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金城キク・金城三郎

金城キク商会の創設者の金城キクさんを検索してみました。

金城キク
1909(明治42)年小禄生。1966(昭和41)年3月20日死去
父母の死去により昭和3年実践女子専門学校(現実践女子大)を中退し、那覇市で家業の建材商(旭町)をつぐが沖縄戦で壊滅。昭和25年神里原に金城キク商会設立。企業経営の一方で財団法人金城報恩会を設立、保育園や女子学生寮(和敬寮)の設立など社会福祉事業につくした。

http://kotobank.jp/word/%E9%87%91%E5%9F%8E%E3%82%AD%E3%82%AF
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-41126-storytopic-121.html


「なは・女のあしあと(戦後編)」では泉崎出身になっています。
泉崎出身かweb上の小禄出身かというのはどちらが正しいのかわかりません。「沖縄の道を開いた女性たち/新星図書出版」は子供向き読み物で小禄生と記述、「時代を彩った女たち/ニライ社」は上書の記述を大人向けに書き直した内容で小禄生、「なは・女のあしあと」のみが泉崎生まれとなっています。

昭和37(1962)年寄宮に「みやぎ原保育園」、翌年若狭に「わかさ保育園」を開設
昭和39(1964)年、東京代々木に「和敬寮」開設
沖縄の道を開いた女性たち p60(抜粋)


キクさんのお父さんは東京で学んだ人で、検索してみると船越義珍とも関わりがあったようです。

金城三郎
1878(明治11)年小禄生まれ、1903(明治36)年に東京都高等師範学校卒業、沖縄県立師範学校、高等女学校、二中、一中の教師を歴任。1920(大正9)年県会議員、二期務め1927(昭和2)年浅野セメント特約販売店設立。昭和4年逝去。

http://takara.ne.jp/oroku/hitohito.html


【追記】コメントで金城キクさんが学校教材としてとりあげられているのをご紹介頂きました。
http://www.edu-c.open.ed.jp/keiei/iinkai/syurei.html での( http://www.edu-c.open.ed.jp/keiei/iinkai/syurei/syou4/4-56syakaihukusi.pdf ※pdf注意)が金城キクさんです。
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ブリ屋敷(群屋敷)

長屋のブリ屋敷です。

ブリ屋敷(群屋敷)
ブリ屋敷は都市部、特に那覇に多くあった。ブリは群れの方言で、高倉が群立しているのを「ブリグラ」と呼んでいるのと同義で一ヶ所に集まっている意味である。
そこで「ブリ屋敷」は大きな屋敷に数棟の建物があって、その建物は一部屋と台所付きのものも、現代風に表現すると「1DK」が数戸連なっているいわゆる棟割り長屋であった。こういう棟割り長屋が数棟ある屋敷を指しているが、また一戸建ての建物が数棟建っている大きな屋敷もあった。
群屋敷は屋敷および建物まで大地主の所有のものと、屋敷は大地主のもの、建物は住人のものということもあった。
那覇市史資料編第2巻中の7 p229、230


那覇市史の図を模写しました。

大正の仮屋の前

大正5年の琉球新報記事、シリーズ物の「那覇23町」から県庁前通りを引用します。
左図は明治初年、右は昭和初期です。

県庁前通り(自警察至藤井呉服店)
那覇警察署は古の親見世趾である。親見世というのは御店の義で古外国貿易の事務を管掌したる公衙である。其の前を見世の前と称えている。警察の門前に2株の大きな榕樹がある、4、5年前の暴風で吹き折られて、今は殆ど幹ばかり残っているようなもんだが元は随分繁っていた。昔はこの下に夷神の小祠があってビン人仲村渠姓が専ら祭祀を司っていたそうだ。屋号を同順といって今の仲村渠呉服店がそれである。
右側は西本町5丁目で左側が東町1丁目となっている。生和商店では支那茶を購う客が腰をかけている。森醤油問屋が明るくって目立つ。県庁第百四十七銀行、農工銀行が静かに相対している。昼間は沖縄の政治家実業家大星はここに集まっているが夜は寂しいもんだ。県庁のあるところは元仮屋のあったところで、古薩州派遣在藩奉行所の公館であった。後内務省の出張所である。この通りを仮屋の前といっていた。(略)歩いているとアーク燈の光で眩いばかり輝いて藤井呉服店と徳田店とが目につく。藤井呉服店では美しい若い女等を番頭と相対して反物の柄を見ている。夜の呉服店は美しいものだ。なお私は近い未来にデパートメント・ストアを見るであろうと思いながら通堂辺に進むと暗いところからいきなり「旦那!」という車夫の声に驚かされた。歩くのが億劫になったから、この車に乗って帰った。(21日午後7時)(白水)
大正5年1月22日 琉球新報(省略抜粋)


