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松尾区(昭和26)

最新那覇市地図での松尾区(と周辺)を模写しました。歪んでいる部分があるので参考程度の精度です。
ここでの「松尾区」は1〜11区のように区で住所が示されていた時代のもので、後年の松尾とはことなります。松尾区の範囲は、那覇高〜那覇税務署〜琉球政府〜那覇高と結ぶ四角形の内側だと思われます。

松尾は真和志村ですが、戦後はみなと村になり那覇市となります(参考)。松尾の戦後史資料はほとんど探せていませんが、解放後すぐに住居ができはじめたようです。
戦前の松尾での図も参考として。

二中の前と松尾大通りに住居があるほかは「松尾区」の範囲に住居等は見当たりません。また道なども戦後とは一部ことなっています。

冒頭の図での数字は松尾区○班(○は数字)のようになっているのですが、道路が境界となっていないという特徴があります。
みなと村時代の住居、戦前と戦後の道路の比較、地籍、地形との関連性(松尾は高低差があります)なども考慮しないとわからないところがありそうで二の足を踏んでいます...
とりあえず後日の参考ということで。
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2つの病院通り


那覇には病院通りと呼ばれた病院が集中している地域(牧志と久茂地)がありました。後者をとりあえず「久茂地・美栄橋」と呼びます。
56年の新聞記事で「病院通り会ー大城鎌吉」というのがあるのですが、大城鎌吉は大越(三越)オーナーですので、ここでの病院通りは那覇タワー前の道(上左図)のことだと思われます。
冒頭の2つの図は1958年の地図を参考に作成してありますが、後年病院通りと呼ばれる久茂地・美栄橋一帯にもいくつかの病院があります(上右図)。

時系列で見てみると、昭和26(1951)年の地図では国際通りの拡張工事がなされていないため那覇警察署・南部税務署間は湾曲しています。(美栄橋の)病院通りになった一帯は区画整理がされていますが、この区画整理は国際通りの拡張工事と同時に行われたものだと思われます。
「沖縄・国際通り物語」巻末の年表では、1951年9月に久茂地町・美栄橋町の解放が群島政府に伝えられ、1952年に国際通り改修工事起工、1953年8月31日「那覇警察署〜那覇税務署間350メートル工事竣工」となっています。
病院建設などは1953年8月よりあとでしょう。

沖縄で病院の自由開業のスタートは50年だと思われます(未確認)ので牧志の病院通りでの病院開業も早くてそのころのはずです。
久茂地・美栄橋への病院集中は行政の誘導があったのではないかと考えていますが証拠を見つけきれていません。県庁周辺は行政センターとして位置づけられており、赤十字病院や保健所などが集中しています。

まとまりがありませんが、とりあえず区画整理時期から考えると牧志の方が先にできていて、久茂地の方は区画整理の後に(おそらく行政の誘導で)できたと思われるよということです。

琉球政府告示第76号、105号(1953)

検索していたら面白いものを見つけました。

琉球政府告示第七十六號
一九五二年十二月二十九日付指令第七〇五號で那覇市に許可した牧志街道拡巾工事竣功によりこれに伴う政府道路の路線を左記のとおり變更及び廃止する。
一九五三年六月二十二日
行政主席 比嘉秀平

一 舊牧志街道に替るベき(那覇警察署−南部税務署)間の新設道路を變更道路とする。
二 右道路新設に因る舊道路を廃止する。

http://japan.road.jp/Law/S33_RyukyuK76.htm


こちらは抜粋します。

琉球政府告示第百五號
道路法(一九五二年立法第四十號)第九條の規定に基ずき、政府道を次のとおり定める。
一九五三年九月二十八日
行政主席 比嘉秀平
牧志線|那覇市美栄橋町、真和志村字安里|真和志村字松尾、那覇市、牧志町

http://japan.road.jp/Law/S33_RyukyuK105.htm


前者は造成を行って竣工した那覇警察署〜南部税務署間(現パレット向い角、松尾三叉路角)の区間の認定、後者は政府道の表のうち国際通りだけ抜粋しました。
後者は復帰前に329号や330号等がどう呼ばれていたかがわかります。

