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唐船小堀(明治初期)

左画像は沖縄県立図書館貴重資料デジタル書庫の「沖縄志 巻1/伊地知 貞馨/1877(明治10)」の那覇港図からで、切り出して画像加工してあります。
右図は昭和初期の地図を南北逆転したもの。

下図は「垣花村跡」の「本遺跡周辺の古地図(明治期)」を参考に海岸線を描き入れたものです。

下左図は嘉手納宗徳さん作成の「明治初年の久米大通りの図」、下右図は比較用に昭和初めの地図の同アングル。明治初年の久米大通りでの図を再掲。
明治初年の那覇

渡地が離れ小島であったことや思案橋などがわかるかと思います。
後の通堂1丁目あたりが唐船小堀と迎恩亭、2丁目が明治初期では離れ小島だった一帯になります。

参考:グダグダ(β) 通堂町(昭和4)
貴重資料デジタル書庫「沖縄志 巻1/伊地知 貞馨」
http://archive.library.pref.okinawa.jp/?type=book&articleId=50045
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泊の酒造/酒の特徴/副業の風呂屋

「私の戦後史 第2集」の石川逢篤さんの証言。

一中をおえ、同時に家業の酒造業に専念した。私の幼少のころ渡地で泡盛の販売業を営んでいた父は、泊に酒造工場を持ち、酒造販売に家業を広げていた。
日露戦争のころ、泡盛は度数が強く軍需品原料にもなるというので、泊につぎからつぎから酒造工場が建った。旧家でおカネを持っていたところが、われもわれもと乗り出したという話で、乱立して倒産するのも出て、私が家業を手伝うことには2、3軒になっていたが、大へん不況で、各酒造所はどこも四苦八苦していた。私たちの石川酒造は、父母に私、使用人のウンチューたち2、3人で、こうじ作りから蒸留などすべての製造工程をみていた。そのころの酒屋はいずこも同じ家内工業であったし、大正の初めから昭和2、3年ごろまでは私の家で年産200石ぐらいだった。
p151
泡盛は水が良くなくてはいかんと言われるが、あんまり水が良くて硬度が低いといけない。適当に塩分を含み、硬度もある程度あった方がいいのであって、真水になると発酵したりするのによくない。真水の場合は硬度を高めるために塩をいれるぐらいである。そういうことで、泊は水の硬度も高くて泡盛の製造には適していた。ところが垣花方面の水は塩分が多くそこで作る酒は風味が幾分違っていた。
p152
家業を継いであと大正12年ごろだったか、酒造工場の熱くなった冷却水を引いて、ふろ屋を建てた。ちょっと温めるだけで利用できたので、いわば廃物利用のようなもの、その名も“噴水湯”とし、遠く浦添からも入浴にやってきた。ふろ代は3、4銭だった。
p153
私の戦後史 第2集 (抜粋と編集)


硬度が高い方が良く、塩分などで風味に特徴が出るというのは面白いもんです。首里は硬水のようですから酒造にも都合が良かったのかもしれません。
牧志の宮城亀寿さんも酒造所兼風呂屋でした。

関連:グダグダ(β) 石川逢篤
関連:グダグダ(β) アサヒ泡盛

沖縄物産館/沖縄物産陳列所

同時期の人名録・人事録から。

物産館
那覇市東町3ノ16 田中理一郎
日報の沖縄人名録 昭和12年版


山下昇男
沖縄物産陳列所主
那覇市東町2ノ60
同12年遂に意を決して転業し、本県特産品の積極的宣伝に乗出すべく物産陳列所を経営して今日及ぶ。
沖縄人名録(昭和12年)


昭和4年の番地図を参照して沖縄物産陳列所と物産館、マルメマーケットは住所はわからないので他の図を参考にしました。
沖縄物産館に漆器を卸していた嘉手納並裕(角萬社長)さんの証言では昭和9年からマルメマーケットの2階に沖縄物産館ができたとのことなんですが、別の店舗であったか移動したかのどちらかなんでしょう。

「マルメマーケット」は今のデパートのようなもので、2階に「沖縄物産館」ができたのが昭和9年。経営者は白石武八郎氏だった。
私の戦後史 第5集(抜粋と編集)


もう少し調べないといけないようです...

