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山形屋前(警察署前)

昭和に入ってから見世の前にできた山形屋です。写真は下記アドレスの写真(写真左側)と別の写真をパノラマ状態になるように合成してあります。

左:http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=1035
右:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Okinawa_Electric_Railway_in_the_vicinity_of_Misenomae.JPG

下図の右は「那覇の民俗ニュース」にあった山形屋建設前の図、左はその範囲を示したものです。下記アドレスで下図にある並川金物店と仲村渠呉服店を見ることができます。
那覇まちのたね通信 | 那覇(商店)/並川龜治良商店
http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=1029
那覇まちのたね通信 | 那覇(商店)/仲村渠呉服店
http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=1019


下写真は通堂から来た電車が並川金物店前を曲がって久茂地川向け(市場向け)にゆくところを交差点から写したものだと思われます。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Okinawa_Electric_Railway_in_the_vicinity_of_Ichiba.JPG

関連:グダグダ(β) 大正の仮屋の前 (大正5年には警察の門前のガジュマルは台風で折れていた)
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古賀善次と藤原義江

めずらしかったのでメモ代わりに。
「古賀義次」となってますが「善次」の間違いだと思われます。

那覇まちのたね通信 | 首里(教会)/国際的テナー歌手 藤原義江
那覇市歴史資料室収集写真/戦前//昭和9年、日本キリスト教会は教会建設資金造成のため、国際的テナー歌手としてデビューしたばかりの藤原義江を招待した。独唱会の暇をぬい、波之上の料亭「見晴」でくつろぐ。向かって右から、藤原義江、福井楼のマカテー、伴奏・田端三郎、古賀義次の諸氏。
1934年

http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=242


「宣教の歩み 沖縄バプテスト八十年史」でも古賀の名前がでてきます(米田漆器店というのは間違いで古賀商店ですが)。

1905(明治38)年那覇教会三代目牧師として長野県出身の原口精一師が迎えられた。那覇教会の集会には近隣の小禄、豊見城からも原口師をしたって出席する者が多く、その数は200名を越していた。その当時の集会に集った青年達の中には役者として有名な次の方々がおられた。沖縄演劇界の先駆者渡嘉敷守礼・守長兄弟、新垣松含、また女型の名優知念政達。中心的な信徒としては米田漆器店主の古賀善次や小学校長の浦崎永春等であったが、若い人々の中では西原真敏や翁長武達が献身的によく働いたものである。
グダグダ(β) バプテスト那覇教会


おそらく古賀善次は基督教徒だったんでしょう。
冒頭写真での「見晴」の位置は波之上通りの店舗名を参照して下さい。

円山号の外観

月刊琉球(第2巻第7号/昭和12年)の表紙に円山号の正面写真があったのでまちのたね通信の写真も参考にして図にしてみました。
歪んでるのは大目に見て下さい(笑)。

那覇まちのたね通信 | 那覇/大門前通り
http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=1043


まちのたね通信の写真は大門通りを北から南(久茂地から西町)に向けて撮影したものです。下図では右から左になります。


月刊琉球で見ることができる円山号はガラスのショーウインドーが大きくとてもモダンです。そして各階のベランダ(?)には照明、一番高くなっている部分にはネオン、大きな窓からは明るい内部が見えて今より暗かったはずの戦前の那覇ではかなり目立ったと思われます。
コンクリ三階建ての円山号の写真は少なく、建物の全体像がよくわかっていなかったので月刊琉球掲載の写真には驚きました。この建物は戦後も使われていたんですが60年代頃(?)に取り壊されたようです。

知念績正

昭和12年の沖縄県人事録から。

知念績正
酒造業
那覇市山下町1ノ3
君は明治21年を以て首里市儀保町に生る。当家は明治38年厳父績仁氏の創業になり、大正13年9月君之を継承して今日に及べり。其製品の優良なるは業界既に定評あるところにして、各地共進会、博覧会等に出品して前後19回に亙り、一等有功賞其他を受賞せる一事を以て知るに足るべし。(後略)
沖縄県人事録 (抜粋と編集)



図は那覇民俗地図と昭和4年の地図を参考に描きました。奥武山から橋がつく道を境に上が垣花町、下が山下町です。青い四角は養魚池、酒屋のそばからはガジャンビラに向けて糸満行きの線路があります。
知念績正さんの酒屋は那覇市史で大正時代に首里からきた知念ではないかと思われます。

部落は那覇港に面して立地しているため宮古、八重山からの寄留民も多かったが、大正時代に首里三カから、イシチャーグヮー(石川小)、津波古、知念ほか一軒が転入して酒屋を開業していた。
那覇市史資料編第二巻中の7、p54

グダグダ(β) 垣花の酒造所

小禄側から奥武山を望んだ写真で養魚池が確認できます。

那覇まちのたね通信 | 那覇遠景/明治橋を中心とした那覇/中央に風月楼、南明治橋が見える
http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=1446

