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地質図

面白いサイトがあったのでご紹介。

日本シームレス地質図
http://riodb02.ibase.aist.go.jp/db084/index.html


そのほかにはこのページ。

国土調査課 調査データを見る 5万分の1都道府県土地分類基本調査(那覇・沖縄市南部・糸満・久高島)
http://tochi.mlit.go.jp/tockok/inspect/landclassification/land/5-1/4701.html


※画像は下記アドレスの図(5万分の1:地形分類図)を切り出して加工したもので、加工の責任は当サイトにあります
http://tochi.mlit.go.jp/tockok/tochimizu/F3/data/L/4701L.jpg
※成果の利用について「私的利用について、特に制限はありません」となっています
http://tochi.mlit.go.jp/tockok/inspect/landclassification/land/attention.html

ほとんど地形図と重なりますね。
那覇標高図那覇埋立図

関連カテゴリー:土地
関連:グダグダ 船増原・宮城原の低地
関連:グダグダ 那覇市埋め立て地図
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医師 仲地紀仁

「医師 仲地紀仁/仲泊良夫」というハードカバーの100ページもない本があります。半分程は英語、1968年発行、2.5ドルです。
沖縄の種痘にまつわる本なのですが、那覇士族松氏をめぐる本のようでもあります。それほどこの一族は医療関係者を多数輩出しています。
また那覇市長も出ています。

付録として「プラット婦人の思い出/仲地紀晃」と題されたベッテルハイムの孫娘が1937年に沖縄に訪れた際の交流記があり、自分のような戦前の那覇に興味のある人間には馴染みの深い名前が頻出する記録になっています。この文章は1950年にかかれたものらしく、その当時でさえもう歴史になってしまっていますが面白い読み物です。

戦前の那覇には西本町に元順医院というのがありますが、後年那覇市長となる金城紀光が開設したものです。この金城紀光さんも松氏で元祖の金城紀嘉(1716-1782)が元順という名前だったようですからここから病院の名前をとったのでしょう。

金城紀光
1875-1967明治-昭和時代の医師,政治家。
明治40年県立沖縄病院長となり、大正9年私立元順病院を設立。那覇市会議員、県会議員をへて、昭和7年衆議院議員(政友会)。10年那覇市長。戦後は金武保養院長などをつとめた。昭和42年8月10日死去。東京帝大卒。

http://kotobank.jp/word/%E9%87%91%E5%9F%8E%E7%B4%80%E5%85%89

善興堂病院

承前。
グダグダ 長田紀秀・饒平名紀順
龍界寺小路・善興寺坂
長田紀秀(饒平名)
1899(明治12)年那覇市生、饒平名紀順の長男。戦後1946年にコザ中央病院院長、1951年から那覇市で善興堂医院を開設、診療にあたっている。
饒平名紀順(1870-1937)長田紀通のひ孫。善興堂病院院主。


参考にしたのは「医師 仲地紀仁/仲泊良夫」という本で沖縄の種痘関連なのですが、事実上「松姓 金城家・仲地家・長田家・福嶺家」という医師を多数輩出した那覇士族の本です。
このブログは旧那覇と真和志市が対象なのでこの一族が開業していた病院のことも取り上げることになると思いますがそれはおいおいやるとして...

結論として、まず饒平名紀順さんが戦前の善興堂病院院主戦前は那覇で開業していた息子の長田(饒平名)紀秀さんが戦後に善興堂の名前で病院を開設ということになります。これだけのことなんですが。
「医師 仲地紀仁/仲泊良夫」には系図もありますので興味のある方はどうぞ。
図はないですが家譜はwebでもみることができます。
http://www.tulips.tsukuba.ac.jp/limedio/dlam/B1241188/1/vol05/indexnaha.htm

ご先祖様は復帰前に切手にもなっています。

これは、1968年に復帰前の沖縄で発行された「仲地紀仁 牛痘種痘実施120年」の記念切手で、仲地が取り上げられています。
http://yosukenaito.blog40.fc2.com/blog-entry-1438.html

