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下国場・樋川

国場には戦後に移住してきた人達がいます(いました)。
下図は真和志誌の図を参考にして作成してありますが正確なものではありませんのでご注意。松尾は洗田原と勝良又原の一部、壺川は勝良又原、後原、垣新原のそれぞれ一部だと思いますが、各原の境界線がはっきりしないため道路などとの位置関係から推測してあります。

戦後は割当地と称し、松尾、壺川、壷屋等の住民が、自分の地への居住がかなわず一時的な処置として、行政側の一方的な指導のもとに勝良又原に住居を構えた。土地の境界確認もないままに住宅が立ち並び、境界の確認混乱地域になり、現在に至っている(寄宮中の裏門向かい側付近)。
国場誌 p90 
グダグダ 勝良又原(国場)

松尾壺川
このような事情からとられた特別措置が「割当土地制度」であった。これは当面の緊急の必要から住宅・農地などの個人所有地や公有地について市町村長や米軍地区隊長の権限で土地を割当てて利用させようというものである。
また土地所有者は割当を受けた人々から地代をとってはならず、立ち退きを要求してはならないとされていた。
那覇市史 資料編第3巻の1 p193(省略と編集)
グダグダ 割当地


他にも真玉橋付近に開南周辺から移住してきた人達がいます。
図は真和志市誌にあった図を参考にしました。グレーの部分が下国場、通称“樋川”です。

下国場は現在の国道を境にして国場の下方に二中前や開南、樋川から戦後移住した人々15〜55戸で、現在下国場を樋川とも称しており、元の居住地の樋川を通称したものといわれている。
那覇市史 資料編第3巻の1 p51

樋川

寄宮十字路付近の一帯には、先述した松尾や壺川だけではなく、多数の地域からの移住者がいます。また安謝では住吉町の移住者がそのまま住吉区を名乗ったりもしています。

参考:グダグダ 大原区(寄宮) (寄宮十字路近辺)
参考:グダグダ 岡野区/住吉区(安謝)
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南陽酒造跡(小禄)

小禄の南陽酒造です。ここから小禄になります。

小禄
南陽酒造は青いポインタ、十字路は奥武山公園角の交差点です。
南陽酒造跡はここ -> 小禄421 - Google マップ


左写真は国土交通省の航空写真(復帰前)、右は昭和初期の地図とそれを修正したものです。
右の地図ですが、那覇民俗地図では南陽酒造とガーナ森とアカバタキーが直線上にならんでいるのでそうなるように修正しました。実際の航空写真でもそれに近くなっているのがわかるかと思います。
ガーナ森はここ(那覇市鏡原町10-2 - Google マップ)にあるカラオケ屋の後方です。
小禄開放地

南陽酒造跡の交差点は小禄ボウルから落平に向かう道がかつての海岸線、小禄ジャスコから古波蔵への道がかつての旧道です。
航空写真をよく見ると古波蔵側はかつてのアカバタキーの地形を少し残しています。

戦前の字小禄民俗地図

「戦前の字小禄民俗地図」が掲載されているサイトがありました。

うるくの泡盛(4):うるくニッポン放送
http://oroku.ti-da.net/e1873533.html

小禄
無断拝借済みません... m(_ _)m
※色とポインタは自分が加工してあり少しサイズも縮小してあります。

なかなか目にすることもないかと思うので説明しておきます。
那覇市が制作したと思われる「戦前の○○民俗地図」というのが散見されますが、たぶん那覇市史につけられた「那覇・真和志(首里、小禄)の民俗地図」の調査段階での部分図のようなものではないかと思っています。区域が狭い分詳細な面がありこれも参考にしています。
グダグダ 真和志民俗地図
5.本地図は昭和51年末から昭和53年夏まで約2年近くにわたり、市内各自治会を始め、200余名の古老の協力と助言を得て、まず旧那覇(24町)、旧首里(19町)、旧小禄(12字)、旧真和志(23字)の町字ごとの民俗地図素案をつくり、これをもとにして、四地域の歴史民俗地図を作成、さらに地域に詳しい古老学識経験者による数回の監修を経て完成したものである。那覇市史 資料篇 第2巻中の7 那覇の民俗[付属図]
グダグダ 歴史民俗地図

つまり那覇市製作の「旧○○の歴史・民俗地図」の製作前段階の図です。
自分はこの前段階の図を字史(字誌)や新聞等に掲載されているのをコピーして集めてあるのですがまとめて掲載されている本や資料を知りません。まあ今は字史(字誌)が結構出ていますのでそれを参照するのでもいいんでしょうが商店等や屋号を含めた人名が載っているというのは貴重だなと思います。

酒造組合名簿(1962)

酒造所について調べていたら面白いページを見つけました。
泡盛館のページのようです。

1962年(昭和37)酒造組合名簿
http://www.awamori.co.jp/meibo.html


泡盛についてはこちらもまとまっています。

語り部の庵|泡盛について|沖縄の泡盛 古酒 瑞泉酒造
https://hs32.drive.ne.jp/zuisen.co.jp/aboutus/legend/article_00.html


