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大門前通りの商い

大門前通りは孔子廟の隣を機転として那覇郵便局までのようです。
この図だと久茂地川のクランク部分に孔子廟があり、そこから中心部に向けてまっすぐいって黒い四角の側までです。


「資料編第2巻中の7」には各通りの特徴があげられていますが大門前通りは特に詳しく書かれています。
通りには60余軒の商店があって、その出身地別の内訳は次の通りであった。
鹿児島23、熊本1、徳島4、奈良2、岐阜2、兵庫2、広島3、沖縄25
資料編第2巻中の7 p298(以下すべて同じ)

この通りは東町と久米と天妃町にまたがります。

鹿児島出身者
福崎、山田、古田、篠原、瀬戸口(久米)
岩城、恒浜(天妃)
渡辺、井上、益田、山下、京屋、マルメマーケット(マルメは○にメ)、荒木、タマヤ、古田、那覇ラジオ、福山、藤島、東京屋、千田、玉利、沖縄物産(東町)

徳島県出身者 丸一(天妃)、桜井、福田、佐藤(東町)
広島県出身者 平岡、畠(久米)、広島屋(天妃)
奈良県出身者 平尾(久米)、一箭(天妃)
岐阜県出身者 太田(久米)、影山(東町)
兵庫県出身者 円山号百貨店、円山号分店(東町)
熊本県出身者 成清(久米)


有名なのは円山号、平尾ですね。
ガーブー近辺で大地主としてあがる広島屋(辰野元造/天妃一ノ五)の名前も見えます。

もう一度住所ごとにわけます(沖縄出身者の数は末尾)。
東町
渡辺、井上、益田、山下、京屋、マルメマーケット(マルメは○にメ)、荒木、タマヤ、古田、那覇ラジオ、福山、藤島、東京屋、千田、玉利、沖縄物産、桜井、福田、佐藤、影山、円山号(沖縄12)
久米
福崎、山田、古田、篠原、瀬戸口、恒浜、平岡、畠、太田、成清(沖縄8)
天妃
岩城、恒浜、丸一、広島屋、一箭(沖縄4)
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高良盛一(なみさと商会)

なみさと商会の高良盛一氏のプロフィールを人事録より引用します。

高良盛一
1907(明治40)年那覇市生まれ。
二中卒、のち並里商会を設立し代表者となる。阪急繊維取締役社長、並里商会代表、興南高理事、新生デパート理事。
本籍 牧志町


本籍が那覇市牧志町だということは牧志に古くから住んでいた人なのでしょうね。牧志のムートゥヤーは高良さんと嘉数さんで、あのへんにはこの二つの姓を持った人が結構います。
なみさとは平和通り入り口からむつみ橋にかけていくつかの店舗があったようですからその辺の土地を所有していたのでしょう。
あと「興南高理事」についてですが興南高校の建学の精神という文に名前がありました。

学園は昭和37年、終戦後の荒廃した中で、沖縄の将来を憂い、沖縄県の経済的・政治的自立のために沖縄県の将来の担い手の育成が急務であることを痛感し、高邁な理想と見識を持つ同志の高良嘉永氏、高良郎栄氏、高良盛一氏、高良忠一氏、高良真一氏、高良文雄氏、高良徳栄氏、高倉幸次郎氏及び当時文教局諮問委員の山城篤男氏が浄財を提供して創立された。
http://senior.konan-h.ed.jp/detail.jsp?id=6958&menuid=3033&funcid=1