新栄通りのなりたち

旧市街は未開放のため、46年秋冬の本土引き上げ那覇人の一部は、開南バス停から下り坂の道路両側にテントをあてがわれ、約80人が入居。井戸がなく、松尾や汪樋川へ汲みに行った。
仲井真元楷は47年3月、松尾の高台に那覇最初の劇場を建てた。48年、新栄通り会長となる。当初はゲタ・線香・野菜をほそぼそと売っていた。50年12月の新聞には「新栄通り 仲井真書店」とある。
公設市場に入店できなかったはみだし組は市場路上の売り場を追われ、市場通り南や、えびす通り、丸国マーケット前、今のみつや書店前の空地で、地べたに野菜を広げ、カゴに鶏やウサギを入れ、板箱の上に手作りの簡単服を並べて売っていた戦争未亡人たち。
やがて一角に露天の衣料売りが集中するようになった。夜、ミシンを踏み、翌日には店に出すという生活。52年9月、地主はトタンぶき棟割長屋を建て、この人たちと賃貸契約を交わした。女性たちが新天地を求めてできた市場、自分たちで「新天地市場」と名付け、店の間取りも畳一畳弱と決めた。みつや書店(前は花城書店)向かいが新天地市場で、新栄通りから裏を含めて300坪に約200人が小店を持ち、衣料品を販売。
戦後の沖縄世相史/比嘉朝進 p32(省略抜粋)


仲井眞元楷(1908-1984)さんは知事の仲井眞弘多さんの父です。
ラジオ沖縄の方言ニュースのキャスター、演劇関係の仕事、空手と多彩な人であったようです。劇場は中央劇場といい現在の松尾公園で露天で営業していました。

戦後ブームだった兎の話も出てきています。みなと村では48年に250、49年に728の飼育数が記録されています(もちろんペットではありません)。
参考:みなと村資料からの数字など

もやし

もやしは水を選ぶ。明治から大正にかけ若狭町に、2、3の業者があって、私の伯母もその一人であったが、大市場に出すと泉崎物には負けると、仲買人が語っていた。そして主に場末の小市場に持って行くようだった。
自分の井戸は、水も豊富で、浅くて使い水には何の不自由も欠点もないが、もやしを作る小屋は、50メートルぐらい離れた下茂門という家の井戸の側に造り、毎日20籠ずつ育て、卸していた(明治40年)。
現在の琉球石油本社の右角向かいの岩陰の井戸で、小屋から出して1日3回、夏は4回水をかける。その時間を、近所の主婦たちは見計らって洗濯をしていた。温かく、洗濯には最適だった。夏は3日で仕上がって、冬は5日ぐらいかかるようだった。上っ面は細長く、安売りされ、多人数の家庭向きだった、1籠が卸で40銭、豆は一晩漬けたもの4升入れる。高さ一尺ぐらいの籠に芭蕉の葉を敷いて入れ、やはり葉で蓋をする。
芭蕉葉は、松川あたりの女たちが、50枚くらい束ねて6銭くらいで売りにきた。
カルテの余白/千原繁子 p62、63

旧琉球石油本社
現在の那覇中学校近辺でのお話ですね。
左は73年のゼンリン地図で確認した琉球石油本社と千原小児科、右は昭和初期の若狭です。那覇中学校(戦前那覇商業)の敷地は変わっていませんので、琉球石油本社近くにあったもやしの小屋もそのあたりでしょう。
関連:グダグダ 那覇商業跡

千原繁子さんの小児科医院あたりは73年当時は松山ですが、昭和初期には若狭です。現在の若狭大通りは那覇中学校より海側ですが、戦前の通りは陸側を通っていて住所の境目(若狭・松山)もそこが境になります。
参考:旧那覇の町名(西側)・親見世
もしかしたら千原さんの医院は戦前からの敷地に作られたのかもしれません。

下茂門は屋号かなと思ったら姓であるようです。
——当時、沖縄出身の医者の割合いはどれくらいでした。
古賀[花子] そうですね……医員はぜんぶそうだったですよ。部長では婦人科の饒平名(長田)紀秀さん、眼科部長の下茂門英信さんなんかがいました。
尖閣諸島開拓時代の人々 (2)

シモジョウ 下茂門 沖縄県。下条の琉球形。
シモジョウ 下門 沖縄県、兵庫県、大阪府。沖縄県うるま市での屋号からの明治新姓。ほか。
人名力 : 日本姓氏語源辞典 おおよそシモ~シモソ

聞き慣れない姓だからといって安易に判断してはいけませんね...

オランダ屋敷

或る日、学校帰りに友人二人と安里の丘のオランダヤーに寄ってみようということになり、その家の周囲を、ウロウロのぞき見していたら、20歳くらいの青い目の娘が出てきて、ニコニコしながら、お入りなさいと庭に応じ入れられた。草花をいちいち説明し、ローラ・シュワルツ、妹はメリーという名も教えてくれた。窓にに金網が張ってあるのが珍しかった。
一年後に桜島が噴火し、義援金の募集に私たちの女学校も参加し、「流浪の民」の4部合唱など好評を博し、ローラ、メリーさんもピアノ、子守唄で出演、皆から親愛感を持たれた。
明治、大正の沖縄の外人宣教師の初代はアモア。私が6歳か7歳頃に、大きな犬を連れ、牛肉をぶら下げて人力車で行くのを一度だけ見た。間もなくサナダ虫で死亡、その墓は天久の寺の手前の外人墓地にあった。
次がブール、そしてシュワルツ。三人とも中学校の英語教師嘱託だった。宮里栄輝、石川正通、真玉橋朝英さんらがシュワルツの教えを受けた年代だと思う。その感化のせいか中学生が大分、天願家の教会メソジストに行くようになって真玉橋さんも洗礼を受けたという。
カルテの余白/千原繁子 p36、37


