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島小(前島)

前島の長虹堤付近、前島一丁目は島小(シマグヮー)と呼ばれていました。
図は「戦前の牧志町民俗地図」、泊前島誌(p371)に掲載されていた島小周辺要略図(戦前)、那覇民俗地図を参考にしています。
島小図
前島板橋小がありませんがオレンジの部分が前島の島小です。となりの牧志町とは長虹堤を境にしています。
前島の島小
ムチャーはモチ屋、餅ではなく漆喰のモチがなぜか何件かあります(シックイとも書かれている)。そして美栄橋のそばには三坂鉄工所(三坂ナービヤー)がありますが鍋とか家庭用品作ってたんでしょうかね。


「沖縄県歴史の道調査報告書 〈4〉 島尻方諸海道・首里・那覇の道. 沖縄県教育委員会」に島小の記述がありましたので引用します。
左図は69年のゼンリン地図を参考にして島小周辺の道を書き込みました。右図は今も残る溝()と推定した暗渠(水色)です。
島小の入り江 
(崇元寺から橋を渡って直進してきて)十貫瀬飲食街をしばらくゆくと右手にバーPとRRがあり、その間に久茂地川沿いの道路とT字型に交差する道がある。反対側の左手のT洋酒店の側にはやや大きな溝が流れ、道路の下に暗渠を設けて久茂地川に排水している。この右手の(略)T字型道は、昭和4年の「那覇市全図」では久茂地川の入り江になっている。明治10年頃作成の「琉球那覇港及び首里城間之図」では、この入り江はさらに深く入り、現在のダイナハの東側のガーブ川に通じる川になっている。
沖縄県歴史の道調査報告書 〈4〉 p133 (部分的に編集)


浮き道であった長虹堤は明治の時点で消えていたようです(南島風土記)。

今はこの辺一帯に民家立ち並んでいるが、最近までも左右田圃の相田を4、5尺の高さで走り、浮道の面影をとどめていた。
南島風土記 東恩納寛淳

私が現在の那覇中学校の地点にあった那覇市立商業学校(旧制)へ、首里から約一時間くらいを要して、徒歩で通学していたころは崇元寺橋(安里橋)を渡って、牧志の一角に入ると、そのあたりは瓦屋(カラヤー)らしく、民家の軒下には、板のように薄いウミイサー(珊瑚石)だのムチ(しっくい)に混入する切り刻んだわら等が、こんもりと積み上げてあって、一種独特なその蒸れる匂いが、むんむんと鼻をついてきたものだが、大体この辺からは、昔、浮き道、あるいは長虹堤といって海中道路の形をなしていた。
高さが約2メートルに、道幅がほぼ3メートルぐらいある浮き出た道路の北側は海水にひたされ、干潮時には、それが塩田に早変わりするし、南側は一面陥没した畑になっていて、この辺一帯、昔は海であったという名残りをとどめていた。(中略)
七つ墓のある丘陵の裾あたりに美栄橋が築造されていたが、この美栄橋を渡ると、北側は埋立地の前島町、南側が久茂地町の新村渠(ミーンダカリ)で、この辺には、ウコーヤー(黒く平たい線香作り)だの表具師などが、軒をならべていた。
琉球怪談選集 沖縄文教出版 1973年



島小周辺を写真で見てみます。


ガーブーと入り江は黄色い線で囲いました。残念ながら自分の目では入り江とガーブーの間につながりは見えません(時期的にも遅いはず)。

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山川カラヤー

首里山川町と与那覇堂村にあったらしい山川カラヤーの話です。
参考:松川の原名
松川の原名
[山川カラヤーは]いわゆる「首里カラヤー」として鳥小堀カラヤーと共にその一翼を担ってきた。俗に観音堂カラヤーとも言っている。
瓦は明治40年頃までは焼いた。石灰も崇元寺の前の船着き場から珊瑚礁の石灰岩を運んできて白フェーに焼いて藁を切り込んで漆喰にした。
(略)
瓦を焼かなくなったのでよそから買うことになったがそれでもムチヌヤー(ムチ=漆喰塗る者)の左官は17名はいた。現在も10名程もいて結構仕事はあるが、瓦屋根が地方にも建つようになったせいかここから分散していってしまった。(後略)
那覇市史資料編第二巻中の7、p342


