中村文哉さんの「ハンセン病罹患者の<居場所>-沖縄社会と<隔離所>-」から引用したいと思います。論文は青木恵哉の1930年代前半の書簡と「選ばれた島」を参照されているようです。
青木恵哉は1927(昭和2)年2月に来沖、本島北部を中心にして活動し1938(昭和13)年に国頭愛楽園を設立しています。
1928(昭和3)年2月、青木は備瀬後原から金武への初訪問の際に、道中の屋部の手前にあった墓地から出てきた二人の浮浪病友と偶然おちあい(略)この二人は本部から泡瀬、与那原を経由して那覇まで行くということであった。
ハンセン病罹患者たちが健脚である限り、物乞いのために浮浪するその社会圏は、山原一帯から那覇まで広がっていたことが窺える。
当時、那覇市西新町のはずれ、有名な遊廓辻町の裏手の墓場近くに例の棺箱の板で造った小屋が17、8あり、25、6人の乞食が住んでいた。そして、その内10名くらいは[らい]病者であった。この乞食部落のすぐ隣に洞窟があり、依然この洞窟は「バクチャヤー」と呼ばれていたが、いつの間にかこの名称はこの乞食部落を指すようになってしまったとのことである。「バクチャヤー」というのは「賭博場」という意味だから、以前この洞窟では賭博が行われていたのだろう。付近に塵捨場と賭場があり、賭場の汚物は皆この塵捨場に捨てられるので、この辺一帯の不潔さは言語に絶するものがあった。臭気は鼻をつき、どん底生活に慣れたわたしでも、バクチャヤーではとても食事などすることができなかったほどである。特に雨でも降ると、ウジ虫が小屋の中まで這い上がってくるしまつ。それはそれはバクチャヤーと聞いただけでまことに身の毛のよだつところであった。
この小屋は棺箱や古トタンをもって造られた極粗末な小屋で、10数軒あり、男女30名ほどの乞食が生活していた。この小屋には5人の家主があり、家賃の外に水も買わねばならなかった。患者は自由に水汲みにも行けなかったので家主が運ばせた水を買うことになっていた。 この小屋の高さは棺板の高さで、漸く4尺位であった。比較的大きな家に病者を集め、礼拝をすることになっていた。カンテラの火が奥の方にチラチラと薄暗く灯っている。私は一瞬中に入ることを躊躇していると乙部司祭はつかつかと歩み寄り、這うようにして中に入られた。私もハッとして青木氏とともに中へ入った。
同様のことはバクチャヤーでもみられたようである。那覇出身の或る「愛楽園」入園者によると、バクチャヤーでは、健康者も、体に腐った魚を塗り付けて、ハンセン病罹患者になりすまし、物乞いをしていたという。当時の社会背景や暮らしを知らないままで読んだ人間が単純に「かわいそう」という感想だけを持たなければいいんですが... 読むのは難しくないけども理解するのはなかなか難しいかと思います。自分も理解できたとはとてもいえません。
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