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料理屋の酌婦

料理屋はあいまい宿というのが実態だったと思われますが、辻以外には貸座敷の免許がおりないのでこういう営業しかできないのでしょう。
新聞記事から寒水川(松川?)の料理屋を取り上げますが、この「料理屋女」は実態は娼婦であるのにも関わらず県などのジュリ統計数には入っていないはずなので県内娼婦の総数を考える時には考慮する必要があると思われます。年齢も若いので辻下がり(チージサガイ)でもないでしょう。
参考:グダグダ チージサガイ

首里区字寒水川玉城料理店の酌婦渡慶次ウシ(18)は、かねており島袋松という役者と無二の間柄となり、果ては後々のことまでも契り合い、店主よりの前借金4円もすでに支払い近日のうち他所へ引き移らんとせしに、ウシは近頃より足痛に悩まされ、やむを得ず、右の料理店にて治療中、島袋松は例の通りウシの寝室へ忍び入り、首里署の手に取り押さえられたるが証拠不十分にて放還。
明治35年7月7日
沖縄の遊郭 -新聞資料集成- p253
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真和志間切松川村玉城料理店の酌婦、西原間切小橋川村番地不詳大城カマ(18)は、密淫売をなしたるかどにより署に於て留置取調中。
明治35年8月21日
沖縄の遊郭 -新聞資料集成- p255


玉城料理店が寒水川と松川の両方にあったか間違いか不明。

首里区字久場川料理店酌婦、大里間切宮城村番地不明の名城オト(21)は密淫売の所為に寄り拘置7日に処せられ、去る26日収監されたり。
明治35年6月29日
沖縄の遊郭 -新聞資料集成- p253


久場川にも料理店。
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南城市の原名

検索していたら南城市の原名(はるなー)図がありました。
このブログには関係ないんですが。

2006年1月1日、島尻郡の佐敷町、知念村、玉城村、大里村が合併して誕生した。
南城市 - Wikipedia


直URLはこれ↓。6.6MB ありますが興味のある方はどうぞ。

www.city.nanjo.okinawa.jp/DAT/LIB/WEB/1/keikakuzu3.pdf

いつかは那覇の原名図もちゃんとつくりたいんですが...

宮国酒造合資会社?

表の比較から宮国酒造合資会社です。

宮國定令/識名998番地 [南部酒造組合]
宮国酒造合資会社/銀泉梅酒/那覇市字識名 [酒造組合名簿(62年)]


場所はここらへん。正確な場所ではないのでご注意。

那覇市識名1丁目4番1号 - Google マップ

宮国姓は宮古だと思いますが、どういういきさつで那覇で酒屋を営むことになったんでしょうか。
不思議なもんです。

戦後の井筒屋

戦前の沖縄そばの名店だった井筒屋です。

後に「毎日2000杯を売る」伝説の名店として語り継がれる井筒屋も同じ年に開業している。
沖縄そば - Wikipedia


1948(諸和23)年4月、開南で新里有四郎が沖縄そば屋をオープン。新里のそば屋は戦前、父親が波の上で経営していた「井筒屋」という有名な店だった。
開南に30000B円で天幕の家を買った。楚辺の規格住宅を崩して、その材料で家を建て替え、そば屋を始めた。4年ぶりに井筒屋の看板が復活した。かつての井筒屋の名前にひかれてお客さんがいたが、旧那覇市の中心街だった波の上に比べると、もうひとつ場所が悪い。
「親父は一等地に出たがってましてね。平和通り付近に出たいというのが口癖でした。国際劇場の隣でやっている高良一さんの食堂に目をつけたんです」
「親父は、あの場所では毎月15000円あげないと儲けにならないと計算しました。しかし、どうも10000円前後の利益しかあげていないようだ、とよんだんです。それで人を介して、ひと月15000円で借りたいということを高良さんに話してもらいました」
話はすぐに決まった。1949(昭和24)年11月、井筒屋は戦後の那覇の中心地に進出を果たしたのである。
1955(昭和30)年12月、新里は沖縄事務機社(現オキジム)を設立。この5年後、井筒屋の看板をおろした。
戦後の沖縄世相史 p74〜77(抜粋と編集)


