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字大道の原名(南)

大道

那覇民俗地図を参考に作成しました。
大石原と伊是名前原の境界はクチャガーラグヮー、佐久間又原(サクママタバル)と真和志中のある赤真加利原(アカマカリバル)の境界は安里川です。

参考:字大道の原名(北)
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上之屋の鍛冶屋

「上之屋の民俗地図」で確認できる上之屋の鍛冶屋()です。オレンジの繁華街の中に三軒あります。
上之屋の鍛冶屋

泊側から崎山カジヤ、崎山カジヤ、石川カジヤです。
泊からの道はまっすぐ伸びておらず上之屋に入る前で大きくカーブしてS字を描きそのあとは現在の58号線と同じようにまっすぐ伸びてゆきます。この大きく曲がったS字の部分に馬車駐車場があり、その道沿いにはそば屋、散髪屋、醤油屋等の店舗が並んでいます。

鍛冶屋さんの証言では那覇の潟原も馬車の収容所であったと記憶されています。潟原は上之屋からさらに進み潮渡橋をわたってすぐで若狭の入り口にあたります。
那覇には田舎から乗り入れて来る馬車の収容所が二ヶ所あった。中頭は潟原(現在の若松町)、島尻は壺川で、蹄鉄師も那覇にいた
沖縄の鍛冶屋/福地 曠昭 p227

鍛冶屋のようす

「沖縄の鍛冶屋/福地 曠昭」から明治41年那覇生まれの桃原さんのインタビューから抜粋します。

桃原さんは甲辰小学校6年を終了して13歳の時に宮平カンジヤーに弟子奉公した。三年間の奉公期間であった。しかし、幼少の頃からフイゴ押しや、横座、メーウッチャをしていた。兄が宮平鍛冶屋に働いていたので頼っていった。

19歳に達したとき、山田有幹氏が代表となって20〜30人の鍛冶工が那覇職工組合を結成した。ある工場に勤めていたが給料を支給しなかったのでやめたこともある。別の工場に就職することについて親方連中から文句や邪魔が入らないように強く申し入れておいた。幸いニシンジョの宮平鉄工所に採用され給料も倍額一円が支給された。
宮平鉄工所では工具の修理が中心であった。安謝のブータノール工場にも一年いて、建築用の金物を制作した。4、5人の鍛冶工がこの工場に雇われていた。
昭和19年、小禄飛行場で三人の鍛冶屋の責任者となって軍の仕事を請け負ったこともある。

戦前那覇には大きな鍛冶屋(鉄工所)としては宮平とかじ原があった。小さい鍛冶屋は久茂地のミンダカリに20〜30軒が立ち並んでいた。全鍛冶屋とも農具を作っていた。桃原さんが働いていた宮平鍛冶屋はニシンジョーにあって風呂の煙突やボイラーを作っていたのである。ここに20人の職人がいて桃原さんは職工長をしていた。
沖縄の鍛冶屋/福地 曠昭 p127〜131から抜粋

鍛冶屋 2

「沖縄の鍛冶屋/福地 曠昭」を参考にすると、下働き(ふいご・鎚打ち)は妻子や弟子にやらせ、弟子は無給で最低3年くらいはふいご(フーキ)、鎚打ち(メーウチ/前打ち)をやり10年程もかかって一人前(立身小)とされたようです。また前打ち工には日当で働く専門の人もいたそうです。
脚の悪い人の就職先でもあったようでインタビューに取り上げられた人のうちにも何人かそういう人がいます。
戦中は徴用され、竹槍の先、刀作り・研ぎ、石斧、荷馬車の車輪、爆弾、手榴弾、カブトなど様々なものを作り、戦後は米軍の下で農機具等の復旧に必要なものを生産していたようです。

他に金物を扱う職業は蹄鉄師や鋳掛屋(ナービナクー)がいたようですが専門が違うためこれらの人達は重ならないようです。

「カンジャーには二種類あってミンダカリ系が農具で首里系は刃物が専門であった」(p123)
「久茂地通りに「ハンジャー・スージ」といって16軒の鍛冶屋が通りの両脇に立ち並んでいた」(p200)
「那覇には田舎から乗り入れて来る馬車の収容所が二ヶ所あった。中頭は潟原(現在の若松町)、島尻は壺川で、蹄鉄師も那覇にいた」(p227)
沖縄の鍛冶屋/福地 曠昭

