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新天地市場の女性たち

戦場(いくさば)の跡を縫い合わす : 那覇・新天地市場の女たち/石井 宏典」から引用してみたいと思います。
下図は同論文(pdf)からスクリーンショットと着色加工。

上本部

まず桃原飛行場(本部飛行場)。
参考:本部飛行場 - Google 検索
参考:桃原飛行場 - Google 検索
そして上本部村。本部半島の突端という感じでしょうか。
上本部村(かみもとぶそん)は1947年~1971年に琉球政府(現在の沖縄県)国頭郡にあった村で、沖縄本島北部の本部半島北西部に位置しており、現在の本部町北部にあたる。
沖縄戦で当時の本部町は戦場となり、壊滅的な被害を受けた。そのため復興をいち早く進めるため1947年8月1日に本部町から謝花・山川・備瀬・具志堅などの北部9つの字を分離し、上本部村が誕生した。復帰直前の1971年11月1日に全域が本部町に再編入され、消滅した。
上本部村 - Wikipedia (省略と編集)


ここの人達は那覇市の新天地市場で衣料品を商ったようです。

市場内の店のほとんどは木枠で仕切られた半畳余りの空間にブラウスやズボンなどを並べている。扱っている商品は中高年向けのものがほどんどで色調はやや地味め、そこに腰を下ろしているのもまた年配の女性たちだ。1995年の時点でこの市場には108の店があり、隣接する新天地ビル内の店を逢わせる問130〜140店舗を数えた。市場付近のものも含めると備瀬出身者の店が11店あり、さらに備瀬に隣接する豊原、山川など桃原地区の出身者の店は20軒を超えた。桃原の人たちが多いのは、豊かな土地を米軍飛行場として奪われた人たちがここに新天地を見出したからだ。1690年代までの最盛期にはいまも場所に400名を超える女たちが商いをしており、備瀬出身者だけでも25人を数えた。家庭にミシンを置いて縫製の下請け作業をしていた人達を合わせるとこの市場にかかわった女性は相当数に上る。ただ最近は店を閉じる人たちが目立っている。
戦場(いくさば)の跡を縫い合わす : 那覇・新天地市場の女たち


関連:グダグダ 新天地市場
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那覇・新天地市場の女たち

面白かったのでご紹介。
新天地市場で商売をしていた本部出身者達の歴史とインタビューです。

CiNii 論文 - 戦場(いくさば)の跡を縫い合わす : 那覇・新天地市場の女たち/石井 宏典
http://ci.nii.ac.jp/naid/110004616971


インタビューでの本部口調が浮かぶようです(笑)。

民政府住宅付近

民政府住宅周辺の旧番地図です。単色で塗られた区画は同じ番号になっています。
左が番地図、右はその図に道を書き入れたものです(中央は保育園)。



道路が造られるのは区画整理と敷地の境界線のパターンが多いかと思います。
区画整理は土地の造成と敷地の区画が碁盤目に造られ、そこには平行する直線的な道が見られます。

そのうち民政府財政部長護得久朝章氏が管理している尚家の土地を開放して集団で住宅を建設するという構想を示された。家屋建設費は「復興金庫」つまり復金から借り、土地は借地料を払うというのである。那覇移動に踏みきれない者にとってこれ以上の朗報はなかった。私もこの住宅に入るべく手続きをした。
狂った季節 p230
グダグダ 民政府職員の移動


この地域の中心には横断する直線的な道路があり、その道路は二つの大きな敷地(図の緑とピンク)を横切っています。上で引用した文中の尚家の土地はここではないかと想像します。右図の市立保育園(赤)があるというのもその想像の根拠です。
この区域は中央の道(と少しの例外)の他は車が入っていっても抜けられないような道が多く、中央の道路整備とそこを中心とした区画整理(土地造成)から始まったと思われます。