やはり瓦焼きと漆喰はワンセットのようです。安里川の水運も今となってはなかなか想像しにくいのですが往時は伝馬船が薪や珊瑚を運んでいたのでしょうか。
文中の「現在も10名程もいて結構仕事はあるが」というのはこの巻が発行された昭和54年より前の話になります。

バプテスト那覇教会

「宣教の歩み 沖縄バプテスト八十年史」の「各個教会の歩み 那覇教会」の項目を抜粋します。

那覇の街に初めてバプテスト派の伝道が始められたのは、1891(明治24)年のことである。当時アメリカ北バプテスト伝道会社から派遣された原三千之助師によって「沖縄バプテスト講習所」として開設された。場所は那覇市上之蔵の比嘉家(元第一高等女学校 比嘉初子先生宅)である。周回は比嘉家の表座敷で開かれたが、(略)
1895(明治28)年頃になって教会は久米町大通りに写り、更に湖城という旧家に移転して集会は続けられた。
1898(明治31)年頃、那覇教会第二代目牧師として迎えられたのは内田尚長牧師である。
1905(明治38)年那覇教会三代目牧師として長野県出身の原口精一師が迎えられた。那覇教会の集会には近隣の小禄、豊見城からも原口師をしたって出席する者が多く、その数は200名を越していた。その当時の集会に集った青年達の中には役者として有名な次の方々がおられた。沖縄演劇界の先駆者渡嘉敷守礼・守長兄弟、新垣松含、また女型の名優知念政達。中心的な信徒としては米田漆器店主の古賀善次や小学校長の浦崎永春等であったが、若い人々の中では西原真敏や翁長武達が献身的によく働いたものである。
那覇における宣教活動は着々と進められ、1917(大正6)年には待望の教会堂が完成するに至った。それはロマネスク様式の近代建築による教会堂で、久米人ばかりではなく、久米を通るすべての人々の目を奪うほどであった。
1919(大正8)年に原口精一師は沖縄を引き揚げられた。
第四代目那覇教会牧師として神山本淳市が就任したのは大正9[1920]年である。その後吉川亀牧師が来島し、神山牧師は解任され、(略)
照屋寛範師が那覇教会第六代牧師として迎えられたのは1927(昭和2)年である。
第二次世界大戦後の那覇教会は1954(昭和29)年3月、照屋寛範師一家が具志川市の前原より那覇市久米町の戦前の教会の敷地に移られたことにはじまる。その頃は久米町もやっと米国の軍用地から解放されたばかりで住宅も少なく、人通りも少なかった。
1957(昭和32)年には那覇市楚辺(俗称ハーバービュー)に待望の新会堂が完工した。
「宣教の歩み 沖縄バプテスト八十年史」 p216〜p219(省略抜粋、一部編集)


「米田漆器店主の古賀善次」ってのはよくわかりません。古賀善次は古賀辰四郎の息子で海産物商(古賀商店)だったはずですがどこかで名前の混同が起きているものと思われます。
明治43年には西町に米田漆器製造所があり主は米田惚四郎、また米次源吉(米次漆器工場)という人もいました。

バプテスト教会

戦前から那覇にあったバプテスト教会の位置をまとめてみます。
まず戦前は久米にありました。善隣幼稚園もこの位置です。
久米のバプテスト教会
当時の写真は下記サイトで見ることができます(日本語です)。

The Reverend Earl Rankin Bull
http://manwe.lib.u-ryukyu.ac.jp/library/academic/bull/index.html