自分の興味の範囲は、自家生産のような体制からの工業化(明治期)、戦前の輸出体制、戦後の闇酒、戦後初期の販売体制、ボトルでの販売への移行のあれこれってとこでしょうか。あと気になっているのは泡盛以外の酒造(伝統製法以外での酒造)です。
消滅した旧那覇・真和志の酒造所もおいおい取り上げたいと思います。

垣花町

那覇市史から垣花の項目を引用します。那覇の対岸は住吉町、垣花町、山下町です。

垣花町
住吉町の南東部で旧湖城村である。対岸の渡地と君南風の遙拝所との間に昔から明治中期ころまで渡し船があった。那覇から島尻への交通の要所で、ここから住吉町との境界になっている道を南西に進むとガジャンビラに出て糸満街道につながる。
垣花には農業神の土帝君があり、上の棚という台地もあった。生業は通堂仲仕、荷馬車業、織物業、染物業、農業等であった。
産業は秋山織物工場、浜田造船所、谷鉄工所、沖縄製氷、具志堅味噌醤油、川上醤油、当間酒造などである。公共的なものは、沖縄水産試験場、垣花郵便局、垣花市場、高良医院、袋中寺などがあった。
那覇市史資料編第二巻中の7、p37


戦前の垣花はその大半が那覇港に仲仕として働いたのと、那覇に食をもついわゆる勤め人であったので農村社会とはことなあった那覇市街近郊の性格を新たにした村であった。農村地域で見られるサーター組みなどの共同作業組織はなかった。
部落の共有地は湖白の御嶽、儀間の御嶽、地頭火の神、クムイなどがあった。部落のグムチは覚えないが現在門中で行って学事奨励会の費用にあてている。部落は那覇港に面して立地しているため宮古、八重山からの寄留民も多かったが、大正時代に首里三カから、イシチャーグヮー(石川小)、津波古、知念ほか一軒が転入して酒屋を開業していた。
那覇市史資料編第二巻中の7、p54



当間酒造は当間重民がやっていた酒造所でしょうか。
那覇民俗地図ではすぐ下の山下町にも酒造所のマークがありますが、落平樋川もあるくらいですから酒に必要な水の質は良かったのでしょうね。

関連:グダグダ(β) 柴田政太郎
関連:グダグダ(β) 秋山常盤

首里



首里の地図です。
無断拝借しております... m(_ _)m

末吉

現在の首里末吉町です。

西原間切の西端部に位置し、北は浦添間切の沢岻村・経塚、南は真和志間切の真嘉比村、東は首里及び平良村に接し、村中南部を安謝川が西流する。村の北東部は屋取の大名。浦添から首里に向かう道が通っており、旅の安全を願って謡われていたヤラシイグワイナ(クェーナ)に「平良ふな」と「あだにが」が見える。浦添を経て首里に上る途中の地名として謡われたもの。
絵図村帳・琉球国高究帳の真和志間切に「末吉村」とみえ、高究帳によると高頭75石余、うち田49石余・畠26石余。1670年頃までに西原間切に移管。
1920(大正9)年西原村から首里区に編入され、末吉町となる。その際大名が分離し、大名町となる。
---
1880(明治13)年には戸数138、人口669。
1903(明治36)年には戸数182(士族13・平民169)・人口881(士族72・平民809)。
角川辞典 p182 (省略と抜粋)


もともと真和志間切で西原間切になり、その後首里に編入ということです。首里の範囲は現在の区域よりずっと狭いですのでご注意。
参考:西原町 - Wikipedia


また那覇市史でも旧西原村(平良・大名・石嶺・末吉)は首里とは区別されています。
大名はこんな感じ。

平良村の屋取で首里士族の移住地である。大正9年に独立したが、町内にある御嶽や村川は平良に関係するものである。
那覇市史資料編第二巻中の7、p29

旭町の解放時期

大分前に旧那覇地区の解放順序を書いたのですが旭町の部分を抜かしていたことを説明し忘れていました。
解放時期は1945年か1951年かどちらかです。


参考にしているのは那覇市史掲載の図で、解放時期別にスクリーントーンの柄が分けられています。しかし旭町に貼られている柄は説明にもありませんし他の所にも同じものがありません。1945年返還は細い横縞のスクリーントーン、1951年返還は縦縞になっていて、旭町は細い縦縞です。
※手持ちの那覇市史のコピーは図示しているものと異なっていてその理由もわかりません
※話は手元の図のことに関してです


1945年解放の細い横縞を縦にすると旭町に貼られている柄と同じで、旭町の細い縦縞は1951年解放の縦縞とは幅が異なっています。
以上のことからの邪推ですが、単に1945年解放のスクリーントーンの縦横を貼り間違えたんではないかと考えています。手持ちの図と掲載した図の違いはそのあたりを修正したものではないかとも思っています。

旭町はみなと村周辺ということもあって解放も早かったのかもしれません。
那覇返還
参考:Category/みなと村

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