ビン人は久米三十六姓のことです。ビンは門がまえに虫、閩と書きます。

参考
グダグダ 久米村人(クニンダ)の宗家

垣花の水産関連施設

垣花には様々な水産関連施設がありました。
垣花の水産関連施設
那覇の企業的漁業の発展を支えたのは、政府の産業助成費によるところが大きく、製氷工場、貯氷庫、冷蔵庫、冷蔵運搬船は昭和2〜3年の産業助成費によって建設、建造されている。
製氷工場は宮古と那覇市垣花町の2ヶ所に建設されたが(略)。垣花町の製氷工場は沖縄製氷㈱の経営で、日産18トンの能力を有し、昭和3年末に竣工した。貯氷庫は県下4ヶ所に全額補助で建設された。
冷蔵庫は県水産試験場に設置された。県水産試験場は大正10年に創設されたが、昭和4年に産業助成費によって垣花町に庁舎が建てられ、56トンの冷蔵庫も設置された。
冷蔵運搬船はマグロ・カジキなどを大阪や東京の中央市場に出荷することを目的として、昭和3年に185トン、250馬力の2隻が建造された。経営者は下関の林兼商店㈱である。
近代における地域漁業の形成と展開 p53、54(省略編集)


施設の整備とともに販売の形式も変化してゆきます。
カツオ漁業は鰹節の製造を目的とした寄留商人のものだったのですが結局あまりうまくゆきませんでした。

沖縄のマグロ・カジキの価格は、内地・海外市場への出荷がないために好不漁が増幅されて変動した。林兼商店との取引では、語業者はマグロ漁業団を組織して価格交渉に臨み、折り合わないときには県内で販売することとし、昭和4年に県水産試験場の一角に仮共同販売所を設置し、入札販売を始めた。そして内地への冷凍輸出の見通しがなくなる昭和8年に那覇市水産会が住吉町1丁目に卸売市場を設け、マグロ延縄・深海一本釣りの漁獲物を入札販売するようになった。那覇市水産会は大正11年に設立され、主にカツオ漁業の振興を図ってきたが、カツオ漁業の衰退とマグロ漁業の勃興に対応して卸売市場経営に乗り出したのである。これが沖縄で唯一の鮮魚の共同販売始業であり、水産会が開設者である点が特徴である。
近代における地域漁業の形成と展開 p54(省略編集)

ダシカマボコ

那覇市史にダシカマブク(出汁蒲鉾?)作りの様子があります。春先のトビウオの季節に行商から買い、家族や手伝いもいれて大掛かりに作ったようです。

次は蒸し上がった蒲鉾をござの上に芭蕉の葉を敷いて冷めるのをまつ。冷めたら蒲鉾の端に穴をあけてチサヰ(裂藺)を通して径10センチくらいの輪に結んでおく。
翌日は蒸した蒲鉾を干す作業だ。これは家によってはやり方は違うが前日のチサヰーをを通した蒲鉾を小さい笊に入れて下男がもって台所のカマドの上の天井に登る。まず大カマドの上のタムン棚といって燃料にする薪を積み重ねた棚にはしごをかけて登る。天井裏のくらいところに屋根の煙出しからのわずかな明かりが漏れてくる。ここ屋根裏のの桁を利用して数本の中くらいの竹竿を吊るしてある。これに蒲鉾を通して吊るしてゆく。
蒲鉾は屋根裏に吊しっぱなしでおいて使う分だけその都度おろしてくる。包丁もよいが鰹節削りや大工の使い古しの鉋にかけて薄く削って使う。
那覇市史 資料編第2巻中の7 p333、334(省略編集)


大正までの蒲鉾の主原料は糸満漁民が多獲するトビウオ、グルクンで、多くが糸満で製造され地元で消費されていた。
那覇では蒲鉾は各家庭の自家製で、2〜3月のトビウオ時期に行商の糸満婦人からトビウオを買って作り、日陰干しにして使う分だけ削ってダシをとった。このダシカマボコは高価なカツオ節やコンブの代用品だったが、市販の調味料が出回る昭和初期に姿を消した。その後、カマボコは本来の食用となりその製造も那覇で行われるようになった。
近代における地域漁業の形成と展開 p54、55(省略編集)


糸満のものは普通のカマボコ、那覇ではダシカマボコで昭和には廃れたという感じでしょうか。ということはカマボコの本場は糸満で、それが糸満人によって那覇で普及したということになるのですね。
那覇市史からもうひとつ「だし」関連を抜出しておきます。

フカの肉は細長く切り塩づけにして天日に干したものをソージリーという。大きな魚は骨を取り、小魚は丸のまま煮て干し、おかずにしたり「だし」を取った。
那覇市史 資料編第2巻中の7 p330