戦前の井筒屋は西武門にありました。そこがどのような場所であったのかといえば、辻の入り口そばで電車停留所の側、若狭町という庶民街のそばという食堂としてはいうことのない立地です。戦後の井筒屋は開南時代を経て現在のテンブス(国際ショッピンセンター跡/国際劇場跡)あたりにありました。閉店は1960年ということになるでしょうか。



この写真は井筒屋がうつっているかどうかはわかりませんが参考までにあげておきます。

参考:グダグダ(β) 開南通り(50年代) (開南時代)
参考:グダグダ(β) ゆたか屋 (戦前の辻時代)

南部酒造組合名簿から

表の比較での位置など。
※アバウトなものなのでだいたいこの辺と思って下さい

糸数宗信/大道151番地
那覇市大道151 - Google マップ

上原良煕/安里388番地
那覇市安里388-1 - Google マップ

佐久本尚哉/寄宮122番地
沖縄県那覇市長田1丁目周辺の地図 - Yahoo!ロコ

宮里喜正/牧志町2丁目400番地
沖縄県那覇市牧志3丁目周辺の地図 - Yahoo!ロコ

山城堂立/大道364番地
那覇市三原2丁目1番34号 - Google マップ

屋宜宣徳/松川279番地
那覇市松川279番地 - Google マップ

屋宜光一/壷屋町294番地
那覇市壺屋2丁目18番14号 - Google マップ

合資会社謝花酒造所

表の比較での「合資会社謝花酒造所/安里447」かもしれない場所で、地図での「安里447」の位置をポインタで示してあります。
ピンポイントにここであったとは言えませんが沖縄主要地主要商工年鑑(1952)ではだいたいこの位置にあります。
謝花 寛/安里447番地 「南部酒造組合」
26.合資会社謝花酒造所/琉球泡盛・白菊/那覇市字安里 [酒造組合名簿(62年)]


参考として69年のゼンリン地図での現安里駅あたりがどうなっていたのか図にしてみます。69年時点では謝花酒造所はもうありません。
ポインタは「謝花弘」さん、赤で示した道幅はほぼ同じです。安里立体高架橋は1970年完成のようです。


以下余談として。関連性があるのかどうかわからないのですが戦前の若狭町には「与儀謝花酒屋」というのがあります。安里の謝花酒造所と戦前の若狭にあった酒屋の関連性は不明です。


以前コメントでタコーヌスージは「与儀達幸」さんの名前からの命名ということを御教示いただきました(Link)。与儀謝花酒屋は裁判所の向かいにあるタコーヌスージを入っていって右側、まっすぐ行った突き当たりは漆器工場になっています。

まとまりがないまま書きましたが、酒造業者の免許はなかなか手に入るものではないことや酒造り職人は限られていることなどから、戦前の酒造業者が戦後も酒造りにたずさわったというのは自然なことだと考えます。

アンガー(壺川)

戦前の水売り、ウイクー三郎の様子です。

有名なウイクー三郎は、小人みたいな町の道化師でした。
「アンガー(泉の名)マーサ水」と2つのウイクになみなみと満水して、天びん棒でかついで家々軒々をまわりました。ウイクー三郎こそ水行商売の元祖です。
アンガーは古波蔵の南のはずれ、俗称阿田川原にあります。ウイクー三郎は、その阿田川原のアンガ(淵下)にあるアンガーの泉の水を汲んで「くみたての真水、マーサ水」とふれあるいたものですから、水のくさるほどある古波蔵から大声をはりあげて歩いても、だれひとり買う者はいませんでした。それでも彼はクソまじめに、炎天の下を水行商に出かけたものです。毎日々々彼の宣伝文句は違いました。
「若返りの水」になったり「精力増進の水」になったり、しまいには「アタマのよくなる水」とまでいう始末です。そのコマーシャルの才にかけては、今日のコマーシャル作家も顔負けの名文句が、彼の分厚い唇からもれてくるのを、通りすがりの人たちは微苦笑を浮かべて聞き流していました。まことに希有の人材というべきでしょう。いまの琉球煙草会社の上の方に、いまでもその泉はあり、近所の銭湯では、その泉の水をひいて営業しています。水道が開通するまでの那覇市民の水源地は、アンガーのほかに垣花の落平でした。
続・沖縄千一夜/徳田安週 p54、55(省略抜粋)


