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通堂町(昭和4)



昭和4年の通堂町1・2丁目。
1丁目2丁目
通堂町3丁目。

図については、参考にしているものや作図の下絵にしているものなどでも細かい違いがありますが、この辺については畳みます。
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西新町(昭和4)

西新町です。
左は県立図書館の那覇区全図(大4)から切り出して画像加工、右は米軍撮影の写真。

もう一つ新聞資料による旧慣制度撤廃後那覇の地図作成での図も一部参考にします。

1丁目2丁目

三丁目はたたみます。

東町(昭和4)


東町は元図と自分が参照している昭和4年の図で結構違いがあり、埋立がまだのところ(元図では斜線が引かれている)は昭和4年ではすべて埋立済みとなっています。
番地を細かく見ると3丁目の海側埋立地は番地の番号が大きかったりします。

1丁目2丁目3丁目4丁目5丁目
※5丁目は1と2だけで、範囲もその周辺のみです

西本町(昭和4)


元図の年代はわかりませんが自分が参考にしている図は昭和4年のものです。
下の番地は敷地などが上の図とは少し違いますが、これは図にする時に簡略化されたものらしく、正確な敷地などは上の図がより正確ではないかと思われます。また自分が作図するにあたって多少の簡略化と推定を含んでいることを了解下さいませ。
1丁目3丁目4丁目5丁目

二階建て分布図



「那覇市における木造二階建住宅の研究」にある図に着色して文字を書き加えました。

神里原(58年)



「沖縄主要都市地図 1958年9月/崎原久 編/沖縄出版社」中の地図を参照して作成しました。破線の部分はよくわからないところです。

色を変えてある箇所について。
那覇劇場〜大洋劇場後方間の破線は元図では直線になっています。51年頃の「最新那覇市地図」ではこの間に道は書かれておらず、ゼンリン地図69年版でも道はありません。なんですが、この一帯は住宅・店舗密集地帯であったわけですから、住宅・店舗間に私道があってそれは表記していないと考えるのが妥当ではないかと思います。
上図で直線になっているのはカーブを省略したか、あるいは本当にそういう道だったかのどちらかで、おそらくこの道は6区と2区の区境にもなっています。

那覇まちのたね通信 | 真和志/樋川高台から神里原方面を望む/那覇市歴史資料室収集写真/戦後/写真右側に神原小、大浜病院が見える/(1958年頃)
http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=1831


もう一つ色を変えて表示してある川に沿うようにしてある道(緑色)は現在の道と同じと考えていいのではないかと思うのですが、元図では新栄橋(新栄通りとの交差部分)で十字路であるかのように描かれていません。たいしたことではないかとも思うのですが一応。

左上部分の開南バス停から浮島通りへ向かう道(中央通り)ですが、ここは実際の道を無視して元図の表記にできるだけ近く描きました。この部分については後日別項で取り上げてみたいと思っています。
参考:中央通り(52年)

この図は元図に似せて書いてあります。
中央通りから浮島通りへゆく道には「那覇湯」がありますが、ゼンリン地図69年版では浮島通りに合流する手前に「那覇湯」があります。58年と69年で位置が変わっていないのであればこの図の方が現実に近いことになりますが、他の部分は変わらないのに中央通りだけなぜ最初の図のような描き方をしたのかはわかりません。

新栄橋から緑色で表示した道と平行するようにある道は中央通りから来る道と交差した先が現在の地図にはありません。元図ではこの交差部分は十字路となっています。なんですが、現在の地図でも少しずれれば
道はありますので、これは省略されたか実際に変化したかのどちらかでしょう。

旧那覇の歴史・民俗地図


1141×800 260KB

もともとのオリジナルは那覇市史に付属していたものです。

那覇市史 資料篇 第2巻中の7 那覇の民俗(1979年)
沖縄戦で破壊される前の旧那覇・首里・真和志・小禄・の社会生活、衣食住、生業、信仰と祭祀、年中行事、人生儀礼、民俗知識、芸能、言語伝承を216点の写真、図版、地図5枚を添えて詳述。付録:那覇市歴史民俗地図(5葉)


画像は下記サイト掲載のものを無断拝借(失礼)。上の画像は拡大してあります。

http://lions-mansion.jp/sumai/special/okinawa/towns/naha.html

新聞資料による旧慣制度撤廃後那覇の地図作成

面白かったのでご紹介。

新聞資料による旧慣制度撤廃後那覇の地図作成 : 近代期那覇の復原的考察(歴史・意匠)
http://ci.nii.ac.jp/naid/110006974616


画像は論文からスクリーンショットで作成。潰れちゃってるとこがあるので興味のある方は原文にあたってください。

1134 x 800 460KB

那覇全体の宅地割について述べたい。先の復原作業では昭和期の地図を土台としたが、それにも関わらず明治37年の地番を推定することができた。つまりこれは、明治37年以降の地割が大部分において細分割されることなく昭和期まで継承されたことでもある。これらの各地割形状は、正方形に近い多角形の形状をして屋敷型の宅地割で、1737年に出された屋敷地一辺の長さでもって制限を加える近世の家作令に由来すると見て間違いない。遊廓地を除く大部分については、久米をはじめとして比較的広大な宅地割で構成され、昭和期の地図でもその様子は窺える。那覇の現住人口は、垣花・牧志を編入した後の明治36年の時点で42,842人、大正3年には56,481人に増加している。この15000人余の増加人口は、各宅地の内部において貸家を建てて吸収されたと解釈できよう。 

「この15000人余の増加人口は、各宅地の内部において貸家を建てて吸収された」ってのは興味深いです。
昔の屋敷割の図は県立図書館の貴重資料デジタル書庫で「久茂地村屋敷図」を見ることができます。

http://archive.library.pref.okinawa.jp/?type=map&articleId=50017

字西・字東を中心とする一帯には、寄留商人による大規模な米穀、呉服、雑貨の卸売店舗、本土商店の支舗、高級旅館、銀行、大通りに面しつつも敷地の狭小な箇所については飲食店が分布する。海に面する字西の埋地には、海運業者、材木業者、砂糖や肥料関係の移出入業者とその倉庫が集中し、字西辻には近世以来続く遊廓街と、その一部に菓子店や飲食店があり、字東西岸・字泉崎中央部には明治41年に辻遊廓に統合されるまで渡地遊廓、仲島遊廓があった。各戸の敷地が広大な字久米には会社役員の寄留が多く医院、教会などがある。字若狭町の南側には官舎が集中し、北側には漆器製造関係者が目立つ。字久茂地には、電機会社や農場試験場、移民取扱所、染物所、パナマ帽工場、製材工場、樽製造工場、煙草工場などの工場が多いが、久茂地川に沿った立地に起因するであろう。字泊においては、前島には製塩業者、その他に多数頻出するのは車夫で、首里との往来に需要があった。
なお那覇全体に関しては、至る所に県内外出身の相当数の寄留者がいた。商店に丁稚した者はもちろんのこと、医者も好立地の場所に寄留して開業し、寄留商人も更なる適地を求めて移転する事例が見られる。


最初にあげた図の範囲の街の様子を見るのには国場組社史のなかにある市街図がわかりやすくていいです。

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