月刊琉球(第2巻第7号/昭和12年)の「人物立体写真」を引用します。
評されているのは郷軍那覇聯合分隊長の白石武八郎、著者は赤嶺百才(奥付から)です。
時勢といふものは恐ろしいもので、満州事変以来、殊に今度の支那事変となって世は正に軍人謳歌時代、何しろ軍人が居なければ戦争は出来ないから、それは当り前だが、上は大臣から下は微々たる町村の何とか協会に至る迄多くは軍人が或は在郷軍人が音頭とりになつて、神国日本をアジヤの盟主に押進めやうといふ頼もしい時代になつた。従つて国民が軍人に頼る事、子の親に頼るが如く、大道を行進する一隊の軍人に逢おうものなら子供ならずとも「万歳」の一つ位は叫びたくなるのが、此頃の日本人の心境だらう。軍がその気なら支那ばかりか、暴露、暴英ともに懲らすべしと、国民は色々の不自由を承知の上で皆その気になってゐる。かういふ時に郷軍の聯合分隊長といふ要職に就いた人間は、確に何か大物を拾つたと同様な役得である。在郷軍人那覇聯合分隊長白石武八郎は、この役得をした一人である。彼は元来は商人である。商人であるからでもなからうが、彼は社交家であり、その上事務家である。城間、久高、山田と那覇市の聯合分会の基礎を堅めた先輩の後を受けて那覇聯合分隊長の椅子についた彼は、その社交術と事務的才能を揮つて、昭和12年5月第6師団、第12師団管内の郷軍大会を沖縄県で開催するとふ大芝居を打つた。沖縄での郷軍大会はこれが最初である。九州各県から集まつて来る在郷軍人の数が約千人、それに首里那覇、地方の在郷軍人がそれこそ雲の如く、那覇市は時ならぬお祭り騒ぎに商人が喜んだばかりか、県民に非常時局を認識させ在郷軍人の気持を厭が上も強揚させるといふ、一石二鳥も三鳥もの効果的大芝居であつた。その主役たり舞台監督たる白石武八郎の得意や思ふべしである。然しその郷軍大会も、時勢が時勢であつたればこそであらう。その時の民間からの寄附金だけでも約一万円、それに依って如何に彼が在郷軍人会に対する熱情と時勢を見る明と、事務的才能に恵まれてゐるかゞ解るだらう。彼は国頭郡塩屋の生れ、元来は鹿児島県人だが彼の父が塩屋で樟脳の製造所を経営してゐる時、同地に呱々の声をあげたのである。明治27年生れの45才、歳に比べて常に若々しく意気軒昂の彼は、来るべき応召の日を絶えず腕を撫して待つてゐるであらう。前に昭和12年の人事録から
白石武八郎の項を取り上げましたが、今回は父が樟脳製造に携わっていたというのが収穫でした。
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