余談ですが隣の大原区(現在は寄宮)の番地は碁盤目に振られていて、戦後大規模な土地造成のあとに人間が計画的に入って来た歴史がうかがえるものとなっています。

バクチャヤーとクンチャー

中村文哉さんの「ハンセン病罹患者の<居場所>-沖縄社会と<隔離所>-」から引用したいと思います。論文は青木恵哉の1930年代前半の書簡と「選ばれた島」を参照されているようです。
青木恵哉は1927(昭和2)年2月に来沖、本島北部を中心にして活動し1938(昭和13)年に国頭愛楽園を設立しています。

1928(昭和3)年2月、青木は備瀬後原から金武への初訪問の際に、道中の屋部の手前にあった墓地から出てきた二人の浮浪病友と偶然おちあい(略)この二人は本部から泡瀬、与那原を経由して那覇まで行くということであった。

ハンセン病罹患者たちが健脚である限り、物乞いのために浮浪するその社会圏は、山原一帯から那覇まで広がっていたことが窺える。

当時、那覇市西新町のはずれ、有名な遊廓辻町の裏手の墓場近くに例の棺箱の板で造った小屋が17、8あり、25、6人の乞食が住んでいた。そして、その内10名くらいは[らい]病者であった。この乞食部落のすぐ隣に洞窟があり、依然この洞窟は「バクチャヤー」と呼ばれていたが、いつの間にかこの名称はこの乞食部落を指すようになってしまったとのことである。「バクチャヤー」というのは「賭博場」という意味だから、以前この洞窟では賭博が行われていたのだろう。付近に塵捨場と賭場があり、賭場の汚物は皆この塵捨場に捨てられるので、この辺一帯の不潔さは言語に絶するものがあった。臭気は鼻をつき、どん底生活に慣れたわたしでも、バクチャヤーではとても食事などすることができなかったほどである。特に雨でも降ると、ウジ虫が小屋の中まで這い上がってくるしまつ。それはそれはバクチャヤーと聞いただけでまことに身の毛のよだつところであった。

この小屋は棺箱や古トタンをもって造られた極粗末な小屋で、10数軒あり、男女30名ほどの乞食が生活していた。この小屋には5人の家主があり、家賃の外に水も買わねばならなかった。患者は自由に水汲みにも行けなかったので家主が運ばせた水を買うことになっていた。   この小屋の高さは棺板の高さで、漸く4尺位であった。比較的大きな家に病者を集め、礼拝をすることになっていた。カンテラの火が奥の方にチラチラと薄暗く灯っている。私は一瞬中に入ることを躊躇していると乙部司祭はつかつかと歩み寄り、這うようにして中に入られた。私もハッとして青木氏とともに中へ入った。

同様のことはバクチャヤーでもみられたようである。那覇出身の或る「愛楽園」入園者によると、バクチャヤーでは、健康者も、体に腐った魚を塗り付けて、ハンセン病罹患者になりすまし、物乞いをしていたという。


当時の社会背景や暮らしを知らないままで読んだ人間が単純に「かわいそう」という感想だけを持たなければいいんですが... 読むのは難しくないけども理解するのはなかなか難しいかと思います。自分も理解できたとはとてもいえません。

ハンセン病罹患者の居場所

愛楽園以前のらい病(ハンセン病)患者のようすがうかがえるpdfがあります。

CiNii 論文 - ハンセン病罹患者の<居場所>-沖縄社会と<隔離所>-/中村 文哉
http://ci.nii.ac.jp/naid/110006648510


青木恵哉(Wikipedia)という伝道師により愛楽園は作られるのですが、そこにおちつくまではとても苦労がありました。焼き討ちや嵐山事件といった事件が代表的です。
嵐山事件などは社会運動家による反対運動で正直どう考えていいのかわからなくなりますが、それだけ沖縄でのらい病患者は蔑視されていたんだろうと思うしかありません。

