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みなと村の範囲

那覇市には以前の地名とは違う区が戦後暫く存在していて旧那覇が一区から十一区、みなと村には松尾区、美田区、楚辺一区、楚辺二区、奥武山区、ペリー区、壺川区などがありました。(安里区など他にもありますがちゃんと調べられていません)。みなと村は関係者のみの地域なので通常の市民はその他の地域に居住しています。
1952年当時1〜11区の総人口は42480人、他の区が18465人の総計60945人が総人口です(出典は那覇市史通史編 p418)。
ちなみに1〜11区はこんな感じになっています。
戦後の区

みなと村の範囲については「那覇市議会史 第5巻資料編4 「議会の記録」アメリカ統治期(合併前)」という本に図が掲載されています。冒頭には凡例として以下のように述べられています。

3.口絵の那覇市、首里市、真和志市の行政区域地図は『写真でつづる那覇戦後50年』(那覇市文化曲歴史資料室)より転載。
みなと村は、戦後那覇市の一部、真和志村の一部の区域を以て設置された新しい村で行政区域の境界線については「民政府告示第18号」、『1949年みなと要覧』等を基に、関係者の証言も参考にして、当編纂室で作成した。まだ不完全な所もあり後日を期したい。
那覇市議会史 第5巻資料編4 「議会の記録」アメリカ統治期(合併前)凡例(省略と編集)


余談ですが「写真でつづる那覇戦後50年」にはみなと村は書かれていません。ですので「那覇市議会史」の図がみなと村の唯一の図になるかと思われます。
右図の川から向こう側がみなと村のペリー区です。

この時期の地図として那覇市地図(S26)がありますが自分の持っているコピーはとても見にくくて詳しくは読み取れない箇所があります。また「みなと村のあゆみ」にはみなと村の略図がありますが筆書きの粗いものです。
ちなみに「みなと村のあゆみ」は「みなと要覧」を参考にして作られたものだったかと記憶します。

【追記】「那覇市議会の歩み 通史編」(pdf)の3ページには市域地図があり、上の図で参考にしたものを見ることができます。下図はpdf中の図を切り出して縮小したもの。
正確な範囲を知りたい方は下記アドレスのpdfを参照して下さい。

http://www.gikai.city.naha.okinawa.jp/history/index.html
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泊港南岸埋立地

泊港の南岸の埋立地に移り住んだ人達の移転図ですが、主に牧志街道関係者と美栄橋関係者が移り住んだようです。
前島移転地
現図は那覇市史p601の「泊港南岸埋立地区計画図」で「(一九五三年市議会に関する書類・議決通知 企画部総務課)」という付記がついています。
1953年時点ではまだ移転は完了していないので予定地になってますね。

牧志街道は国際通りのことで、
1953年から1954年にかけて改修工事が行われ、その後、多くの店が立ち並び、発展してきました。
http://www.uchinajoho.com/okinawa/kankochi/hontounanbu/nahashinai/kokusaidori/kokusaidori.htm

とありますからこの改修工事で立ち退きになった人達に用意された土地が泊港南岸埋立地(重民町)だったんでしょう。しかし当時の前島はひどい土地だったらしく陳情もいろいろされていたようです。

【追記】
都市の整備でも、54年12月5日に牧志通りの開通式があり、55年2月28日には又吉道路も開通した。55年1月19日に泊埋立地に垣花区民120戸の割当があり、56年11月19日に若狭町埋立地に市営住宅が完成した。
那覇市議会史 第5巻資料編4 「議会の記録」アメリカ統治期(合併前) p12

大原区(寄宮)

真和志小学校北方一帯に存在した大原区です。
大原区は戦後計画的に入植されています。
大原区(寄宮)
大原区の発祥については、1946年8月軍政府から今後軍民那覇港を中心とする輸送計画を樹立し、陸運関係は那覇港に近いところに住居を持つように軍の首脳部から命ぜられたので、当時陸運課長であった宮城善正氏は候補地を天久と安謝に求めたがいかんせん飲料水に乏しいので水を頼って現在の地に来た。ここは旧真和志校の後方の岡で、大石毛という丘陵地のしたの原野地であったがブルトーザで切り開いて平地となしここに陸運関係の120戸の人達が住居を持つようになった。
(略)
大原という名称については居住者から募集したところ適当な名が無く、結局宮城氏が「石なぐの石の、大石なるまでん……」の歌からヒントを得て、大石原と考え、ついに大原と称えるようになった。この大原への移住は那覇近郊への解放の第一号で、その後。知念地区・石川地区・田井良地区より陸運関係の近親者や友人達が次々移動して現在の繁栄を来している。
真和志市誌 p274


