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若狭海岸の飲み屋

昭和の初め頃、波之上海岸に数件のバラック飲屋ができた。総称してタコ亭と言われ、大見謝というのが一番繁盛していて、芝居がはねてから役者たちがひいきにしていた、と。これらは親泊興照優の奥さんの話。酢だこが主で長皿一杯10銭。
波の上からずっと先のほう、ユーチヌ崎よりの所に、白波亭というのをみた。(略)
カルテの余白 p252(省略と抜粋)

入社した頃、若狭町に会社の倶楽部があった。玉突台、囲碁、チュンジー等が備えつけられてあり、仕事を終えると、小学校が同期で、営業係の屋良朝詳君と玉突きに度々行った。玉突きの帰りに2、3人の同僚と連れだって、波上護国寺裏にあった飲み屋「大見謝」に出向き、タコサシミを肴に泡盛を酌み交し、社会の出来事をケンケンゴウゴウ弾じ合うこと度々であった。たまにはハッスルして、辻に流れることもあった。
当時電気は花形産業であり、電気会社の社員はエリートとして社会で優遇されていた。とくに技術職である電工はもてはやされ、芝居や映画館に電工席が設けられるほどであった。停電の際、すぐ修理してもらいたいという理由もあり、職員は入場無料であった。辻遊廓でも同様の事情で、下にも置かぬ丁重なもてなしを受けた。
高良嘉永人生記 働きざかり・花ざかり p46(抜粋と編集)


若狭の飲み屋で触れた飲み屋のことが書いてあります。
わかさ民俗地図を見ると、若狭病院そばの通りが飲屋街、少し離れた海岸沿いに「タコ亭」「臨海食堂」があり飲み屋とも書かれています。またタコ亭は「タコ亭(大見謝)謝花」(※ママ)と付記されています。またタコ亭周辺へ向かう道はタコーヌスージとなっていますがこれは関係はないようです。
※タコーヌスージに関してはコメントをご覧ください

浦添市史で浦添の漁民が那覇や首里へタコ等の水産物を売りに行った証言がありますが、この海岸沿いの飲み屋にも持っていったそうです。波之上海岸は戦後バラック飲み屋ができますが火事で焼けてあとは再建されませんでした(不法建築物だったため)。

那覇及び久米村図で使った地図?を再掲。

タコは若狭の名物であったとのコメントを頂いたのですが、この図からすると昔の若狭ではタコも採れるような遠浅の海岸であったのがうかがえます。

関連:グダグダ 若狭の飲み屋
関連:グダグダ 浦添から市場へ
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別荘(ハルヤー)

別荘をハルヤーという。那覇の名家はほとんど、これを持っていた。
琉銀頭取の崎浜さんのハルヤーは、若狭町原にあって、周囲を竜舌蘭とアダンに囲まれ、15坪ぐらいの瓦葺きに、番人が4人家族で住んでいた。200坪の畑があって、裏に2匹の山羊を飼い、木ジーファーを作り、母親が毎日のように夕方から東市場にそれを売りに行くのを見た。
その別荘の裏は、夫婦岩になって、近所の女たちは、海で洗い物をして、帰りはここの井戸ですすぎをして持ち帰るならわしになっていた。
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城岳の麓に、普久里別荘という、近隣にひときわ目立つのがあった。大正の初め頃は、菅野島尻郡視学が借りていた。
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奥武山にある新嘉喜家の別荘は、那覇の紳士たちが、他県から来る有名人の接待によく使ったそうである、
カルテの余白 p115、116(省略と抜粋)


崎浜さんの別荘は「わかさ民俗地図」でみると那覇商業の横辺りにあります。

関連:新嘉喜倫篤・新嘉喜貴美
関連:奥武山 2 (奥武山にある別荘)

