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鉄屑漁り

琉球新報八十年史という本の中に新聞記事の抜粋があります。そこから大正7年の新聞記事を引用します。

生活苦の反映 内兼久山の屑鉄拾ひ
此頃の物価は天井知らずの暴騰、本県などでは戦前に比して肉類が10割、米が7、8割騰貴して居る有様それに芋も不作で食料欠乏かてて加えて帽子が不景気といふので中流以下の生活の惨めさ、泣顔に蜂といふのは全く此の事をいふのであらう。それでどこの利口者が考へ出したのか此頃屑や鉄葉屑や破鍋の破片とかを拾って金に替へて居るのがある。この穴勝今に始ったことでもなく1ヶ年ほど前から、1、2人はあったそうだが此頃の様に殖えたことはないそうだ。区内で鉄屑のある所は内兼久山やバクチャ屋の塵芥場、久茂地川等であるが内兼久山の如きは昨日から一昨日にかけて7、8歳の子供から5、60の老婆さんもザルやカゴを手にして盛に地中の鉄屑を掘出し、中には25、6の働き盛りの青年も鍬を手にして諸肌抜で芋でも掘るように働いている。又中には17、8の白粉をベテベタつけた帽子女工等もカゴを手にして来てゐる。「いやこれは俺のだ」「いや此所は俺の領分だ」等とぶっ奪り、引っ奪合で全で喧嘩腰、此所にも現代社会の反映が映し出されて居る。この拾った屑は区内東町の是枝商店や伊良波商店やその他3、4ヶ所買い手があって1斤1銭から4銭くらいまでで買い取るとのことで一昨日の如きは内兼久山辺の者で一家5人総出で拾ひ1日7円余の鉄屑を売ったそうだ。7、8歳の小娘でも1日に3、40銭の屑は拾ふとのことである。気の早い者になると久茂地川の泥の中を漁って居るものもあるそうだ。然してこの買ひ受けた鉄屑はどうするのかといふと大阪に移出して彼地の鉄工場で溶解させて鍋なり釜なりその他器具類を鋳造するそうだ。この鉄屑利用は先には八幡や枝光鉄工所の様な大規模な工場でなくては製作し得なかったものがこの頃になって個人経営の小会社でも製作し得るようになったので俄に需要が増したとのことで科学が進歩する世の中に不自由なものといふのは無くなるであらう。
琉球新報 大正7年3月9日
琉球新報八十年史 p177


久米の内兼久山になんでそんなに鉄屑があったのか不思議な気がします。その他にあげられているバクチャ屋のゴミ捨て場や久茂地川はゴミの中に鉄屑があったのでしょう。
しかし食料品の倍近い値上がりはキツいですね。
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那覇市内の多額納税者(S25)

那覇市内の多額納税者
51年度事業所得税はすでに各税務署で完了、第一期内納税告知書を各市町村を通じて配布中であるが、那覇市内における高額納税者は次の16氏。沖縄における商工業の中心都市だけあって劇場、土建、マーケット、商業、料亭と、戦後5年にして、逸早くも頭角を現した(単位円)。
(1)324000/高良一/劇場
(2)183500/真栄田義郎/劇場
(3)174000/金城真行/土建
(4)171500/仲井眞元楷/劇場
(5)152000/仲村忠信/商業
(6)138000/山城思太郎/土建
(7)132250/国場真一/商業
(8)118250/山田義認/劇場
(9)106500/比嘉賀信/商業
(10)74000/呉屋良行/商業
(11)69000/城間恒篤/商業
(12)61250/松本思明/料亭
(13)56200/大城鎌吉/製瓦
(14)51250/仲本昌達
(15)50250/久松キク/食堂
(15)50250/砂川恵姿/食堂
※1950(昭和25)年7月26日付記事
琉球新報八十年史 p211(抜粋と編集)


新報の本に掲載されている記事から引用しました。
松本思明さんは戦前からの料亭(花咲)の経営者、砂川恵姿(砂川惠姿)さんは大黒屋の経営者です。劇場はまだまだ儲ってますね。