田井良は田井等(タイラ/羽地)のことでしょうか。あと二つあげられている知念・石川も収容所のあった地域ですので田井等である可能性が高いと思われます。

古写真アーカイブ | 那覇まちのたね通信

写真のアーカイブサイトができたようです。
見てみると公文書館や那覇歴史博物館所蔵の写真もあるようです。那覇歴史博物館のサイトでは写真は低解像度のものでしたが、ここは写真のクオリティも問題ありません。このサイトはコメントでご紹介頂きました。

古写真アーカイブ | 那覇まちのたね通信
http://naha.machitane.net/old_photo_list.php



画像はサイトのスクリーンショットです。注意すべきは写真のキャプションがブラウザのタイトル部分に表示されている場合があることです。
上の画像の例だと緑の下線を引いた「藤井呉服店、藤井平兵衛氏の葬儀」がキャプション、写真提供者やその他の情報は別になっています。
ちなみに藤井呉服店はこのブログでも過去に取り上げています。
グダグダ(β) 藤井平兵衛
グダグダ(β) 大正の仮屋の前

写真の転載等は禁じているようです。

本サイトに掲載されている古写真は、特定非営利活動法人ちゅらしまフォトミュージアム(沖縄県那覇市/垂水健吾代表)が複数の著作権者の許可を得て、収集および保存したものです。無断転載を禁じます。


【追記】
ページ最下段にあるコードをコピペすることで写真を表示することが可能なようです。

このブログでは写真の検証(時代や場所など)などを行っていて、画像の拡大や画像処理などを行っている場合があります。写真の同一性保持や転載・引用のルールなどを考えるとこれらの行為は明確にアウトです。
過去にはこれらの改変を度々行っていましたが、2012年3月以降は必要最小限の引用等にとどめ、まちのたね通信からの画像引用などは極力避ける方針に転換しました。しかしそれでもアウトな場合があり得ることを管理者は認識しています。

当ブログはちゅらしまフォトミュージアムの活動が非常に有意義なものであると考えており、その活動の成果物の無断転載などは致しません。また当サイトで使用した写真等の権利はすべて権利者様のものであり、当サイトは権利者様の意向に従います。
その上で引用(引用 - Wikipedia)の条件に沿う形での使用は禁じていないと理解し、比較検証のために必要な最小限のものだけを利用したいと考えています。

まちのたね通信に限らず当ブログで取り扱った写真の権利は権利者様のものであり、当ブログは権利者様からの申し立てに従います。当該記事のコメント欄で申し立てていただければすぐに対応致します。
どうかよろしくお願いいたします。
追記:2012.03.27

みなと村

みなと村は戦後復興のため一時期存在していた行政地域です。

那覇港の荷役作業を請け負っていた「那覇港湾作業隊」の労務管理を円滑にすることを目的として沖縄民政府が設置した極めて特異な自治体である。村長は那覇港湾作業隊総支配人の國場幸太郎が就任し、村職員の大半が那覇港湾作業隊の関係者で占められていた。(那覇港湾作業隊との兼務が許されていた。)

那覇市のほぼ中央、那覇港と漫湖にはさまれるように位置していた。現在の地名で言うと奥武山町・壺川・旭町・楚辺・泉崎・古波蔵の一部である。
那覇市港町は、1970年代になって付けられた町名であり、無関係である。
みなと村 - Wikipedia


2000年5月13日付け琉球新報から引用します。

「みなと村」初めて地図に/那覇市議会史 - 琉球新報
このほど発刊された那覇市議会史第五巻「アメリカ統治期(合併前)」の中で、1950年8月に那覇市に合併した「みなと村」の行政区域が初めて地図になった。(略)
「みなと村」は47年5月、戦後引き揚げたPOW(日本軍捕虜)の業務を引き継いだ民間の那覇港湾作業隊の作業能率を上げようと、沖縄民政府知事によって設置された特別な自治体。那覇市に合併されるまで3年三カ月存続した。(略)
今回、発行された議会史には那覇市とみなと村の合併、さらに真和志村との合併をめぐる白熱した審議の様子もうかがえる。50年4月にみなと村議会が那覇市への合併を全会一致で可決した後、那覇市との合併をめぐって同7月に開かれた真和志村臨時議会では、「みなと村は真和志の土地を利用した特殊区域である。(中略)…、これは真和志村を首都計画からオミットして、みなと村だけを取らんとする陰謀と考えられる。一市二村を合併し、首都建設することには賛成。ただ、みなと村だけの編入は絶対阻止すべきだ」などとする発言もあり、一市二村の合併条件として「みなと村の大半は戦前の真和志村の行政地区。みなと村の解消と同時に、旧真和志村地域は返還せられたい」などの項目が挙がっている。
琉球新報 2000.5.13


