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那覇の河川

下記pdfから図を切り出しました。コントラスト等をいじってサイズ変更してありあります。

那覇市の湧水と川めぐり
www.oeel.co.jp/nahaecopnf1.pdf



このpdfは「バスで巡る那覇市の湧水・川ツアー」で使われたもののようです。
那覇市内の(比較的)大きめの河川がわかりやすいかなと思いました。

小さめで河川とも呼べないような流れもいくつかあります。常時流れていたかどうかは定かではありませんが、繁多川から松川小学校前を流れて真和志中学校そばで合流する流れや松川団地付近から沖縄工業高校付近で合流する流れ、真和志高校から真地を下る流れもあります。
@nifty:デイリーポータルZ:市街地で分水嶺を探すというwebページがちょっと凄かったのですが、土地があって傾斜がある以上はこのサイトで示されてるようになります(是非見て頂きたい)。湧水からの流れと溝を区別しないでこだわらずに考えるならばそうなります。
湧水は染み込んだ雨水が地下を経て地層の関係で湧き出て来たもの、溝は地表にあらわれた水の流れなので、土地の大きな生理作用だと考えれば似たようなもんです。
たとえば寄宮中学校付近で消えてしまうガーブーもその周囲はすべて丘、ガーブーあたりを最低地として水が集まってくる地形で下には水も流れているでしょう。

土地の生理作用としての湧水と溝は、人間が<どう利用するか・してきたか>という視点で考えると意味合いが全然違ってきます。
このサイトのは原名をやたらと調べていますが、原名も人間が<どう利用するか・してきたか>で利用方法と名前が決まっています。土地の生理作用や土質・地形が下部構造、その土地を利用してきた人間の暮らしが上部構造という感じでしょうか。
そのあたりの人間と暮らしと土地のからみあいとしての歴史がうまく書ければ良いなと思っています。

現在はドブと区別のつかないそのような小さな流れも取り上げていくつもりです。
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首里



首里の地図です。
無断拝借しております... m(_ _)m

旧町名の番地

旧那覇の町名の番地です。町名は略してありますがリンク先の町名図で確認できます。
※旭町が抜けていますが大正年間の埋立でできていて那覇に所属します

グダグダ 旧那覇の町名(東側)
グダグダ 旧那覇の町名(西側)・親見世

東町と西町の番地はこんな感じ。

戦後の那覇の区

※近日中に大幅改定する予定があります(2012.6.22)

戦後の那覇にあった区の図です(正確なものではありません)。1〜11区までのみ描いてあります。
昭和26年6月に発行された「最新那覇市地図」を元にして作成してありますが、この地図は裏に参考にすべき図がなかったため作成が難しかったことが書かれてありました。地図はすべて手書きで文字等もほとんどが手書きです(タイトルのみ活字)。
戦後の区
以下は各区ごとに描いたものです。これも数字で表された区のみ描きました。
那覇1区 
那覇2区
那覇3区
那覇4区
那覇5区
那覇6区
那覇7、8区
那覇10区
那覇9、11区

これで戦後の繁華街の住所検索がやりやすくなるかと自画自賛。

那覇の低地

那覇周辺の浸水予想図です。


お気をつけ下さい。

琉球国惣絵図

「琉球国惣絵図」です。
画像は「小禄 -OROKU- うるく」さまより無断拝借しております(すみません)。m(_ _)m

超ローカル「小禄 -OROKU- うるく」ホームページ
http://takara.ne.jp/oroku/index.html

空襲罹災地域

10・10空襲(1944.10.10)で被害を受けた地域です。図は「那覇市被害状況図」、那覇百年のあゆみに掲載されているものを参考にしました。
自分が作った図は元図が昭和初期相当のものなので昭和19年当時とはすこし違いがあることを考慮くださいませ。
空襲罹災地域
まず港湾が破壊され、三次空襲が垣花、四次空襲が那覇市街地だったようです。これによって90%が焼失しました。
酷い話なんですが富山徳潤那覇市長は空襲後に九州疎開地視察と称して沖縄を出て戻りませんでした。島田県知事と対比させて語られることの多い話です。
那覇市長に兼島助役
那覇市長富山徳潤氏は敵来こう前県外出張したまま帰任せぬので島田知事は市長の留守をあづかって敢闘した兼島景範氏を廿七日付をもって市長に任命した
http://hc6.seikyou.ne.jp/home/okisennokioku-bunkan/okinawasendetakan/okinawasennosinbunkara.htm


沖縄に展開中の日本の戦闘機部隊は、陸軍第8飛行師団隷下の独立飛行第23中隊(三式戦闘機など12機)のみで、(略)海軍の銀河爆撃機9機や偵察機、輸送途中の航空機があるだけという状態だった。空中退避が間に合わないまま、多くの航空機が地上撃破された。独立飛行第23中隊は離陸に成功したものの、大半が撃墜された。

航空機以外にも日本側の被害は甚大で、港に停泊中の潜水母艦迅鯨など海軍艦艇22隻、輸送船4隻が撃沈され、輸送船2隻が大破した。
http://ja.wikipedia.org/wiki/十・十空襲


迅鯨が沖縄で沈んだことや三式戦闘機(飛燕)が配備されていたことは初めて知りました。
この空襲以降疎開が増加してゆきます。

唐栄久米村と天妃宮

唐栄久米村と天妃宮
日本における天妃信仰の展開とその歴史地理学的側面(高橋誠一)
http://www.icis.kansai-u.ac.jp/paper02.html#10
http://www.icis.kansai-u.ac.jp/data/journal02-v1/10_takahashi.pdf


高橋誠一さん制作の「唐栄久米村と天妃宮」図です。上記アドレスのpdfから切り出しました。
この図はここでも触れた「琉球の都市と村落 (関西大学東西学術研究所研究叢刊) 」に掲載の図に着色したもののようです。あの図はいろいろと参考にしていています。
改めて感謝申し上げます。m(_ _)m
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