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瓦屋原(国場)

国場の瓦屋原です。
瓦屋原
ここは地形も道もあとかたも無くお手上げだったので適当に描きました(すみません)。
瓦屋原はその名前の通り由緒正しい場所です。その他の国場の原名については国場の原名を見て下さい。

真和志村字国場の小字に瓦屋原がある。「旧記」の伝える処によれば、瓦の製造を始めたのは支那人で、国場村にいて一女を娶り、真玉橋の東に陶舎を建て、瓦器を製造したという事である。
沖縄地名考/宮城真治

グダグダ 瓦屋

瓦屋原ですが真和志民俗地図を見るとカラヤー毛を中心とした、というかカラヤー毛そのものが瓦屋原のようです、瓦屋原のほぼ中心点が頂になっていますが現在の地形ではそのような箇所はありません。また窯跡の調査発掘もあったはずですが真和志民俗地図には時期的に記載されていません。教育委員会がまとめてると思いますので探してみます。

とりあえず国場の原名は終わったということでほっとしています(笑)。
現在国場と言われて連想する範囲より遥かに広い範囲が国場で寄宮十字路付近も元は国場です。
真和志民俗地図をみると真和志南部は国場・仲井真・上間・識名と連続して集落が続いています。農地が意味を失い都市中心からどれだけ離れているかが便利さの尺度となってしまう現代では当時の土地の価値観というのはなかなかわかりづらいものがあります(国場側の水運なども)。
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古波蔵の原名

古波蔵の原名です。
原の位置は真和志民俗地図、鉄道駅の位置は「酔古ざつがく」さまを参考にしています。
沖縄県営鉄道 与那原線の今と昔を訪ねて
http://www.geocities.co.jp/kikuuj/zatugaku/keibin/yonabarusen1.htm

古波蔵の原名

長作原(ナガサクバル)、兼久原(カネクバル)、行田谷原(ユクタヤバル)です。
東は国場瓦屋原、北は与儀与武門原(ユンジョウバル)と前原と楚辺美武田原、西は壺川(阿手川原・赤畑原)と接しています。
古波蔵部落は湾曲した形をしていますが兼久原の名前の通りこのあたりはカニクで旧海岸線だったのではないでしょうか。

那覇民俗地図では古波蔵部落の脇に「島尻農学校敷地(現古蔵中学校)」と書かれており、写真では川にグラウンドのようなものが見えます。民俗地図の想定は昭和初期で写真は米軍撮影ですからこの期間に埋立をしたのかもしれません。
いままで気がつかなかったのですが与儀タンク跡となっているあたりに四角形の敷地が見えており、これは与儀与武門原の熊本鎮台(俗称ヘイタイヤー)と一致します。
また写真右上にある道は国場から寄宮へ行く道で平行するように与儀射撃場が見えます。
参考:与儀(ユージ) 2

あとわかんないのは国場部落に地図にはない橋が見えることですが...

那覇と松尾の境界 2

那覇と松尾の境界の続きです。
当時の写真で美栄橋と松尾の境界線(ピンク)を見てみます。
美栄橋町

まず新県道(国際通り)が緩やかにカーブしていることがわかります。川向こうの久茂地町と対比すると新県道周辺にはあまり建物が無く、真和志民俗地図でも畑と墓の記号が見られることから真和志村の松尾原は田舎で久茂地川沿いの那覇美栄橋町が都会/住宅地といった構図が見えます。
当時の境界線で見ると那覇の中心部と県庁に近い部分が都会化し、開通間もない新県道が畑と墓地があるだけの寂しい場所であったというのは不思議ではありません。

この美栄橋・松尾の境界線辺りが久茂地になりかつての地名の違いがあったことが不思議に思えるというのは戦後の商業中心地の大移動を反映しています。
戦前は東町を中心として周辺部に当たる土地、戦後はむつみ橋を中心とした商業地から続く国際通りの端でバス交通の要所というポジションに変化しています。旧真和志村の都会化とそこへ繋がる道路と交通網の整備という方向性は現在の那覇市周辺地域の開発とそこへの道路網の整備という形で続き那覇は常に周辺地域への拡大を続けています。

那覇と松尾の境界

現在の久茂地付近は戦前は美栄橋町で一部は真和志村の松尾になっています。松尾が真和志村が那覇に一番食い込んでいて、反対に壷屋は那覇が真和志村に一番食い込む箇所になっていますが両方とも連続する丘だというのが面白いです。
赤い線が那覇・真和志の境界線です。