写真はこれ。左の電柱に「電車のりば 久米」とあります。
バプティスト教会、那覇

1954(昭和29)年3月、旧那覇市市街の解放によって久米の同じ場所に「仮会堂兼牧師館」が建設されます。
そして1957(昭和32)年、那覇市楚辺292(Google マップ)[未確認]に「那覇教会新会堂」が建設されます。久米の仮会堂はキリスト教書店として二年ほど営業してコザに移転したようです。
楚辺の教会の外観はこんな感じ。
楚辺のバプテスト教会(1957)
現在「那覇バプテスト教会」は西原にあるようです。

ここまで「宣教の歩み 沖縄バプテスト八十年史」(1973年発行)と「那覇バプテスト教会  公式ウェブサイト」を参考にしてまとめてみました。1993年には「沖縄バプテスト宣教百年史」という本も出ているようなので八十年史よりはそっちの方が詳しいのかもしれません。
那覇教会は別項にてもう少し取り上げたいと思います。

那覇バプチスト教会からみた那覇

Images of Okinawa after World War II に「那覇バプチスト教会からみた那覇」と説明のついた二つの写真があります。
那覇バプチスト教会からみた那覇
那覇バプチスト教会からみた那覇(1956)
http://digicoll.manoa.hawaii.edu/okinawa/Pages/viewtext.php?s=browse&tid=185&route=browseby.php&start=32&city=Naha&by=city&s=browse

那覇バプチスト教会からみた那覇
那覇バプチスト教会からみた那覇(1956)
http://digicoll.manoa.hawaii.edu/okinawa/Pages/viewtext.php?s=browse&tid=186&route=browseby.php&city=Naha&by=city&s=browse


この風景は楚辺にあったバプテスト教会から撮られたものだと思われます。ですが楚辺の教会は1957(昭和31)年に落成していますので説明の日時とは食い違っています。もしかしたら工事中の撮影だったのかもしれません。
「沖縄バプテスト」のページに楚辺の協会の写真がありました。
楚辺のバプテスト教会(1957)
戦後/那覇市礎辺にあった那覇バプテスト教会旧会堂の写真-1957年(昭和32年)頃
http://okinawabaptist.tk/index.php?historyoverviewobc


未確認ですが楚辺の教会があった場所は那覇市楚辺292(Google マップ)だと思われます。二枚目の写真に写っている小島はガーナ森でしょう。

1955(昭和30)年の割当土地

那覇市の市民の友に割当土地についての議会でのやりとりが掲載されていました。
当時の様子の参考になるかと思いますので抜粋します。

[上原永盛議員質問]
那覇市全体の割当土地の区域又借地人の戸数、地主の戸数を答弁願いたい。(略)
---
[税務課長回答]
那覇の割当土地91818坪、首里15461坪、小禄5620坪、計212899坪以上割当土地。
地主の戸数は那覇2230、首里3500、小禄600、計6330戸。
借地人の場合那覇2600、首里3770、小禄781、計7151であり、これは55年4月22日現在の状態である。
市民の友 1955年7月25日 第49号(抜粋と編集)


市民の友の第50号(55年8月)には人口も掲載されています。

那覇市総計/111984人/男53733/女58251/戸数23322
本庁管内/73389/35272/38177/15074
首里支所/23806/11408/12398/5400
小禄支所/14789/7053/7736/2858
市民の友 1955年8月10日 第50号(抜粋と編集)

ガーブー

那覇市北西部はかつて浅い海が広がっており、ガーブ川下流部も船増原(樋川付近)まで入り江となっていたが、1451年に長虹堤と呼ばれる堤防が造られてから陸化が進んだ。下流部は昭和初期に至るまで湿地帯であったことから地元の言葉で湿地を意味する「ガーブー」よりガーブ川と名付けられた。
ガーブ川 - Wikipedia


