上之屋誌に安謝のブタノール工場あたりで石材を切り出していた証言がありました。
私は安謝部落後方の石山を買い火薬を使用して岩石を割り、間知石や粟石を採掘し、護岸工事用の材料を供給した。工事は壺川・古波蔵の河川工事や安謝川の護岸、さらには与那原の護岸工事なども請け負った。当時那覇には石材が無く、周辺でも天久と安謝に2、3ヶ所あるだけで、とくにコーラルは天久以外にはなかった。瓦葺きの家を造るときの柱を建てる石ヂや粟石を買いに遠く東風平方面からも荷馬車2、3台を連ねてよく来たものである。
しかしこの石山も昭和16年の太平洋戦争勃発で軍のブタノール工場のため接収された。
上之屋誌 p69同じ構図で地質を書いてみました。参考にしたのは天久誌p5、元の図は「土地分類基本調査ー沖縄本島中南部区域」という県によるもののようです。
※元の図に準じていい加減に書いてあるので大体でしかありません。


これを見てみると安謝部落後方の丘から天久一帯まで琉球石灰岩で出来ているのがわかります。また現在の天久自練付近は戦後石材を切り出されて地形が低くなっています(天久誌 p6)。
そういえば潮の崎や雪の崎も地形が変わっていますがあそこも石灰岩だったと思われます。戦後の埋立や護岸工事にはあの辺の石材が必要だったのかもしれません。
埋立の写真を見ると埋め立てる地域の外周に石垣のように石を積んでその中に土砂を運び込んでいます。まちの種通信には埋立風景の写真があります。
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