鍛冶屋

鍛冶屋
わかさ民俗地図」の範囲に見える鍛冶屋(カンジャー屋)です。
(1)宮城カンジャヤー、(2)我那覇鉄工所、(3)漢那カンジャー屋、(4)宮平鉄工所、右下の赤い線はミンダカリの「カンジャースージ」でこれは那覇民俗地図を参照しています。
「沖縄の鍛冶屋/福地 曠昭」の年表から、明治から敗戦までの期間を部分抜粋します。

1908(明治41)年 工場数15(原動力を用いざる工場)
1911(明治44)年 八重山で鉄工所初め(常深熊太郎)
1924(大正13)年 ガス溶接機初めて購入(梶原鉄工所)
1925(大正14)年 首里城正殿改装用釘(宮平鉄工所)
1926(昭和1)年 ミンダカリ鍛冶屋農具制作
沖縄の鍛冶屋/福地 曠昭 p311、312


続いて明治36年の鍛冶屋の分布です。

那覇区33戸(74人)、首里区23(69)
島尻郡28(44)、中頭郡37(62)、国頭郡86(120)
宮古郡7(7)、八重山郡10(20)
合計224戸(394人)
沖縄の鍛冶屋/福地 曠昭 p313


久茂地ミンダカリのカンジャースージには十何軒もの鍛冶屋が軒を連ねていました。また壺川や上之屋にも鍛冶屋があったようですがこれは馬車の発着場という条件のせいかも知れません。
鍛冶屋は下働き(ふいご・鎚打ち)は妻子や弟子にやらせ、弟子は無給で最低3年くらいはふいご(フーキ)、鎚打ち(メーウチ/前打ち)をやり10年程もかかって一人前(立身小)とされたようです。脚の悪い人の就職先でもあったようでインタビューに取り上げられた人のうちにも何人かそういう人がいます。
戦中は徴用され、竹槍の先、刀作り・研ぎ、石斧、荷馬車の車輪、爆弾、手榴弾、カブトなど様々なものを作り、戦後は米軍の下で農機具等の復旧に必要なものを生産していたようです。
また前打ち工には日当で働く専門の人もいたそうです。

他に金物を扱う職業は蹄鉄師や鋳掛屋(ナービナクー)がいたようですが専門が違うためこれらの人達は重ならないようです。ナービナクーの仕事の様子は「沖縄物語/古波蔵保好」に描写されていますので興味のある方は参照してみて下さい。

「カンジャーには二種類あってミンダカリ系が農具で首里系は刃物が専門であった」(p123)
「久茂地通りに「ハンジャー・スージ」といって16軒の鍛冶屋が通りの両脇に立ち並んでいた」(p200)
「那覇には田舎から乗り入れて来る馬車の収容所が二ヶ所あった。中頭は潟原(現在の若松町)、島尻は壺川で、蹄鉄師も那覇にいた」(p227)
沖縄の鍛冶屋/福地 曠昭

チージサガイ

「なは・女のあしあと」からジュリの後半生についてです。

遊郭の家の大部分は那覇の資産家の貸家で、一軒の楼に幾人かの「ジュリアンマー」が数人の「ジュリ」を抱えて同居していた。
資産家たちにとって遊郭は不動産経営の重要な拠点であった。
すべてのジュリがジュリアンマーになれるわけではないから、遊里で働けなくなったばあいは「チージサガイ(辻下がり)」といって田舎落ちをした。たとえば、首里のアダニガー、糸満、与那原、馬天、泡瀬、屋慶名、普天間、嘉手納、名護、本部、塩屋、久米島、平良、石垣、沖永良部、徳之島、名瀬などの「サカナヤー(料理店を兼ねたあいまい宿)」に売られて落魄の晩年を送ることもあった。
なは・女のあしあと p128