質屋

才の神にある祖母の家の裏の砂糖樽大工(タルガーゼーク)の娘モウサーに、叔母が風呂敷包みを渡して、何事かを語っていた。私がモウサーについて行った所は、久茂地川のほとり、照屋質屋である。モウサーは私に、屋門でまっておれと言ったが、同級生のムタルーの家であるから、しばらくしてから行ってみた。1円20銭の金が渡されるところであったが、眼鏡のおじさんが、「これはお前の家のものではないだろう。ユカッチュジンだもの」と言うとモウサーは、「ほんとうは、この子の家の着物です」と白状した。カキジャーの絣だった。
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すぐにうけ出せない人は毎月利子を納めるが二割だったという。利子も納めず、期日迄にうけ出せない者の質草は流されて、市場の古着商の女たちが買い取る。これにもお得意があって、三人くらい組を作って質屋へ行き、取り混ぜて三つの山を作りくじ引きで仲良く分け合うことになっていた。
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昭和の初め頃、市役所の裏に、市営質屋ができて繁盛した。主任は琉球新報社の渡口政憑[※ママ]さんの母堂で、以前質屋をやっていて、目利きだというので任命されたのであろう。その頃から旧家の質屋業が一つ一つ消えて行くのがはっきりした。経済情勢の変化か、或は、後継者が学校出で、他の職業につくようになったせいかもしれない。
カルテの余白 p53〜57(省略と抜粋)


文中の渡口政憑は渡久地政憑だと思われます。

古着市ですが、新品が一番良いけども買えないので古着を買うといった感覚だけではなく、すでに仕立てがされていて値段が手頃であるところから身近な存在だったようです。このあたりは既製品で大量生産の布地を当たり前のように着ている現代人にはわかりにくいですね。

質屋は那覇女の商売として営まれました。
高額な物品を換金できるわけではないですし、主に庶民階級の着物を質草として扱っていました。庶民の小額金融として質屋は機能していたのでしょう。

小松琢次郎

小松琢次郎
1873(明治6)年、福岡生。1910年代から1935年代にかけての沖縄で活躍した寄留商人。
1910(明治43)年沖縄に寄留し合資会社南洋商会を創設。台湾米の沖縄への輸入販売をはじめ成功する。大正5年には肥料用に豆粕を中国東北地方より輸入する。翌年には三井物産と提携して外国米を産地から直輸入する事にも成功し、以降、大連直行の大豆粕および外国米などをも取り扱うようになった。また、他方では、三井物産の名古屋支店に働きかけて沖縄の黒糖に注目させ、その那覇市場進出を促進して、小松らの南洋商会自身は黒糖仲買業を兼ねるにいたった。
近代沖縄の寄留商人 (p132から抜粋して編集)


上記引用は沖縄県人事録(昭和12)とほぼ同じなんですが出身地は「福岡県筑紫郡太宰府町」となっています。
この人の持っていた沖縄関係の物品が遺族によって那覇市に寄付、また浦添市美術館には漆器の小松コレクションというのもあるようです。戦争で焼けちゃってますからありがたいですねー

引用後段の大資本による黒糖取り扱いですが寄留商人に関する一考察 : その特質と存立基盤という論文の4章で説明されています。論文では寄留商人の変化(凋落)の要因の1つに取引形態があると述べられていて、<鈴木商店、増田屋(糖商)、安部商店>などの新興商社の参入が挙げられています。三井の参入は昭和なのでこの後になるのですが、糖業関係の変化を促進した新興商社の参入の後、最後のとどめを刺した三井等の参入に小松さんは関わっています。
また論文では沖縄県史3巻各論編2の近代沖縄経済士年表を引用し「昭和4年3月・県の糖業界、三井物産の進出で活気を呈する」「11月・三井物産三池支店、沖縄黒糖を直輸入する(鹿児島商人大打撃をうける)」「昭和10年3月・三井、三菱、大量に沖縄糖の買付けをはじめる」とあり、三井参入により砂糖委託業者に大打撃があったことが示されています。

中西久弥・中西惣吉

中西久弥
1929(昭和4)年那覇市生。1948年京都市立第一商業学校卒業、同年帰郷。米軍関係の職場に勤務、53年退職と同時に株式会社朝日商会入社。のち十文字屋呉服店再興に努力、その代表となる。
本籍那覇市上之蔵町一丁目
現代沖縄三千人より抜粋