郷友会と職種

長期出稼ぎの形で離村して来たひとたちの多くは、先発者を頼っていくので自然にその職種も同じ傾向がみられる。つまり、各郷友会には、その会員の職種に特徴が見られるのである。
それはまず大宜味一心会でいえば、戦前から大工職という定評があった。それは現在では大宜味出身の建設業関係者が多く、大宜味出身の建設業協会を結成してお互いの発展につながっている。その特徴を一部列記してゆく。
粟国郷友会-はつり・コック
西辺郷友会-警察官
竹富郷友会-警察官
沖縄市在本部郷友会の伊野波-雑貨商
(*沖縄市在本部郷友会の)健堅-衣料品(沖縄市一番街、銀天街中心)
(*沖縄市在本部郷友会の)辺名地-金物関係
伊良部の佐和田-衣料品(那覇市平和通り)
奥郷友会-建設業関係
下地・上野郷友会-ホテル業
城辺町新城郷友会-ホテル業
砂川学区 友利-タイル業
黒島郷友会-建設業・家具販売関係
久松郷友会-衣料品(那覇市平和通り、エビス通り、市場通り)
などが際立った特徴としてあげられる。
しかし、それは出稼ぎ移住当初にそのような同種の職業が多かったということであり、会員数の増加とともに職種も多種多様化してゆき、統計的にみてゆくとその特徴とされていた職種の実際の数字は相対的に減少している。
※(*--)のカッコ内は自分が追加したものです
郷友会社会-都市の中のムラ-/石原昌家 (抜粋と編集)


2世、3世ともなると郷友会などとも疎遠になりがちなようです。
宮古出身者のホテル業や平和通り周辺の商業も書かれていますね。このへんは昔の人間だったらあたりまえのように知っていたことですが書籍でまとめられているとは思いませんでした。
あとは警官や教員などが多い島もありますし、ある地域の水商売で特定地方出身者が集まってるとこもありました。

あまりおおっぴらにはなりませんが宗教での団結もありますね。
おばさんたちはユタや宗教にけっこう馴染みやすいのです...

那覇市歴史地図

資料のご紹介。
この「那覇市歴史地図」と「那覇市旧跡・歴史的地名地図」が現在の地図上で文化財の位置を確認できる資料です。

那覇市歴史地図 -文化遺産悉皆調査報告書-
那覇市教育委員会
1986(昭和61)年3月発行


「那覇市歴史地図」は本の形で、分割された地図の上に番号があり巻末の索引でその番号の史跡を確認するという形です。
「那覇市旧跡・歴史的地名地図」は大きめの地図(1/6000)で那覇四地区に分割されており、その地図の上に史跡名が直接書かれています。ただこちらは前者ほど細かく書かれてはいません。
正直この二つでほとんどの史跡は確認できるんじゃないでしょうか。

オンラインでは那覇市の「都市計画情報提供システム」にも文化財という項目があります。

那覇無盡

アーニー・パイル国際劇場を建ててから一年ほどたった1949(昭和24)年5月、高良[一]は元貴族院議員の仲村清栄と「那覇無盡㈱[那覇無尽]」を設立した。大入りが続くアーニー・パイル国際劇場からの収入で高良には金があった。それを目当てに、いろんな人が金を借りにきた。しかし貸した金はなかなか帰ってこなかった。それならいっそのこと会社組織にして、金融業務をやってみようと思って始めたのが無尽会社だった。
那覇無尽は仲村が社長、高良が専務になって、アーニー・パイル国際劇場横に事務所をかまえた。取締役には大城鎌吉がいた。その後、相互銀行方の施行(1953年)で、「第一相互銀行」に生まれ変わる。
銀行は後に、松尾の国際通り沿いに移転した。国際通りから久茂地小学校に向かう曲がり角である(現在は沖縄海邦銀行松尾支店)。当時の那覇市では一流のビルで、沖縄で最初の夜間金庫の設備が売りものだった。第一相互銀行は略称「一銀」と呼ばれていた。
第一相互銀行はその後、中央相互銀行〜沖縄相互銀行〜沖縄海邦銀行という変遷をたどる。
戦後の沖縄世相史 p138〜140(抜粋と編集)


