由緒床しい部落であった。
那覇市史資料編第二巻中の7、p39


銘苅は銘刈川を境にしたバイパス側一帯(港川原、多和田原、赤田原、宇久増原、銘苅原、名護松尾原)と穂採謝原・兼本原・直禄原です。真和志民俗地図でみると中心は名護松尾原とそのそばにある兼本原に集落の印があります。
図では茶色の線が線路、川がカーブする一帯から330側が名護松尾原、そこから川を越え他安里側が兼本原です。図はかなりいい加減なので大体こんなもんと思って下さい。

安謝誌では拝所や元屋をめぐっていろいろ解釈され、銘苅にあるシグルクガーや多和田巫殿内を安謝でも拝んでいることに触れているのですが安謝から分離した部落なら納得できます。
このブログでは部落の祭祀の起源や部落建立を巡ることがらは具体的事実が提示されず解釈に留まる限りは扱わないことにします(自分に知識が無く判断ができないため)。

天久の屋取

天久の屋取について天久誌から抜き出ます。

天久の屋取部落は東原の低湿地帯に沿うように10世帯余りが存在し、東原一帯に水田、現在の泊浄水場北の丘のふもと一帯を開墾し畑作を行っていたという。
---
各村の山林野(杣山)は当初農民の用益権を無視して国有林野に編入されたが根強い反対によって最終的に民有とされた。
また各村に移住していた士族などの「居住人」が耕作する浮掛地(小作地)の所有権をめぐって居住人と地元民(地人)の対立も発生することにもなった。
首里・那覇に近い真和志間切は浮掛地・質入地が多く、特に問題となったようである。結局土地整理法によって報奨金を支払うことで浮掛人の所有が認められた。
天久誌 p91(編集と省略)


天久の地縁で引用した那覇市史の記述と(世帯数以外は)同じです。
部落は米軍の土地接収にあい上之屋米軍基地にあった村落が現在地へ移住した。この時平野区は寄宮に移住した。これらは泊と本部方面からの屋取りと寄留民であるから移住後は交際は無い。東原に三十戸ほどの首里出身の屋取り(ヤードイ)があった。平野区は泊との境界付近に本部方面の出身者が集まっていた。
那覇市史資料編第二巻中の7 p50


とりあえず今回は天久の本部落と屋取の位置関係、屋取が耕作していた土地の性質と耕作内容が参考になるかと思います。湿地の低地であった水溜原の隣の東原は同じような土地柄です。
平野は戦前からの屋取ではないようですので、天久誌での記述は那覇市史での東原屋取限定だと考えて下さい。
2012年現在平野は区史の発行が予定されているようです。

前島のスクラップ

戦後泊前島一帯は米軍部隊が駐留しており返還されるのは暫く経ってから(55年/一部52年)です。その間に泊部落にあった小さな丘は整地され前島はスクラップ等で埋め立てられました。
この前島に埋められたスクラップは朝鮮戦争時の鉄需要により掘り起こされ売却されます。沖縄全体で見ても戦後の輸出額でくず鉄は大きな割合を占めます(55年で輸出額2位)
参考:那覇市有地/輸出品目(55年)

なお南部戦線への物資集積部門も前島であり、朝鮮戦争への補給基地もこの前島にあった。朝鮮戦争(1950〜53)が終息し前島からの軍用物資は送り返されこの前島東側の柵外の久茂地川に泥土で埋め立てられるように多量に集積された。当時朝鮮戦争景気でスクラップが高騰した時代でこれらの資材を発掘するためスクラップブームを現出したのである。
前島町が米軍から返還される前の1953年頃米民政府土地課長の配慮によって金網撤去をのばし前島塩田一帯の地下埋蔵スクラップの発掘権を獲得し、スクラップ委員会を組織して統制ある発掘を行いこれらのスクラップを販売して当時の金で二百万円余の資金を造成し前島青年会館の建築造成に充当した。
泊前島誌 p41

参考:旧那覇地区の解放順序(52年まで)
参考:立ち入り制限(2)

立ち入り禁止区の境界にあった柵/金網を撤去する日時をのばし、柵内に立ち入る形で前島住民(スクラップ委員会)の委託業者が撤去作業を行えるように配慮したということのようです。
泊前島誌のp421〜p431は「前島スクラップ委員会の活動」となっていて、1955年の請負業者との契約書内容等があります。地主3割、業者が7割の取り分だったようで、業者名は當銘直喜、屋宜宗一とあります。

写真は左が久茂地辺り(54年ごろ)、右が那覇市内の一号線(54年頃)だそうです。
久茂地(54年)一号線(54年)

内兼久周辺(那覇の入り江)

この二つの図には内兼久山(孔子廟後方)が見えます。
唐栄久米村と天妃宮明治初年の那覇

大正末年生まれの船越義彰さんは内兼久をこのように記憶しています。
松尾山とそれに連なる内兼久山は、那覇尋常高等小学校(沖縄テレビ)、そして裁判所(郵便局)、孔子廟(商工会議所)、そして大典寺のあたりから潟原交番前に連なる丘陵地帯で、そこには松山小学校、県立二高女、県立病院、知事公舎、その他県庁のお偉方の官舎があり、松風の音もさわやかないうなれば那覇の軽井沢的場所であった。
なはわらび行状記/船越義彰