カマボコヤ

まず那覇の周辺部にあった宿小(ヤール小、ヤードゥ小)。

ヤードゥグヮー(宿小)というのはというのはもともと地方出身者が那覇の旭町や西新町などに「那覇宿」を経営して、郷里のものが那覇へ出て来た場合に宿泊させた施設である、島尻の宿小は旭町に多く、中頭や国頭の宿小は西新町や泊の新屋敷にあった。
林産物をヤンバル船で運んできた人達も、宿小で「出荷と売り時」の検討をした。宮古や八重山の宿小は渡地にあった。
昭和期になると、通堂付近には離島の慶良間・久米島・粟国・伊是名・伊平屋などの宿小が軒を連ねるようになった。
なは・女のあしあと「ヤードゥグヮー(宿小)」 p124、125(省略抜粋)


「近代における地域漁業の形成と展開」から抜粋します。

そしてカマボコ製造は、鰹節製造を抜いて那覇の水産加工品の首位についた。ただ製造者は那覇の人ではなく、那覇に居住した糸満婦人が多く、その夫は南洋方面に追い込み網で出漁していた。
[カマボコ製造の]場所は、糸満宿小が集中する東町の糸満集落である。昭和初期に数戸であった那覇のカマボコ屋は、数年のうちに20戸位に増えた。昭和16年の沖縄県蒲鉾工業組合の組合は54人なので、その後も増加している。カマボコ製造は、一戸1〜2人で動力機を据えたものは少なく、糸満婦人の生業として営まれた。カマボコ製造の社会的な役割は、一方で消費市場を拡大し、他方で追い込み漁やマグロ漁業の魚価の下支え、過剰漁獲物の処理を通して漁業の発展を促したことである。
近代における地域漁業の形成と展開 p55(省略編集)

東町の糸満部落
図は那覇民俗地図を参考にしました。すぐ北は市場ですからなにかと便利そうでもありますね。

「近代における地域漁業の形成と展開」では消費市場の未発達さゆえ規模が小さいことや、内地商人によって内地市場向け商品が開発され経済が活発になってゆく過程も書かれています。またダシカマボコが市販の調味料によって姿を消し、カマボコは本来の食用になってゆくということにも触れられていますが、これは大正期に沖縄そばにカマボコが入るようになったのにも影響しているでしょうね。
いろんなことが絡み合っています。

那覇の漁業民

「近代における地域漁業の形成と展開」には漁業従事者数の推移があります。一部を抜出します。

明治27年 
渡地 8戸/専業8、兼業3、漁船6
泊 1戸/専業2、兼業16、漁船12
小禄間切 167戸/専業284、兼業183、漁船160
明治35年
渡地 4戸/専業0、兼業8、漁船4
泊 13戸/専業13、兼業0、漁船13
小禄間切 152戸/専業205、兼業105、漁船?
明治43年
那覇区 225戸/専業254、兼業163、漁船165
大正3年
那覇区 350戸/専業524、兼業70、漁船67
大正9年
那覇区 382戸/専業448、兼業162、漁船94
近代における地域漁業の形成と展開/片岡千賀之 p38表より部分抜粋


この時代の漁業形態はずいぶん変化が激しかったようです。くり舟から船が変化し、漁の方法も変化しました。そのへんも引用した本では丁寧にあたられているので興味のある方は参照していただきたい。

関連
グダグダ 那覇の漁場
グダグダ 漁とその対象

与那覇堂村周辺の境界

松川の与那覇堂村は明治12年に首里に編入されています。

明治初年茶湯崎村が松川村と改称。
明治12年首里山川村に首里大鈍川村・松川与那覇堂村・首里立岸村(タチジシムラ)を合併。

グダグダ 行政区画の変遷

松川の原名
真和志民俗地図をみると与那覇堂村にも山川カラヤーがありますが、首里民俗地図には観音堂の下あたりが広範囲で山川カラヤーとなっています(上右図)。
首里古地図(下図)では左端あたりが首里山川町です。


明治12年に首里山川町に編入された首里大鈍川村と首里立岸村の位置説明はこんな感じ。
大鈍川村
首里城の北西、首里台地の西斜面に立地し、北から東は山川村・真和志村、西は与那覇堂村、南は寒水川村(スンガームラ)。
明治12(1879)年与那覇堂村とともに山川村に編入。
角川辞典 p113

立岸村
首里城の西、首里台地の西端に位置し、北は与那覇堂村、西と南は真和志間切茶湯崎村(松川村)。南と西の境界を金城川・真嘉比川が流れる。
首里古地図には上地筑登之親雲上・野崎筑登之ら27の屋敷地のほか、台地の南西麓にかけての斜面に水田・畠が広がっている。
明治12年寒水川村・山川村・松川村に編入。
角川辞典 p113


首里西端にあった立岸村は明治12年に真和志間切の松川村と首里の山川・寒水川の両村分割吸収され消滅したということです。
明治12年の再編はややこしいですね...

関連
グダグダ 与那覇堂村
グダグダ 山川カラヤー
グダグダ 行政区画の変遷
グダグダ 松川の原名

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