現在の久茂地一帯の戦前の境目(美栄橋/松尾)は当時の道/区画を境目にしているようで当時の地図だと入り組んだ感じは受けません。
現在の道や区画が戦前と違う理由として、当時は川に平行して道路と区画が造られていることと新県道(国際通り)が完全な直線ではないことがあります。このあたり一帯は区画整理が行われています。

また県庁付近(那覇上泉町)と松尾の境界が当時の県庁の建物とその側の道に沿っているのでこっちもなかなか精確に描くことが出来ません。茶色の道は真和志・那覇両方の民俗地図にでてきて現在も存在する道でこれらから比較して推定しています(のできっちり正確には出来ません)。

参考:旧那覇の町名(東側)

字松尾の原名

那覇との境目、字松尾です。
石川後原・松尾原
ここなんですが石川後原と松尾原の境目が手持ちの図でははっきりしないため描いてません(コピーのため/松尾消防署通りから久茂地小学校に至る通りだとは思うんですが)。
字松尾と周囲の境界線も通りを境にしていません。
•南 那覇高校北の大和墓から樋川原と汪樋川からの水路
•東 浮島通りを斜めに横切り山形屋後方
•北 山形屋後方から久茂地小学校横、久茂地一帯を蛇行して県庁一帯まで
•西 県庁辺りから大和墓まで

なので松尾の境界線はすべて不確かです。
地形を見てみると現在の松尾公園を中心とした丘で小高い地帯です。

南で接する樋川原・神里原を見てみると字樋川が川のそばの低地になっていることがわかります。
樋川原・神里原
北で接する美栄橋町も語源の「新地/ミージ/ミィヂ」のとおり比較的新しく出現した場所です。
参考:新村渠(ミンダカリ)
参考:旧那覇の町名(東側)
参考:内兼久周辺(那覇の入り江)

字大道の原名(北)

大道(北)

字大道の北側の原名です(参照元:真和志民俗地図)。
北側は前田原(メンターバル)、平良原(フィラバル)、赤真加利原(アカマカリバル)、下大道原(シムウフドバル)、上大道原(ウィーウフドバル)です。
東は大道橋から西は崇元寺橋(旧安里橋)までの安里川が蛇行する土地が大道ですね。

参考:字大道の原名(南)

旭窯業所


古波蔵駅のそばにあった旭窯業所について那覇市史に言及がありました。

大正末期から戦前まで古波蔵に旭窯業所があった、そこでは土管、アルコール壷、植木鉢、屋根瓦、陶器等幅広く焼かれていた。
那覇市史資料編第二巻中の7、p362


昭和12年の「日報の沖縄人名録」から。

旭窯業株式会社
本社 那覇市天妃町1の12
工場 市外古波蔵601
専務取締役 坂本栄之丞
取締役 大城昌貞、並川亀治郎
監査役 新里康保、宮城安得
島尻郡真和志村字古波蔵/社員 松下浅市
那覇市上泉町2ノ57/社員 福山彰


同じく「日報の沖縄人名録」の酒造の項から抜粋。「新里康保」さんもおそらく新里酒造の関係者でしょうね。

久茂地町2ノ77/大城昌貞
平良町1ノ21/平良安得


過去記事から。
参考:グダグダ(β) 並川亀次郎(並川金物店/並川商店) (寄留商人)
参考:グダグダ(β) 坂元栄之丞 (寄留商人)

この会社の役員は酒造関係者と寄留商人ですね。

上之屋通り

上之屋通り

昭和17年の上之屋通りです(上之屋誌、p51)。
泊からS字を描いて北へ向かう道沿いに発生した通りで住民に内地系の名前は見えません。

【追記】画像内の文字を書き出しておきます。
謝花(醤油製造販売)、照屋(酒小売)、石川(鍛冶屋)、城間(理髪店)、浦崎(醤油製造販売)、識名(そば屋)、喜納(上間小そば屋)、前田(雑貨)、仲村(鰹節・雑貨)、稲嶺(米・雑貨)、普久原(雑貨・煙草)、崎山(鍛冶屋)、安里(理髪店)、幸地(荷馬車鞍)、仲座(煙草)、大城(ザル製造)、桑江(米・雑貨)、仲吉(履物)、我謝(履物)、崎山(鍛冶屋)、知念(そば屋)、赤嶺(人力車工場・貸し業)、宇久(机・腰掛製造)、仲本(米・雑貨)、浦崎(薬・雑貨)、賀根村(牛乳製造販売)、比嘉(醤油製造販売/トーマ)、比嘉(菓子/タンナファクルー)、津嘉山(衣服)

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