白石武八郎評(赤嶺百才/月刊琉球  S12)

月刊琉球(第2巻第7号/昭和12年)の「人物立体写真」を引用します。
評されているのは郷軍那覇聯合分隊長の白石武八郎、著者は赤嶺百才(奥付から)です。

時勢といふものは恐ろしいもので、満州事変以来、殊に今度の支那事変となって世は正に軍人謳歌時代、何しろ軍人が居なければ戦争は出来ないから、それは当り前だが、上は大臣から下は微々たる町村の何とか協会に至る迄多くは軍人が或は在郷軍人が音頭とりになつて、神国日本をアジヤの盟主に押進めやうといふ頼もしい時代になつた。従つて国民が軍人に頼る事、子の親に頼るが如く、大道を行進する一隊の軍人に逢おうものなら子供ならずとも「万歳」の一つ位は叫びたくなるのが、此頃の日本人の心境だらう。軍がその気なら支那ばかりか、暴露、暴英ともに懲らすべしと、国民は色々の不自由を承知の上で皆その気になってゐる。かういふ時に郷軍の聯合分隊長といふ要職に就いた人間は、確に何か大物を拾つたと同様な役得である。在郷軍人那覇聯合分隊長白石武八郎は、この役得をした一人である。彼は元来は商人である。商人であるからでもなからうが、彼は社交家であり、その上事務家である。城間、久高、山田と那覇市の聯合分会の基礎を堅めた先輩の後を受けて那覇聯合分隊長の椅子についた彼は、その社交術と事務的才能を揮つて、昭和12年5月第6師団、第12師団管内の郷軍大会を沖縄県で開催するとふ大芝居を打つた。沖縄での郷軍大会はこれが最初である。九州各県から集まつて来る在郷軍人の数が約千人、それに首里那覇、地方の在郷軍人がそれこそ雲の如く、那覇市は時ならぬお祭り騒ぎに商人が喜んだばかりか、県民に非常時局を認識させ在郷軍人の気持を厭が上も強揚させるといふ、一石二鳥も三鳥もの効果的大芝居であつた。その主役たり舞台監督たる白石武八郎の得意や思ふべしである。然しその郷軍大会も、時勢が時勢であつたればこそであらう。その時の民間からの寄附金だけでも約一万円、それに依って如何に彼が在郷軍人会に対する熱情と時勢を見る明と、事務的才能に恵まれてゐるかゞ解るだらう。彼は国頭郡塩屋の生れ、元来は鹿児島県人だが彼の父が塩屋で樟脳の製造所を経営してゐる時、同地に呱々の声をあげたのである。明治27年生れの45才、歳に比べて常に若々しく意気軒昂の彼は、来るべき応召の日を絶えず腕を撫して待つてゐるであらう。

前に昭和12年の人事録から白石武八郎の項を取り上げましたが、今回は父が樟脳製造に携わっていたというのが収穫でした。

桃原農園食料品部の広告

月刊琉球(第2巻第7号/昭和12年)の広告から。

沖縄の果実を代表せる弊園の特栽荔枝[レイシ]、高等園芸の模範を示せる鉢作りのメロン、此新鮮豊富なる材料を厳選して製造せる果実の缶詰、瓶詰等は桃原農園食料品部の誇りであります。
此外御高評を賜りし豚肉ラフタイ、同肋肉の飴煮、豆腐餻[とうふよう]、果実ジャム、塩辛、漬物各種の珍味等々、色彩風味と程能く配合せる夏向の美麗ボール箱詰合せの物も出来て居ります。他県に無い沖縄珍味の御土産品として又御進物用、御家庭用の食品として最好適せる品物なる事御勧め致します。


「桃原農園食料品部の一室」という写真があり、そこにはテーブルに積まれたレイシや鉢作りのメロンを前に尚順と家族?が写っています。
尚順は食通でしたからこれらの製品もかなり美味だったんではないかと。

デング熱

南条みよしさんのデング熱流行体験です。

この年(1931)年の夏休みだったと思いますがデング熱が大流行しました。どの家庭でも一家が枕をならべて寝ていました。毎日のように隣組から死者が出て、一日中物悲しい鐘の音が流れていました。デング熱の病原菌は港から侵入、那覇港の西、通堂一円から那覇市内全域にひろがり、首里、中頭、島尻、国頭と沖縄本島全域に蔓延したようでした。私は薬を飲んだおぼえはなく、ただ頭を冷やされただけしかおぼえていません。
夏休みがすんで二学期が始まると、お友だちの顔はやせこけ、頭の毛もぬけて、以前の面影をとどめない姿になっている人がいました。それでもみんな生きていたことを涙を流して喜び合ったものです。
私の戦後史 p252 (抜粋と編集)