電気の普及当初(久茂地)

「那覇の民俗ニュース」から「電気の普及」を引用します。

那覇に電気がついたのは、明治43年7月で、初めて電気がついたときの逸話は、まるで漫才みたいだった。東町郵便局の隣りに浜崎商会という卸屋があったが頗る滑稽な人で、庭先で、子どもたちが電気がつくのを今か今かと待っていると、「ウヌ ランプや マーカラ油を入れるか」と問うと、「ヤーヌクシーカラ イリレー ウヌ 線伝わってつくさ」また「扇風機は下のプ○トゥルーから入れるとミグティ シラクナイサ」と説明したが納得がゆきかねた。

石油ランプが入ってきたのもそれほど前ではありませんので、線から伝わって明るくなるというのは納得できかねたんでしょう。
このころは電燈も扇風機もレンタル定額制です。

参考:グダグダ(β) 沖縄電気会社
参考:グダグダ(β) 風袋(カジブクル)

古波倉正栄

昭和12年の沖縄県人事録から。

古波倉正栄
医学博士(古波倉病院長)
那覇市上之倉町2ノ53ノ1
君は明治22年首里市に生る。明治43年熊本医学専門学校を卒業し暫く母校附属病院に於いて研究、大正2年に帰県し、同14年まで首里市に於いて開業、家業頗る隆盛を極めしが、鬱勃たる研究欲は之に満足せず同年再び笈を負ふて上京し、専心研究に没頭すること3年、蛍雪の功空しからず昭和3年医学博士の学位を獲得し、同4年錦を飾って帰県、那覇市に開業して今日に及ぶ。


この人は新島正子さんのお父様です。
上之蔵で開業されていた病院敷地は後年料理学校になったようです。

参考:新島正子 - Wikipedia

会社の浮沈(久茂地)

「那覇の民俗ニュース」から「会社の浮沈」を引用します。

久茂地大通りのシッタイ道には素封家の屋根門と石垣が見事にならび、本土の大名屋敷のようであった。
明治の中期、大湾、宮里、桑江、新崎、喜久山、国吉、宮城、金城、渡嘉敷、与座、川上、仲地、賀数、与儀、阿波根、我部、小渡、平田、東恩名、有銘、福永、照屋、大田、勢理客、比嘉、宜保、名渡山、山田、南風原、我謝、富村家等の村内有名資産家が合資で貿易会社を組織し、○球商会(?)なるものをつくり、外国貿易で一稼ぎしようとたくらんだが、日露戦争後の不景気と寄留商人との競争に敗れて倒産し、大株主の我部、新崎、東恩名、有銘、川上、賀数、西平、松堂が銀行から差し押さえられた。我部家の土地は徳田某の手に落ち、タバコ製造所となった。当時は専売局はなく、自由販売であった。専売局支部ができ、煙草と塩が専売になったのは明治の末からである。ヒッタイ道[ママ]に徳田のヤシチと呼ばれるところがあるのはこれからである。


これは南清貿易がらみではないかと思われます。
後日会社名などがわかれば追記します。

明治期に沖縄経済の振興策として、政府により推進された沖縄と南清の直接貿易。1894年10月に那覇港が特別輸出港指定を受け、99年7月開港。琉球処分以来途絶えていた貿易の再開であったが、輸入超過などで伸び悩んだ。
http://web.ryukyu.jp/news/storyid-42457-storytopic-121.html


関連:グダグダ(β) 今と昔(久茂地)

ガーブ川周辺(新県道開通前)

「那覇の民俗編集ニュース」から高良嘉永さんの語る「新県道開通前のガーブ川周辺」を引用します。

新県道ができる前、現むつみ橋際に牧志町2丁目と松尾1丁目を結ぶ、幅1間くらいの道路があった。路面は石畳で両側に溝があり、道路両側の田や畠より1〜2尺高く、少々の雨では浸水しない農道があった。
この農道の両側は一面田や畠の湿地帯で、田にはイグサ、水いも、うんさいが植えられ、畠にはさつまいも、砂糖きびがあった。
昭和初年頃、現在の平和通り一帯を上岡作太郎氏が壷屋の地主から買い取り、湿地帯の田を深く掘り、鯉の養魚池とし、掘り下げた土で高くし、宅地・田園住宅地として貸家を十数軒建て、県庁官吏や警察官等に住宅として提供されていた。
昭和初年頃、ガーブー矼下流は県の指導と補助を受け、耕地整理組合を作ってガーブ川を○き湿地帯を改良した。
那覇の民俗編集ニュース (抜粋と編集)


1間が1.8メートルくらい、1尺は30センチくらいです。
上岡さんの名前が出てきましたがこの貸家が勉強堂屋敷と呼ばれていたところではないかと思われます。

参考:グダグダ(β) 上岡作太郎(勉強堂)

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