論文は県内全域のことを扱っていますがバクチャヤーについても何ヶ所か触れられています。

崎浜さんのハルヤー

別荘をハルヤーといいます。

別荘をハルヤーという。那覇の名家はほとんど、これを持っていた。
琉銀頭取の崎浜さんのハルヤーは、若狭町原にあって、周囲を竜舌蘭とアダンに囲まれ、15坪ぐらいの瓦葺きに、番人が4人家族で住んでいた。200坪の畑があって、裏に2匹の山羊を飼い、木ジーファーを作り、母親が毎日のように夕方から東市場にそれを売りに行くのを見た。
その別荘の裏は、夫婦岩になって、近所の女たちは、海で洗い物をして、帰りはここの井戸ですすぎをして持ち帰るならわしになっていた。
グダグダ 別荘


琉銀頭取の崎浜さんのハルヤーは、若狭町原にあって」とあるのですが崎浜秀主さんの家のものだったようです。
参考:グダグダ 辻の家主(辻の家主として)
参考:グダグダ 崎浜秀主

琉銀頭取の崎浜さんは崎浜秀英さん(明治42年生)で崎浜秀主(明治9年生)さんの三男です。

3代 崎浜秀英(1963年5月20日~1972年1月14日)
琉球銀行 (特殊銀行) - Wikipedia


崎浜秀英 (さきはま・しゅうえい)
1909(明治42)年〜1994(平成6)年 経済人。那覇市出身。台北高等商業学校卒業後、日本勧業銀行台北支店勤務。1948年、琉球銀行創立とともに同行に入行。同行頭取、会長を歴任。

http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-41472-storytopic-121.html


崎浜秀主さんは台湾で勤務した経歴はないようですので崎浜秀英さんの台湾行きは進学によるものだったのでしょう。

琉球製氷株式会社

○○用 冷蔵用 漁業用

家庭用冷蔵庫ヲ安価ニ販売シ、又は賃貸シマス
見本ハ郵便局前正文洋行(電話二五〇)ニアリマス
那覇市山下町2ノ21
琉球製氷株式会社
電話二〇九番
沖縄タイムス 1923(大正12)年5月11日


大正12年の製氷会社の広告です。
冷蔵庫のレンタルを行っていたのがわかりますが氷を入れる氷冷蔵庫だったでしょう。これも自社の氷を販売するための販売レンタル業でしょうね。電力会社みたいだ(笑)。

戦前那覇の生活は市場で小さな商いをしてその代金で生活物資を購入するという感じだったようです。それは基本的に暑さのためものを置いてけないせいでもありますし貧しいということでもあります。こういう条件が沖縄の貧しさの原因でもあったりするわけですが。
戦前の(氷)冷蔵庫の普及率は小さかったと思われますが、それを購入した世帯の生活も変化していったはずで、いったいどのように利用されていたのか興味深いところではあります。
それと同時期の内地ではどうだったんでしょうか。

それと漁業と港と市場があるという条件のお陰で大規模製氷工場があったのは那覇にとっては恩恵でしょうね。カツオ漁業の盛んだった本部などではどうだったのかというのも興味があります。
本部、名護、泡瀬などには旅館・料亭もたくさんありましたから氷の民間での利用もそれなりにあったと思うのですがどうでしょうか。

勉強堂の広告(S2)

昭和2年の勉強堂(上岡勉強堂)の広告です。

各地に特約店数十ヶ所を有在す
那覇市大門前
上岡勉強堂本店ハ
読みて字のごとくドコの店よりも品質の良品を売る店とご婦人方は申までも無く御子供様方の御許ばんです
馬印縫糸製造販売元
家の世帯は妻で持つ着物の縫目は糸で持つ品を買うなら勉強堂イツもかわらぬ品をうる
文具類大卸商
文房具紙類糸類真田紐一切糸は○印縫針は寅印かねヨ印
名護町小学校前
上岡勉強堂分店
安岐国川尻町
上岡勉強堂 製糸部
沖縄タイムス 1927(昭和2)年11月8日


「安岐国川尻町」(広島県)に製糸部もあったようですからたいしたもんです。
参考:安芸国 - Wikipedia
参考:川尻町 - Wikipedia
また名護にも支店があったのがわかります。

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