まず琉煙(琉球煙草株式会社)

城岳小学校あたりが丘の頂で琉煙にむかって下る地形、さらに琉煙はフチサの下あたりになります。
参考:グダグダ フチサ(フチシヤ 淵佐)

>アンガーは古波蔵の南のはずれ、俗称阿田川原にあります。
>その阿田川原のアンガ(淵下)にあるアンガーの泉の水を汲んで


とありますから丘の上の井戸ではないわけです。壺川阿田川原(アタカーバル)は赤く囲ったあたりになります。
アンガー
黒い線の範囲が字壺川、中心を二分する道の川側が赤畑原(アカバタキバル)で陸側が阿手川原(アタカーバル)です。
グダグダ 壺川


真和志民俗地図ではアンガーは青のポインタあたりになります。「続・沖縄千一夜/徳田安週」は1969(昭和44)年の発行ですのでその頃まではアンガーもあったことになりますが現在どうなっているのかは確認していません。

参考:グダグダ(β) アンガー 2

バクチャヤーの住人

辻近辺の洞窟、バクチャヤー(辻)の住人の話です。

近頃、辻バクチャ屋の岩窟内に咳が聞えたり、話し声が聞えたりするので、気をつけて見ると、同所には2組の夫婦の乞食が共棲しており、昼は物貰いに夫婦がかわるがわる碗と袋をさげて街に出る。晩になるとノコノコ帰ってくる。たまには亭主がコモの上に大あぐらをかいて女房のお酌で一盃を傾け、とろんとした眼で有るか無きかの郷を望みながら歌などを唄い出すこともある。
「お隣の旦那や奥様もいらっしゃい、この頃はめっぽうに暑いじゃありませんか」などと近所づきあいで挨拶すると、「こっちも、いま、飲んでいる所です。それではご一緒にやりましょう」とたがいに呼びつ、差しつ、差されつしているところは太平楽なものである。
家の造作は、天然の石屋を2家族が古看板などで仕切り、間取りして住み、雨の降る日は、横飛沫で困ると古墓にはいりこむ。もとより、素性は双方ともわからないが、1組の方は、亭主が泊の者で60歳ぐらいの翁、妻はまだ若い、20歳くらいの女ということだけはたしかである。
他の家族は、年齢も素性も皆目わからぬ男女、月夜など夕涼みの遊客などはあると、乞食の女房が穢らしい装いで、納涼客の前を会釈して通る。たまには「みなさま、お涼みでございますか」などと愛想をいう時もあり、どこへ行くか、ときくと、ハイ、酒を買いに、ちょっと、などすましたものであある。辻遊廓の裏の海辺に墓地があるが、その一風景。
沖縄毎日 大正2年8月11日 (一部省略編集)
沖縄の遊郭 -新聞資料集成-より

バクチャヤー /bakucajaa/
那覇若狭にあった貧民窟。こじきやハンセン死病患者。

http://ryukyu-lang.lib.u-ryukyu.ac.jp/srnh/details.php?ID=SN30120


説教されたりもしています。

帰りに臨んで周囲の貧窟を訪うてそこにいる連中に一場の説教を試みた。
「オイ親爺ども、お隣のカメこと、今般世の女の手本に仰がれ、巡査さんがタント住んでいらっしゃる警察よりも関心な女とほめて下さった。(親爺どもいっせいにヲーヲーと感嘆の声をもらす)、そこで今後はカメの身にわずかでも無理など仕向けるものは、それこそ警察のおとがめをこむらねばなりませぬぞ」
云々とやったら、親爺どもは、なるほどなるほどと言っていた、星村は、
「カメに向って無理などする奴は許さんぞ」
と付け加えた。”素月生”
明治44年9月16日 (省略と抜粋)
沖縄の遊郭 -新聞資料集成-より


少々見下されているニュアンスはありますが昨今のように徹底無視といった感じはありませんね。
関連:グダグダ ムヌクーヤーテーソー

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