国際通り周辺の地形

等高線がある那覇地図(昭和初期?)があったので新県道(現国際通り)がどこを通ったか見てみます。
下左図は昭和初め頃の新県道未開通の地図に推定して書入れたもの、下右図は空襲後の空撮と那覇民俗地図です。国際通りは妙にカーブしていますが、現在の通りは戦後に拡張と直線化をされています。

地図には地名や目印がないのでいまいちわかりづらいのですが、等高線と川の流れを見ることで牧志ウガンがわかり、その前を通っている部分が推定できます。
わかりづらいのは造成工事が行われた県庁から国映館付近なのですが、久茂地小から続く道と那覇高校から尾根を伝って通っている松尾大通りを描いて空撮と比較することで推定しました。松尾の現ブンリンドウ付近はおそらく切り通し工事が行われています。
その他浮島通りは低地、国映館付近から山形屋への丘は連続していることで推定しました。

山形屋からむつみ橋までの区間は造成工事が行われていて写真も残っています。リウボウから松尾三叉路までの区間は造成工事が行われて地形が変化しているはずなのですが、その変化がわかる写真は探せていません。

西新町の移り変わり

西新町の変化を地図から見ます。

左上は明治44年の文書からで、右上もおそらく明治。右下は那覇区全図(大4)、左下は昭和初期
左上はアジア歴史資料センターのもの。
海岸海面及河川1(3)
【 階層 】防衛省防衛研究所>海軍省公文備考類>⑩公文備考等>公文備考>明治>明治44年>「公文備考 土木12 巻112」
【 レファレンスコード 】C07090245300【 画像数 】52


西新町1丁目から2丁目の三重城までの埋め立て前の様子は唐船小堀(明治初期)を参照して下さい。

奈利久保原・十貫瀬原・名嘉志・瀬辺松尾原・壺屋後原

沖縄県管内全図で参照できる牧志近辺の原名です。下図は大正4年の那覇区全図を加工して原名を書入れました。
沖縄県管内全図/沖縄県 著/金港堂書籍/明治39(1906)年
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1089186



奈利久保原、十貫瀬原、名嘉志、前原、瀬辺松尾原、壺屋後原です。そのほかには牧志部落中心部に牧志とあります。
下記pdfの19ページが参考になるかと思います。

明治 三 十 五 年 ・ 三 十 六 年 の 村 の 分 合 配 置 区 域 字 名 に つ い て
http://osm.a.la9.jp/siryo/kinjo.pdf

山形屋前(警察署前)

昭和に入ってから見世の前にできた山形屋です。写真は下記アドレスの写真(写真左側)と別の写真をパノラマ状態になるように合成してあります。

左:http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=1035
右:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Okinawa_Electric_Railway_in_the_vicinity_of_Misenomae.JPG

下図の右は「那覇の民俗ニュース」にあった山形屋建設前の図、左はその範囲を示したものです。下記アドレスで下図にある並川金物店と仲村渠呉服店を見ることができます。
那覇まちのたね通信 | 那覇(商店)/並川龜治良商店
http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=1029
那覇まちのたね通信 | 那覇(商店)/仲村渠呉服店
http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=1019


下写真は通堂から来た電車が並川金物店前を曲がって久茂地川向け(市場向け)にゆくところを交差点から写したものだと思われます。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Okinawa_Electric_Railway_in_the_vicinity_of_Ichiba.JPG

関連:グダグダ(β) 大正の仮屋の前 (大正5年には警察の門前のガジュマルは台風で折れていた)

円山号の外観

月刊琉球(第2巻第7号/昭和12年)の表紙に円山号の正面写真があったのでまちのたね通信の写真も参考にして図にしてみました。
歪んでるのは大目に見て下さい(笑)。

那覇まちのたね通信 | 那覇/大門前通り
http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=1043


まちのたね通信の写真は大門通りを北から南(久茂地から西町)に向けて撮影したものです。下図では右から左になります。


月刊琉球で見ることができる円山号はガラスのショーウインドーが大きくとてもモダンです。そして各階のベランダ(?)には照明、一番高くなっている部分にはネオン、大きな窓からは明るい内部が見えて今より暗かったはずの戦前の那覇ではかなり目立ったと思われます。
コンクリ三階建ての円山号の写真は少なく、建物の全体像がよくわかっていなかったので月刊琉球掲載の写真には驚きました。この建物は戦後も使われていたんですが60年代頃(?)に取り壊されたようです。

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