蚊を介して感染する南方系の病気のようです。

また、民間レベルでみなすと、沖縄では、大正4年と昭和6年に大流行があった、とされています。その昭和6年に沖縄で大流行した時には、それが鹿児島県まで入って来た、といいます。
 また、昭和8年には和歌山市のある工場で、沖縄県で募集して来てもらった女性の工員さんからデング熱が広がり、35人がデング熱にかかった、という記録があります。いずれにしても、それまで日本本土でのデング熱の患者の発生は軍隊内か、沖縄を介したもので、患者の発生は散発的で、大流行には至りませんでした。ですから、昭和17年において、初めて日本本土の広範囲で、デング熱の大流行を経験することになるわけです。

http://pws.prserv.net/maki-j/dengue.htm


検索していたら興味深いpdfを見つけました。所報12号(1978年)に掲載されています。

沖縄におけるデング熱の疫学 Ⅰ.流行史と住民のHI抗体保育状況
http://www.eikanken-okinawa.jp/syoho/shoho12/image/104-114.pdf
http://www.eikanken-okinawa.jp/ 


pdfによると最初の流行は1893(明治36)年で収束が1955(昭和30)年、その間大小あわせて十数回の流行があったようです。
年表では1931(昭和6)年の流行時には患者数53129人、死亡470人(死亡率1.7%)、ただし患者数はこの数倍はあったとの意見もあるのでおそらく南条さんのようなケースはカウントされていないのでしょう。
pdfでは生年別に抗体保有の割合を調べていて昭和17年以前が保有割合(陽性率)が高いとされています。また保有割合にも地域的な偏りがあるようです。
難しいことはよくわからないのですが(すみません)かなりの大流行であったことわかるのは興味深いです。

今と昔(久茂地)

「那覇の民俗編集ニュース」から久茂地の「今と昔」を引用します。

ソニーの土地は旧家友寄家のもので、当山医院、その隣接地帯は徳田ヌ屋敷跡で琉銀本店裏を流れる曲がり角はアガリヌサチ、セーヌ神はスバル会社の通りで、50メートル先右側に市長官舎があった。今はホテルとレストラン、大典寺裏の洋裁学院から寺向いの駐車場は南風原家の土地で、3000坪あったといわれている。日銀の通りは病院小路、商業高校前には旧地主が住み、福永、呉屋、勢理客、新崎、桑江家と、あのチンマサーは58号線にとられて跡形もなく、潟原マチグヮーは若松通り北側にある子供遊園地がそれである。
松下レーンは沖の宮ウーチヌ寺跡、サントリー販売会社はウエヌミチヌ玉那覇酒造所跡、シッタイミチは渡久地万年筆ビルの横の通り、一銀の沖縄薬品裏の道、西口久茂地川の水道橋近くの那覇外科は美栄橋にあった大城酒造所があったところである。


70年代の証言ですから今ではわかりにくいとこがありますし、「那覇市旧跡歴史的地名地図」とは少しずれている所もあります。
チンマサー」はチンマーサーでおそらくイベガマのことですが那覇市旧跡歴史的地名地図では58号線そばではありますが道路にはなっていません。文中のソニーは電波堂ビル、松下レーンは今はない松山のボウリング場、シッタイミチは久茂地大通りのこと、水道橋は電波堂の前にある水道管のこと?
この記述は「戦前の久茂地民俗地図」と「那覇民俗地図」を見ないとピンとこないかもしれません。

久茂地川から海側は戦後の開放の際に区画整理が行われていて戦前を推定するのが難しいのですが、地主が商業高校前に移動していたのがわかったのは収穫でした。

木場八郎

昭和12年の人事録から。

木場八郎
土木建築請負業
那覇市美栄橋町1ノ41
君は明治15年を以て原籍地鹿児島県日置郡伊作町に生る。明治31年に来県して建築業に従事し、大正8年独立して土木建築請負業を開始し今日に至る。徹頭徹尾奮闘努力の人にして裸一貫能く今日の地位を築き、今や市内一流の請負業者として其率いる『木場組』の名は県下に普く知れ渡って居り、県内各地の小学校及村役場等の請負建築に敏腕を揮ひ家業益々隆盛を極めつつあり。
沖縄県人事録 (抜粋と編集)


16歳くらいで来県して独立開業ですからたいしたもんです。
美栄橋の川近く一帯には建設、土木、製材、木材商などが多いですね。

参考:グダグダ(β) 美栄橋町(昭和4)
参考:グダグダ(β) 美栄橋町の店舗名(昭和4)

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