高良ばっかりじゃねーかというツッコミはやっちゃいけないんでしょう(笑)。

ビンゴハウス

1952(昭和27)年の那覇市広報の市民の友から抜粋します。ガリ版刷りのため不明文字が多いですがご容赦。

名物風景
那覇市新商売往来 異色戦後版
“アカ、アカ、アカ、アカ、シロ、シロ、シロ、シロ”ほとんど怒号にひとしい怒鳴り声が街路に溢れてバクハツする。これが戦後派び王座に君臨するビンゴハウスだ。ご繁盛の程度からいって不思議にこのビンゴが断然戦後新商売のトップを切るのだから凡そ愉快である。
ところで戦前は余りまだ目立たなかったものが、戦後特に異常な進出ぶりを見せている新商売は何か。那覇市の税務課では弁護士、司法書士、特別法人を二種として、他は凡て第一種に区分し、営業税を賦課しているのでハッキリ色分けすることは難しいが、同じ喧噪の度合いから見ても、次位はさしづめ街頭の卸売叩き売りの気勢の賑やかさに来よう。
電気化学に物をいわせて、那覇宣伝●●協会もまた戦後派新商売の一ツではある。ビンゴに負けをとらない繁盛ぶりを見せて近頃めきめき活気を帯びてきたのがロータリー、ルーレトと呼ばれる遊戯で、これまた日毎にファンを獲得しているのだから侮り難い勢力。
●じマイクの闘いでは遊園地●新世界●も一異色で那覇市内は八劇場に劣らない強豪であり、これらの逆コースを●って音無く、黙って儲る新商売が麻雀、囲碁、将棋、撞球の各クラブに珠算教授。
尤も鼻持ちならないと云って置きながら、案外手固い基盤に据って運営されているのが何々衛生●、実際的にはこの衛生●群が再建那覇市美化運動の縁の下の力持ちかも知らない。
●日中から人垣つくって何のご繁盛ぞと頭越しの●●風景は●●●さんだが、●●、心中、懐中ともに無一文と見えて実質は立見の数の約一割というところ。
※●は不明文字
市民の友 第1号 1952(昭和27)年1月28日発行(抜粋と編集)


戦後の繁華街でビンゴ屋というのがあるのですがどういう物であったのかは自分はわかりません。いわゆるパーティー等でのビンゴゲームと同じなのでしょうか?

後半に出てくる「衛生●」となっている箇所もよくわからず、●に入る不明文字は「舎」か「会」だと思うのですが入れてみてもよくわかりません。汲み取り?

上岡作太郎(勉強堂)

戦前の文具商である上岡作太郎氏と戦後に勉強堂土地事務所をしていた二代目の上岡作太郎氏です。

上岡作太郎(初代)
明治の始め頃広島県に生まれる。南洋や台湾を行き来し川尻筆の商売を行っていたが、明治20年半ば頃沖縄に寄留する。沖縄では那覇市天妃町で文具商勉強堂を経営した。
勉強堂は本島のみならず先島などにも文具を卸しており、名護に支店、広島県には製糸部を持っていた。また作太郎は担保代わり(?)の土地を多数所有することとなり、天妃町や平和通り一帯の大地主となる。戦前は天妃町で貸家業も営んでいた。
勉強堂の従業員として近しい間柄の広島県出身者を雇い入れており、その中には大正期に独立する辰野元造がいた。戦後文具商として開業する石川文明堂の石川元安も勉強堂の出身である。
沖縄戦直前に広島に疎開、戦後沖縄に戻ろうとするがなかなか許可が下りず、許可が出る直前の昭和26、7年頃に逝去。家族はその後沖縄へ戻る。
一男、二女あり。

上岡一雪(二代目の作太郎)
1900(明治33)年沖縄生まれ。 妻キワ(由起子)。
初代作太郎(後述)の子として生まれ勉強堂の従業員として働く。沖縄戦直前に広島に疎開、初代作太郎の逝去後の昭和26、7年頃妻子を連れて沖縄へ戻る。しかし戻った時点で勉強堂のあった天妃町一帯は立ち入り禁止で平和通り一帯の所有地にも闇市ができていたため、一雪は所有していた樋川の土地に居を構え、闇市一帯の土地管理のため勉強堂土地事務所を設立する。
戦前の勉強堂は文具卸、戦後の勉強堂土地事務所は所有地の管理業で、勉強堂という名前は同一であるが内容は異なっている。また一雪は父である先代の名前を継ぎ戦後は作太郎と名乗っていため混乱が見られるが両者は親子であり別人である。
昭和中期頃、勉強堂所有地に次女の夫がホテル日光、次男賢次が日光別館を設立している。
1984(昭和59)年逝去。