個人的な語感としてはガーブー、ガーブと呼ぶ人の方が多いですが、ゴーヤーとゴーヤみたいな感じで後者には未だに違和感があるな。
那覇の古海岸線
船増原は上図で確認できますが、あのあたりまで入り江だったというのもどうにも信じがたいです。
沖縄国際大学のサイトから面白かったのを引用します。

http://ir.okiu.ac.jp/bitstream/2308/225/1/12_002.pdf
ガーブ川が私有地であるために、改修工事を逡巡させる問題を引きおこした。兼次市長が指摘したガーブ川問題の七不思議とは、地主が借地料を取りながら借地人の管理義務を怠り、管理義務と改修責任の矛先が那覇市に向けられて当然とされている不思議さでもあった。
ガーブ川水上店舗の主な土地所有者は、高良盛一氏(なみさと商会経営)、安村善太郎氏(安村書店経営)、上岡作太郎氏(勉強堂経営)、辰野元造氏(文具商廣島屋経営)の主要地主を含めて9名であった。


なみさとはまだあの辺で商売してますね。
昭和四年相当の民俗地図では緑が丘公園あたりから下はすべて畑になっています。

新店舗への入居資格者は、勉強堂に地代を支払ってガーブ川上で営業していた者で組合加入者であることを条件にした。そのため花屋組合員はガーブ川周辺で営業していても、場所使用料を市当局に支払っており、新店舗への入居を強く要求したが除外された。那覇市は花屋組合員を新築予定の公設市場(第2公設市場)への収容を約束、その間新栄通りの仮設店舗で営業することになる。

当時の市長のイヤミまじりのような名言(?)が笑えます。

ガーブ川商店街組合結成大会における兼次佐一那覇市長の挨拶の中で披露された「ガーブ川の七不思議」は次の通である。ガーブ川問題を総括しているようでもあり、全てが「常識」の嘘をついた指摘である。
(1)戦前は田んぼにも畑にもできないようなガーブ川一帯がいつの間にか那覇市の中心商店街になったこと。
(2)このガーブ川の上にいつの間にか水上店舗ができたこと。
(3)川というものは地主はいないのが常識だがガーブ川は地主がいる。
(4)沖縄の経済的中心地で立派な商店街であるが、毎年の雨で浸水し莫大な被害を蒙っているのに、誰もこれを改修しなかったこと。
(5)不法建築物だからこれを市長に撤去せよということ。
(6)ガーブ川は大変臭いがそこに住んでいる人はちっとも臭くないということ。
(7)雨が降り氾濫すればいつも水上店舗のせいだといわれてきたが地主はそれを修理して安心して商売できるようにしなかったことである


この七不思議の背景を追って並べてみると
•那覇市の戦後復興期の米国占領下にあって、市民の旧市街地への移住禁止により県内外からの疎開民や避難民は、早期に解放された壺屋町・牧志町を中心とする現在地に集中的に移住して戦後生活をスタート
•1947年11月頃に開南に闇市が自然発生
•那覇市は公共の立場から元市役所跡地に四百二十六坪の敷地を確保して1948年4月初旬に市場を移転
•米軍の支配管理下にあった旧市街地が漸次開放され使用可能になっても中心市街地は旧市内に戻らず周囲の発展とともに発展

というところでしょうか。
那覇市からすれば戦後の闇市の土地所有者と店子との関係になかなか行政が立ち入れず責任追求ばかりされてしまい、あげくは都市計画までがそれに引きずられてしまったという感じでしょう。
戦前の東町の商いがすっかり消えて、新那覇市のど真ん中のガーブー一帯が繁華街になるとは誰も予想できませんよね。

ガーブーの橋

暗渠化以前のガーブー周辺の橋と街区です。

ガーブーの橋
第一街区 むつみ橋〜栄橋
第二街区 栄橋〜千歳橋
第三街区 千歳橋〜新栄橋
第四街区 新栄橋〜平和橋


ゼンリン地図から暗渠化以前の橋の位置を一部書き込みました(赤)。

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