琉装にカンプー姿のシュワルツの娘達。右ローラ14才、ラナ24才頃
千原さんが安里の学校に通っていた頃のエピソードです。このオランダヤー(オランダ屋敷、安里二階)は安里の高台にあった洋館で宣教師が住んでいました。
沖縄のキリスト教年表は下記サイトが詳しいです(日本語)。

The Timeline of Earl R. Bull and Okinawan Christianity
http://manwe.lib.u-ryukyu.ac.jp/library/academic/bull/man/tl.html


オランダヤーオランダヤーオランダヤー

写真はまた那覇市からの無断拝借です... すみません...

かまぼこ

冷凍設備のない時代には、行事があると蒲鉾及び卵入りの、いわゆるカステラ[※カマボコ]を作るのに苦心した。天気が悪いと一匹の魚も市場に見当たらないことがよくあったからである。
日が決まっている行事の十何日も前に、魚を手に入れて、近所の女や縁者が参集し、手伝って蒲鉾を作り、その前にブリキ缶に蓄えてある豚油の中に埋めるようにつけて風通しの良い所に置いておく。
これを逐一見たのは数え14歳になったばかりの新正が済んでまもなくだった[※明治43年]。
---
その2年くらい後から東町五丁目の、糸満人の居留地みたいな一郭で、蒲鉾製造が始まったと思われる。というのは、いつもの魚売りだったモウサーという女が、蒲鉾売り専門になって、一本700グラムぐらいの蒲鉾を40銭で置いて行くようになった。
私は、往診に行って、営業用の蒲鉾製造の現場を見た。グルクン、飛魚が主な原料で、手抜きはなかったが、味は余りよくなかった。扱いやすいように、つなぎの葛を沢山いれるせいか、堅かった。カステラもそうだった。
その頃から魚売りと言えば、垣花から来る近海魚のピチピチしたのが普通になって、グルクン、飛魚の呼び売りが稀になった。
祝い事、法事などでも、たいていの家は、自家製をやめて、出来合いの蒲鉾、カステラを使うのが普通になった。
カルテの余白/千原繁子 p89〜91(省略と抜粋)

東町の糸満部落

千原さんは呼び売り(行商)から魚を買って総出で作る時期と糸満人が作り始める時期の変化を体験しています。最初に引用したように、蒲鉾は保存が効かず作るのに人手を多数必要とするものですから、いつでも金銭で作りたてを購入できるようになるととって変わられてしまったのでしょう。

[カマボコ製造の]場所は、糸満宿小が集中する東町の糸満集落である。昭和初期に数戸であった那覇のカマボコ屋は、数年のうちに20戸位に増えた。昭和16年の沖縄県蒲鉾工業組合の組合は54人なので、その後も増加している。カマボコ製造は、一戸1〜2人で動力機を据えたものは少なく、糸満婦人の生業として営まれた。カマボコ製造の社会的な役割は、一方で消費市場を拡大し、他方で追い込み漁やマグロ漁業の魚価の下支え、過剰漁獲物の処理を通して漁業の発展を促したことである。
近代における地域漁業の形成と展開 p55(省略編集)


漁業者が加工品製造を手がけるようになったこと、漁業の形態が変化・近代化していったこと、都市住民の生活スタイルも変化したこと、等々が同時進行しています。

関連:グダグダ 垣花の水産関連施設
関連:グダグダ ダシカマボコ
関連:グダグダ カマボコヤ

あらかきバス整備工場跡

「わかさ民俗地図」に那覇尋常高等小学校があり、その隣に「新垣バス整備工場」というのがあります。
松山周辺の官舎群で描いた図でみると高等小学校は現在のワシントンホテル(元沖縄テレビ)あたりです。

「ちからのかぎりに/護得久和子」を参考にすると、1970年に新築した富士写真商会のビルはあらかきバスの敷地を買って建設されたようです。そのビルは主は変わっていますが現在もあります(久米2丁目33番1号)。

あらかきバスは昭和4年から首里那覇間を走って電車に引導を渡しました(昭和8年廃業)。
戦後はあらかき平尾バスになり、しばらくしてから吸収によって消滅しています。

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