後年の海邦銀行である那覇無尽です。
1951(昭和26)年の「最新那覇地図」では現桜坂劇場の前には道が通っておらず公園の中には音楽学校という名前が見えますが、それよりしばらく後の地図には「珊瑚座・オリオン座」があり、その向かいは那覇無尽となっていますがアーニー・パイル国際劇場横とは言い難い位置にあります。
同じく1951年の「沖縄主要地・主要商工年鑑」では国際劇場右隣には那覇無尽があり、同じビル(か敷地)には沖縄ペンクラブや琉球映画株式会社があります。ちなみに那覇無尽の隣は球陽堂です。
引用文での「アーニー・パイル国際劇場横に事務所」は沖縄主要地・主要商工年鑑に記されたものを言っているのだと思われます。
これらの食い違いについてはよくわかりません。

高良一氏は那覇の名物男というか、大ボラ吹き、大風呂敷などと呼ばれることもあって、確かにそういう面もあるのですが(笑)市会議員や実業家として名声がありました。
中城城趾のあれこれやモノレール云々だとかも間抜け(失礼)なのか先見の明があるのかわかりません。見る人によって違うというのが実情なんでしょうけども、そういう事情を了承すると戦後のアーニー・パイル国際劇場建設の際の拙速ぶりとごり押し、また抜け目のなさもこの人の特徴が良く出ているなと思えます。

伊波普猷生家跡・クバチカサ

伊波普猷生家跡・クバチカサ

伊波普猷は旧那覇の旧家(魚氏)の生まれで、生家はそうとう大きな家でした。
クバチカサは拝所で那覇民俗地図では上之蔵通りの端、石門通りと交わる地点の交番のすぐそばにあったようです。
旧跡の特定は「那覇市旧跡・歴史的地名地図」を参考にしました。


このクバチカサ周辺は賑やかな場所であったようで新天地劇場、新星堂(本屋)、自声堂、三角屋(そば屋)がありました。船越義彰さんは少年時代三角そば屋でそばを食べていたそうでおいしかったそば屋の一つにあげています。自声堂では夕方あとからレコードをかけ、それを楽しみに聴く人達が沢山集まったそうです。

伊波普猷が1876年(明治9)生まれ、船越さんは1926年(大正15)生まれで50年の違いがあります。ちなみに東恩納寛惇が1882年(明治15)生まれ、山之口貘が1903年(明治36)生まれです。
これだけの開きがあるとみていたものも大分違っていたんだろうなと思います。

泉崎大ミチ

泉崎大ミチ()です。
左図ですが、仲島小堀()と旧琉球新報社屋そばの実線は「琉球の都市と集落」と「那覇市旧跡・歴史的地名地図」から、開南小学校から南側の実線は現在の道路筋から、その先の破線は那覇/真和志の両民俗地図を参考に適当に引いてあります。
右図は「那覇市旧跡・歴史的地名地図」を参考に左図であやふやだった箇所を書きました。
泉崎大ミチ
この道は泉崎橋から県庁そばを通って獅子松尾がある上泉町のはずれまでまっすぐ抜けてゆきます。そしてそのまままっすぐ行き楚辺尋常小学校(現城岳小)のそばを通り、字楚辺美武田原(ミンタバル)を抜けて古波蔵部落まで続きます。どこまでが泉崎大道かはわかりませんがたぶん上泉のはずれくらいまでではなかったかと思います。

与儀の暮らしでとりあげた農家の城間さんは「葉野菜が取れたが洗わなければいけないので洗い場に行き、そこから近い東町やハシグチの市場へ行った」と語っていますが、与儀から東町市場や泉崎橋付近の橋口マチグヮーへは、裁判所そばの坂道を上って城岳小学校付近から泉崎大通りに入っていったと思われます。

ピンクの線は鉄道跡ですがこれは別項にて。

壺屋(1945)

高橋誠一さんの論文「那覇市壺屋地区における石敢當と集落形態」から米軍が1945年に撮影した壺屋の航空写真です。

壺屋(1945)
Kansai University Repository: 那覇市壺屋地区における石敢當と集落形態
http://kuir.jm.kansai-u.ac.jp/dspace/handle/10112/4308


範囲はだいたいこのくらいかと(垂直方向に撮っているわけではないので俯瞰気味)。

左下範囲は現在の神里原近辺、上辺は国際通り、右上にはわずかにひめゆり通り付近を蛇行する川が見えます。

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