上岡氏は上記事情もあり記録を追ってゆくとどうもおかしなところがあってまとめられなかったのですが、事情を御存知の方からご助言を頂きまとめることができました。文責はまとめた私にあります。

改めて感謝申し上げます。

安村善太郎(安村書店)

平和通りには安村書店がありました。1958(昭和33)年の住所録から引用します。

安村書店(合資会社)
社長 安村善太郎
本店 牧志町1-791
支店 千代田区神田神保町1-46


この安村さんは出身や経歴がいまのところさっぱりわかりません。
東京に支店があるってのはどういうことなんでしょうか。

辰野元造(広島屋)

戦前文具商広島屋を経営していた辰野元造の項を沖縄県人事録(S12)から抜粋します。

文房具商(広島屋商店経営)
辰野元造
那覇市天妃町1ノ5
君は広島県加茂郡川尻町の人、明治36[1903]年を以て原籍地に生る。大正4[1915]年市内勉強堂本店店員として初めて来県し爾来恪勤精励して内外の信用を博し、大正15[1926]年3月自ら現業を経営して今日に至る。市内屈指の文具商として家業逐年隆盛を極めつつあり、更に将来の大成を期待される青年実業家なり。


広島から12歳で来沖して文具商店員として働き、23歳で独立開業、上の人事録は1937(昭和12)年のものですから昭和12年では34歳ということになりますね。
辰野さんは戦後も沖縄で商売をしており、1958年の住所録には下記のようになっています。
広島屋本店/事務用品文具一切
那覇市千歳橋通り

市民の友第60号(56年)の広告では下記の通り。
廣島屋本店
6区29組千歳橋西詰




図はゼンリン地図を参考にしました。

安村書店

少し落ち着いた頃の平和通りです。
写真はRemembering Okinawaさんからの借用です。
平和通り

写真の中に安村書店が見えますね。昭和の中頃のゼンリン地図から写真にある店舗を探してみます。

安村書店の安村善太郎さんはガーブーの地主でもあったようです。

中屋材木店/中 孝徳・宰輔

久茂地川そばにあった中屋材木店です。那覇民俗地図では中材木店となっていますが同一のものとして話を進めます。
まず沖縄県人事録(S12)から抜粋。

中屋材木店主
中 孝徳
那覇市下泉町1ノ3
君は故中孝二氏の長男、明治45年を以て那覇市に生る。沖縄県立第二中学校を卒業して上智大学に学び、昭和10年同校を卒業し父業を継いで今日に至る。目下家業の傍ら那覇木材商協幹事たり。太陽生命保険会社沖縄代理店、及動力輪転機による練炭製造工場を兼営し、新進気鋭の熱と抱負を持って夫々同業界に重きをなす。当家は明治25年先々代泰輔翁よりの寄留にして、原籍を東京市本所区吾妻橋1ノ25に有し、君亦純然たる江戸子の流れをくむ(略)
妻寿子さん(大正4)は那覇市商工会議所副会頭川畑黙志氏の次女である。


中屋材木店支配人
中 宰輔
那覇市下泉町1ノ3
君は東京市人中泰輔の三男として明治30年を以て生る。亡父泰輔翁は本県実業界草分時代の功労者にして明治25年に来県、空拳能く今日の基礎を築ける奮闘家なり、其三男たる君は那覇市に生れて那覇市に育ち純然たる那覇児なり。郷学を卒へて県立第一中学校に学び、後笈を負ふて上京せしが、令兄の急逝により帰郷し、爾来家業に精勤して今日に及べり。


整理してみると、
•「中 泰輔」は明治25年に東京から(?)寄留。
•中 宰輔(明治30年生)は中 泰輔(初代)の三男。那覇生まれ。
•中 孝徳(明治45年生)は中 孝二の長男、昭和12年現在の店主で三代目。那覇生まれ。

ということになります。

1937(昭和12)年7月9日の沖縄日報に掲載された長者番付記事で 「下泉町 [所得]1605/[資産]62417/(材木店)仲 孝とく」 となっているのは「中 孝徳」さんでほぼ間違いないでしょうね。

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