天久の屋取について天久誌から抜き出ます。
天久の屋取部落は東原の低湿地帯に沿うように10世帯余りが存在し、東原一帯に水田、現在の泊浄水場北の丘のふもと一帯を開墾し畑作を行っていたという。
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各村の山林野(杣山)は当初農民の用益権を無視して国有林野に編入されたが根強い反対によって最終的に民有とされた。
また各村に移住していた士族などの「居住人」が耕作する浮掛地(小作地)の所有権をめぐって居住人と地元民(地人)の対立も発生することにもなった。
首里・那覇に近い真和志間切は浮掛地・質入地が多く、特に問題となったようである。結局土地整理法によって報奨金を支払うことで浮掛人の所有が認められた。
天久誌 p91(編集と省略)天久の地縁で引用した那覇市史の記述と(世帯数以外は)同じです。
部落は米軍の土地接収にあい上之屋米軍基地にあった村落が現在地へ移住した。この時平野区は寄宮に移住した。これらは泊と本部方面からの屋取りと寄留民であるから移住後は交際は無い。東原に三十戸ほどの首里出身の屋取り(ヤードイ)があった。平野区は泊との境界付近に本部方面の出身者が集まっていた。
那覇市史資料編第二巻中の7 p50とりあえず今回は天久の本部落と屋取の位置関係、屋取が耕作していた土地の性質と耕作内容が参考になるかと思います。湿地の低地であった水溜原の隣の東原は同じような土地柄です。
平野は戦前からの屋取ではないようですので、天久誌での記述は那覇市史での東原屋取限定だと考えて下さい。
2012年現在平野は区史の発行が予定されているようです。
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