1966年の人事録より抜粋しました。
現在国際通りで営業されているのですが、web検索してみると大正元年創業ということです。大正当時は国際通りに店なんてありませんから別の場所で営業していたと思われます。
昭和12年の沖縄県人事録から中西惣吉さんも引用します。

呉服商(十文字屋主人)
中西惣吉
那覇市上蔵町1ノ35
君は明治12年を以て京都市に生る。大正元年初めて本県に来り、十文字屋呉服店を経営して今日に至る。主として京呉服其他高級品を扱い、市内一流の専門店となり、先年業務拡張のため石門本通りに店舗を新築して移転し、家業逐年隆盛の一途を辿りつつあり(略)尚また君は観世流謡曲の大家にして多くの弟子を有し、本県謡曲界の向上発展の為に多年尽力して居り、其功労多々見るべきものありと称せらる。
沖縄県人事録(昭和12年) (抜粋と引用)


昭和11年に石門通りの上之蔵あたりに十文字屋呉服店はあったということになります。
戦前の海産物商古賀商店の方のインタビューに中西惣吉さんが登場します。当時の新聞を見ていると謡曲関係の広告(?)や記事もちらほらとあったりします。
寄留商人層と沖縄県人は文化的には噛み合なかったでしょうねぇ...

尖閣諸島開拓時代の人々 (2)
————謡曲を習っているのはどういう人たちですか。
古賀[花子] 十文字屋さんというのは、中西惣吉さんといって呉服屋さん、習っているのは、私の近辺では、慶田[覚大郎]さん、並川[亀治郎]さん、それから米次[源吉]という漆器屋さん、それに平尾[喜三郎]さんなんかですね。慶田さんは酒・醤油の問屋、並川さんは金物問屋でした。その頃の写真がありますよ。
※中西惣吉 明治十二年、京都生まれ。大正元年来県。観世流謡曲の大家。

チンナン(かたつむり)2

チンナン(かたつむり)では那覇市史からクスイムンと常食としての二つのケースを引用しました。
お断りしておきたいのですが、個人的にかたつむりがどうにもダメでしてできれば食べていないと信じたいのです(笑)。しかし過去の食料事情などを考えてみるとアレを食べないということは無かっただろうと思わされています。
本などでみられる証言を引用します。

女の子の大収穫は雨後のかたつむり拾いである。大根の周りを指でほじくるとかたつむりがいくらでもとれた、チリビラ畑もそうである、畑の持ち主がみていても文句はいわなかった。害虫だからであろう。たまには「チリビラを踏み倒すなよ」と言っていたが、子供も心得ていたとみえて一度も追っ払われたことはない。
ざる一杯家に持ち帰り、芋を切っていれ、蓋をして一晩放置すると、汚物を吐く。よだれがなくなる迄洗って、茴香の葉とともに味噌仕立てにする。茴香は、せきの薬としてどこの家でも植えてあった。煙草畑のかたつむりは、苦くて食べられないことになっていた。
---
アフリカマイマイがはいって来たのは、いつの頃か私は知らないが、戦中、那覇でも子供たちが飼っているのを見たし、そろそろその害が喧伝されていた。
沖縄戦終了後六ヶ月も喜屋武の山に隠れていたという沖縄出身の兵士を命ぜられて健康診断をしたら、陽に当たってないために蒼白いけども、栄養は衰えてはいない。マイマイがいくらでもとれたし、甘蔗、刈り残された畑のものや芋、焼け残りの部落から必要なものは運んだ、塩と火は持っていたと言っていた。唯一の蛋白源はマイマイであった。
カルテの余白/千原繁子 p72〜75(抜粋と引用)


※チリビラ(ちりびらー)/ニラ
※いーちょーばー/茴香(ういきょう)/フェンネル

アフリカマイマイを食用カタツムリと混同して食べようとした。ゴムをかむようでどうにもならない。レモン水で洗うと食べられると誰かが言ったので試みたが無駄であった。食用の油がないのでモビール油の揚げものを食べたのもそのころであったと思う。
狂った季節/船越義彰 p207


