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美栄橋町(昭和4)

美栄橋町の番地です。

1、2丁目の範囲は下図参照。
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美栄橋町の店舗名(昭和4)

那覇区全図(大4)を参考にした昭和4年の図(左)です。右図は同時期の那覇地図に同じように書入れたもの。

那覇市美栄橋町と真和志村の境界線はわかりにくく、区画整理がされているためほとんど目印もありません。戦前の松尾での図での境界(下左図左上)は真和志民俗地図を参考にしていますが、那覇民俗地図とは微妙に異なっています(参考:那覇民俗地図での境界)。

下図は那覇市旧跡・歴史的民俗地図での道に真和志民俗地図での境界線(ピンク)を書き入れたものです。

現国際通り入口付近は、県庁・警察署の移転、そして新県道(現国際通り)が開通してからの昭和初期以降に少しずつ市街地化していったのでしょう。

参考として。
砂川惠姿(大黒屋)さんは「昭和6年12月[大阪より]帰郷。那覇市県庁前にて大黒屋を開業」しています。

戦前の松尾

沖縄タイムス掲載の「思い出のわが町」から「戦前の字松尾民俗地図」、想定年代は昭和10年頃のようです(参照:那覇の民俗編集ニュース)。

元図は上の図よりもうすこし範囲が狭く、周辺部の書き込みなども少なくなっていますので、(上図で)確実なのは国映館周辺のみではないかと思われます。また緑色を畑としてありますが、元図では畑と書かれていない箇所も畑だったと推測できる箇所は畑に分類しました。

写真を見ても殆どが畑であったと推測できます。

「首里古地図」と首里城下町の復原/松川

関西大学のリポジトリから。

「首里古地図」と首里城下町の復原/高橋 誠一
http://kuir.jm.kansai-u.ac.jp/dspace/handle/10112/4314



東恩名文庫版、嘉手納宗徳作成版、田名・吉川作成版の「首里古地図」をめぐる話と現在の地図上に古道を再現するとどうなるか等々面白いです。
上の図はpdf中の図から(当方守備範囲周辺の)松川・金城町あたりを切り出して作成しました。首里古地図の範囲はpdf中に全部ありますので首里に興味のある方は必見かもしれません。

大門前通りの店舗名

那覇区全図(大4)での大門前通り。孔子廟から市役所前までの大通りです。


沖縄タイムス掲載の「思い出のわが町」から「戦前の大門前民俗地図」。

同じ連載での東町の店舗名と食い違ってる部分がありますが、ほぼそのまま模写してますので食い違いも元図のままということでご了承いただきたい。

実際の那覇市街がどうなっていたのかは下記リンク掲載の図などを参考に。
グダグダ(β) 昭和初期の久米と景観推定図
グダグダ(β) 新聞資料による旧慣制度撤廃後那覇の地図作成
グダグダ(β) 那覇地図
グダグダ(β) 旧那覇の歴史・民俗地図

※食い違いは図の想定年代の違いの可能性があります(東町の店舗名に追記)。
※那覇の民俗編集ニュースの「那覇の民俗地図町(字)別想定年代と作成協力者」の「東町 昭和15年頃 山田有邦」というのが図の作成者ではないかと思われますので、想定年代は昭和15年頃になるかと思われます。

旭町の店舗名

沖縄タイムス掲載「思い出のわが町」の「泉崎、湧田民俗地図」から旭町部分。


昭和4年の番地図ではこんな感じ。冒頭の店舗名図とは敷地が微妙に違うような気もしますがこうなってんだからしょうがないのです...

参考として小牧薫さん。店舗名図での小牧商会はだいたい5あたりですね。

小牧薫 肥料 那覇市旭町5
君は鹿児島県人故小牧藤次郎氏の長男にして、明治35年を以て那覇市に生る。鹿児島商業学校に学び大正13年以降家業を継いで今日に及んで居り、肥料商の傍ら石門通りに日蓄堂を経営し、蓄音機販売店を兼営す。


店舗名図中の金城キク商会は戦後の会社と同じ名前が書かれています。戦後の金城キク商会の前身は戦前の旭町にありましたが、当時は急設されたお父様の会社を引き継がれていた時期ですので、戦後神里原で創業された金城キク商会とは(正確には)異なっているかと思われます。

※未確認ですが図の想定年代はおそらく昭和6年頃、図のオリジナル作成者は崎間麗進さんだと思われます(参照:那覇の民俗編集ニュース)。

戦前の壺川

沖縄タイムス掲載の「思い出のわが町」から。想定年代は昭和5〜6年頃のようです(参照:那覇の民俗編集ニュース)。
ゼロから作っているので多少の歪みがありますのでご注意。

またピンクで示した民家には畑地の所有者名と思われるものもあるのですが、特に「畑」と書かれていないものは民家にしてあります。具体的には図の右側にある大きな敷地の部分です。

いくつかの別荘、海に近いあたりにはヰー畑(いぐさ)、そして墓地があり、泉崎と旭町に近いあたりは宅地化してきています。またブリヤシチ(群屋敷)や貸家の表示も見え庶民の住む地域だったこともわかります。

拝所と旧跡(赤と緑)、井戸(青)、後年の施設と道路(紫)など。銀バスはもうありませんが過去の地図を参照するれば参考になるんではないかと。


参考:グダグダ(β) 壺川

東町の店舗名

沖縄タイムス連載「思い出のわが町」の「戦前の東町民俗地図」をもとに作成しました。
読み取れない文字などは省略してあります。


【追記】新聞に掲載されていた図は「那覇の民俗編集ニュース」に掲載されていた「戦前の(昭和3年頃)東町民俗地図」がオリジナルだと思われますので、上図の想定年代もおそらく昭和3年頃だと思われます。
作成者は仲宗根宗温さん、作成日時は「1975.11月」となっています。

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