おちて行く先にはだいたい港がある場所ですね。人の出入りがある場所にはそういう歓楽街もすかさず出来るのでしょうか。
また金持ちの不動産経営(ダンナ)業は様々な人間がいたようです。

[辻の]ダンナになっている人の職業は、船頭(フナトゥ)、地方の人だったら田畑等不動産をたくさん所有している人、酒屋の主人、銀行山城、カネコウ、新里といった名うての金持ち連中でした。ヤマトゥンチューは少なかったようですが、平尾のスーメー(ご主人)だけは羽振りもよかったです。
なは女性史証言集 p136

いちゃんだゆーぶる

写真集の「むかし沖縄」に面白い記述があったので紹介します。

また夕闇せまるころになると電気会社から流れる湯を無賃風呂(イチャンダ・ユーブル)といい付近の男女が久茂地川に注ぐ溝で浴びる風景もあった。
むかし沖縄 p77


沖縄電気会社は久茂地小学校そばです(橋の位置が現在と違うので注意)。沖縄電気会社では八重山の石炭を燃やして発電していましたから使い終わった蒸気や熱湯を川に捨てていたのでしょうね。
当時風呂屋が普及していなかったわけではありません。

湯屋は2、3年前に比しさしたる増加なく区内の営業者24件なり。
明治40年6月 琉球新報


これは市井雑感という記事で旧那覇の範囲のことだと考えられます。旧那覇の範囲に24軒ですからけっして少なくはないのですが多くの貧しい人達を抱えてもいましたから無料風呂はありがたかったと思われます。
参考:那覇の細民

高倉幸次郎追想録にも記述があったので引用しておきます。

久茂地尋常小学校は久茂地河畔にあった、流れの清い川には魚が泳ぎ、子供たちも水と戯れた。それに久茂地川には名物があった。電気会社から川へ排出される「湯」である。電気会社のモーター冷却用の水であろうか、ちょうど浴場の「お湯」の熱さになって濤々と川へ流れ込むのである。子供たちは、それを「ユーフル(お風呂)」に見なして、時間をかけてたのしんだ。
高倉幸次郎追想録 p199


こちらは那覇の民俗ニュースから「発電所とユーフル」を引用します。

当時の発電所は石炭を使用し、西表炭が主で1ヶ月1回の那覇港着の石炭船は港の伝馬船を結集して、昼夜兼行で荷揚げし、久茂地河の満潮を利用して発電所前に着くと、家族ぐるみの作業を終わると再び通堂へと3日間作業で6円あり、死にものぐるいの儲けジュクと船頭は話していた。
夜になると発電所の機械を冷やした湯を裏から流したが、当時のパナマ帽の盛んな時で、帽子あみたちがイチャンダユーフルとばかりにたくさん集まった。男女の別なく、恩納は着衣のままで浴びたが、機械場の職人が使い残りの重油を排水に流し、悪質なからかいをする時もあった。
7時、12時、6時にはピーピーと時間を告げる汽笛が鳴った。

長作原(古波蔵)

古波蔵の長作原(ナガサクバル)です。


一部切れてますがこの辺りの境界がどうなっていたのかはわかりません。真和志民俗地図では接する壺川との境界をアカバタキーあたりにしています。
参考:壺川

長作原は戦後しばらくの間存在したみなと村の一部でした。

現在の地名で言うと奥武山町・壺川・旭町・楚辺・泉崎・古波蔵の一部である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/みなと村

1947.5.1 楚辺原の一部、美武田原、長作原の一部、阿手川原、赤畑原、那覇市通堂町の一部
1948.4 真和志村の字二中前一区、松尾、県庁前、旧那覇市の上泉町を編入
総面積233234坪になる

みなと村のあゆみ巻末年表

長作原は古波蔵駅から北に向かう鉄道路を境界として真和志村とみなと村に分断され、みなと村の範囲は美田区と呼ばれることになります。長作原と接する字楚辺美武田原(ミンタバル)からとったのかもしれません。
このあたりには美田○○とつく建物もあるようです。

参考:Category/みなと村

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