堂小・内兼久
いまでは跡形もない内兼久の丘ですが、古い海岸線では内兼久の前は入り江で特に左の図では久茂地川のクランク部分そばの入り江がはっきりしています。
1700年以前の海岸線古海岸線
右の図では浮島だった時代の那覇に「内兼久山」「辻山」の二つが見えます。義彰さんの記憶では「松尾山とそれに連なる内兼久山は、那覇尋常高等小学校(沖縄テレビ)、そして裁判所(郵便局)、孔子廟(商工会議所)、そして大典寺のあたりから潟原交番前に連なる丘陵地帯」ですから現在の松山周辺から内兼久跡までは一帯の丘陵のようですから二つに分けて呼ぶ必要性は感じられません。もう一つの「辻山」の方は辻原墓地一帯の丘陵のことでしょう。
旧那覇にはこの二つの丘と低地でできていて、後年古地図の浮き島の範囲から河川の運んで来る土砂によって周囲が陸地化します(久茂地、美栄橋等の久茂地川沿い)。

内兼久は兼久(カニク)の語意から言っても内側にあったカニクという解釈でいいのではないでしょうか。現在の地形をで考えると久茂地近辺が内海であったというのは考えにくいのですが、冒頭で掲げた二つの図を見ると明治初めの頃は久茂地川の河口が小さな湾のようであったことを示しています。
下の図では久茂地(普門寺)、美栄橋が川側の低地であることが泉崎や牧志周辺と対照的にはっきりしています。
浮島

居住人と村

pdfでわかりやすくて面白いのがあったのでご紹介。

沖縄文化協会 2010 年度公開研究発表会
www17.ocn.ne.jp/~amayo/okbun10.pdf


そのうちの一つ、「居住人と村:沖縄における屋取形成の歴史・社会的背景/玉城毅」から抜粋。居住人は屋取住人、地人は村人です。
参考:イリチリー

(1)近世中期(18世紀)頃より、村内部の階層化がみられ、村には富裕層と貧困層が存在するようになった。そのような状況の中で居住人は農村部に定着していった。
(2)土地整理までの近世的社会制度の下で、多くの居住人は、浮掛地を小作して生計を立てていた。地人からみれば、居住人は社会的な権利と義務を十分に持っておらず、村において弱い立場に立たされていた。
(3)しかし、19世紀初めには富裕な居住人が存在していた例があり、居住人が、仕明地や百姓地の売買や質取引に関与した形跡もある。
(4)土地整理(とりわけ浮掛地処分)によって地人と居住人の対立が顕在化した。
(5)その混乱の時期を経て、居住人は、浮掛地を私有するようになり、自らの社会を形成する基盤を築いた。
近代におけるK屋取の社会的・経済的展開の歴史的背景には、村内部での階層分化と階層間移動という近世農村の流動的な状況があった。このような状況の、いわば隙間に入り込むように居住人たちは定着していったと思われる。K屋取を含むAムラの面積が広いことから、地割に組み入れらなかった仕明地や浮掛地などの土地が多く、居住人が集まりやすい環境があったと推測できる。換言すれば、K屋取は、王府の農村政策としての近世的社会制度にとって周縁的場所だったといえる。


上江洲フミ(料亭那覇)

辻で営業している料亭那覇の本店の歴史をまとめてみます。

昭和25(1950)年 那覇市ガーブ川沿いに「料亭那覇」を新築移転
昭和31(1956)年 那覇市辻に「料亭那覇」新築移転
昭和41(1966)年 料亭那覇本店(辻)米兵の放火で消失、料亭那覇再建
会社案内:料亭那覇 〜伝統琉球のおもてなし〜

http://www.ryouteinaha.com/?men=7


上江洲さんを人事録風にまとめます(参照したのは下記サイト)。
http://www.geocities.jp/yuminuyu/tuji15.html

上江洲フミ(料亭那覇)
大正2(1913)年、八重山黒島生まれ、久米島で育つが辻に身売りされる。平尾喜一に身請けされ第三新鶴楼のアンマー格として働き、首里出身の上江洲安儀と結婚する。昭和20年大分県に疎開するが夫は戦死。
昭和21年12月帰沖、昭和23年から25年まで「金武湾ホテル」、昭和25年ホテルを引き払いガーブ川沿いに料亭那覇を開業する。
昭和27年に辻の土地を購入し昭和31年に料亭那覇を移転させる。昭和28年には東京日本橋に料亭那覇の支店を開業させるが本店が火災にあったため昭和41年に閉店させ焼失した本店を再建する。
平成5年4月に82歳にて逝去。


上江洲さんは「一町村に一軒だけ民営のホテルが認可される」という話のもと金武湾ホテルを開業しているのですが、これで戦後に割と田舎の辺りにホテルがあった理由がわかりました。料理を出すことも可能であったホテル業は辻での技能(調理や芸事)を発揮することが出来た料亭的側面もあったのでしょうか。


図は昭和26年の最新那覇市地図を参考にしたものです(ほとんど模写ですが)。下の横線が国際通りで真ん中の水色がガーブ川(沖映通り)、中央にあるのが料亭那覇です。

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