[金城町の家で]「ちんなん」を振る舞われたことがあった。食用にしたのは畑で取った「ちんなん」で、殻ごと塩ゆでしただけの料理であったが、ホカホカと湯気の立つのをつまみ、殻から出した身は、透明な感じの白さ。まったくイヤ味のないサッパリとしたごちそうで、あきることがない。畑には取りつくせないくらい「ちんなん」がいるし、質素に暮らす家がお膳に山盛りして食べられる唯一のごちそうだったのである。
沖縄物語/古波蔵保好 p62(抜粋と編集)


関連:アフリカマイマイ

水と病気

「火と水はただ」の観念を持ち続けていた人達は、水道をいれても、相変わらず天水や井戸水もジャンジャン使っていたので、そのためか、那覇名物の腸チフス、アメーバー赤痢は、水道敷設後も減ったとは思えなかった。
コンクリート利用がまだまだの時代で、井戸の流しは石畳、その継ぎ目から地中に汚水が染み込むので、井戸水は汚水と直通のようなものであった。東町五丁目、真教寺の裏と右側の地域は、年中、伝染性胃腸疾患の巣窟であった。そこは埋立地で土の濾過作用零地帯、その上、地方から転入した庶民階級が主だったので、水道との縁が薄かったようである。
カルテの余白/千原繁子 p161、162


戦前の新聞記事を読んでいると伝染病発生の記事が結構ありますが千原さんはお医者さんなので原因まで突っ込んで書いています。
明治期にはコレラの集団発生で泊外人墓地近くに台ノ瀬避病院(図の泊病院)ができています。これは伝染病の扱いが政府に決められたことによるようです。


1879(明治12)年、廃藩置県の時にコレラが流行し短日の間に多くの人命を失ったことから、初めて検疫事務取扱規則を制定するほか、翌13年よりは種々の衛生施設を講じた。即ち屠獣場および食料品の販売規定、飲料水販売業者取り締まり、墓地の設置、海港検疫の励行、避病院の設置等である。この他明治13年種痘規則を設けて天然痘を防御し、翌14年には貸座敷規則を設けて、黴毒予防の道を講ずるなどは本政府の本県衛生施設に対する熱意の入れ方は相当なものであった。
那覇市史通史編 p190

壷屋の地主

[日高/高江洲]妙子はその壷屋に1897(明治30)年、高江洲康宣の娘として生まれた。家は屋号を「壷屋与儀小」といい、屋敷の門が二つもあった壷屋の旧家である。往時は現在の神原中学校から平和通り、ダイナハ付近にかけてまで実家の土地であったという。「球陽」に「壷屋与儀小」のことが記載されている。読谷の比謝橋が壊れたとき、銅銭16貫文を寄与し家譜を授与されたとある。いわゆるコーイユカッチュ(新参士族)の出だ。

こういう話も伝わっている。飢えで集落中が苦しんでいたころ、「壷屋与儀小」では家の周辺を囲ってある石垣の上に、竹で編んだカゴの中に芋を入れておいた。腹が減った人は勝手にイモを取って食べなさいという意味からだ(壷屋陶器事業共同組合顧問 小橋川秀義談)。
時代を彩った女たち p109(省略と抜粋)


ガーブー流域一帯が「壷屋与儀小」のものだったということですが土地は下のような感じです。この土地が化けるとこに戦後那覇市の面白さがあるんですけども。

往時の地形をみると壺屋の村は、丘陵の傾斜面を利用して、南に面してつくられ、東西に細長く伸びていた。前面、つまり南に久茂地川の支流になっているガーブ川を見おろし、背後に安里川が流れ、東は真和志間切の丘陵地帯、西北に牧志村をひかえていた。村の前後(ガーブ川流域—今の平和通りから神里原一帯—と安里川流域)は殆んど沼地帯で、人家はなく、別天地の観を呈していた。
http://www.zyyms.net/yakimonotuboya.htm


農村地帯で地主が発生するのはわからんこともないのですが、壷屋がどういう生活をしていたかというのは(調べていないので)よくわかりません。

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