1957年に真和志市は合併消滅しますが那覇との合併を巡るゴタゴタが見えて面白いです。当時の那覇市広報の「市民の友」などを読むとその辺の駆け引きがうかがえます。
首里は地名に首里をつけることにこだわったし、地域ごとの微妙な意識の違いや、首里・那覇への(微妙な)反感ってのはなんとなく存在してますよね。
1955年のみなと村遠景。
みなと村
開南小校−ハーバービューを通して漫湖をのぞむ
※旭橋都市再開発株式会社 http://www.asahibashi.jp/area-6.htmlからお借りしています。

しかし戦後10年経った1955年でも現在の旭町周辺は市街地化してないんですよねぇ...

砂川惠姿(大黒屋)

1951年頃の地図には現在の久茂地あたりにありました。
写真は1945年頃の米軍撮影写真だと思われます。
大黒屋
砂川惠姿 大黒屋経営主
那覇市10区14組
氏は1909(明治42)年宮古郡平良町に生る。郷学を卒へるや若干16才にして商都大阪に飛出し、生菓子製造の研究に専念、昭和6年12月帰郷。那覇市県庁前にて大黒屋を開業、餅菓子、生菓子の元祖として広く知られ、其商才は実業界の一明星となり、各所に支店を設け、事業の一大発展を遂げたるも終戦となり、米軍の招聘によりパン、洋菓子製造に従事して軍民の信頼を博す。其後石川にありて製菓商を再開、金武湾に其工場を有して製菓王と謳われしが、1949年現在の位置に移して昔をしのぐ大黒屋を再び経営するに至り、甘味の殿堂として君臨し、其技量はまさに他の追随を許さぬものと好評さくさくたるものあり。
琉球人事興信録(1950) (抜粋、一部直し)


写真上に表示してある「大黒屋(戦前)」の位置は国場組社史に掲載されていた「昭和初期の那覇市街図」、戦後の大黒屋の位置は「最新那覇市地図(S25)」を参考にしています。
また大黒屋は後年波の上に移ったようです。
砂川姿さんは砂川姿とも書かれていることがあります。このブログの中でも異体字や旧字の扱いはぞんざいで一貫性が無く申し訳ないのですがどうかご容赦頂きたい。

あけぼの劇場

少し前まであったあけぼの劇場です。
 
真和志支所前の変形交差点のそばあたり、勾配のある地形にへばりつくようにあった劇場(映画館)です。図は赤があけぼの劇場、緑が真和志村役場(現真和志支所)です。
真和志支所の位置はここ(沖縄県那覇市寄宮2丁目32−1 - Google マップ)。
下写真が後年のあけぼの劇場でほとんどピンク映画、ときには<○○1、2、3>のようにシリーズ物連続三本立て上映とかやっていた記憶があります。
写真は那覇市のサイトから借用しています。

[1952年]真和志村役所向かいに敷地300坪、6棟の私設役所前市場が完成。両市場とも魚肉・野菜・衣類・日用雑貨を区画。テナント申込者が多く、はみ出た者はひめゆり通りに数十軒の屋台を置き、沖映通り・神里原通りにもあって、屋台族という流行語も生まれた。
---
あけぼの劇場が53年3月に村役所斜め向かいに開業。60年前後は乙姫劇団がよくかかったが、まもなく映画常設館になり、70年前後からエロ映画専門館になった。劇場前の真和志通りは58年、屋台群が深夜まで営業し、ゆすり・盗み・強盗・傷害が頻発、百鬼夜行の有様。
戦後の沖縄世相史/比嘉朝進 p54(省略と編集)


役所前市場はいつの間にか消滅したようです。

長虹堤周辺の地形

ガーブ川河口(美栄橋)付近の地形を書き込んでみました。
ガーブー(美栄橋)

参考にしたのは「戦前の牧志町民俗地図」「那覇民俗地図」です。
まず現在のガーブ川ですがむつみ橋から現美栄橋付近に向かって直進し七つ墓手前で左折してゆきます。沖映劇場の向かい側は図で灰色で示したように墓地地帯の高台になっています。灰色は墓地地帯と表記されたところですが周囲より高く石灰岩の塊になっています。緑はgoogle mapで木が生えていると確認できる箇所です。
google map:美栄橋
現在緑が残っている箇所、墓地、高台はほぼ一緒です。開発が困難、墓地の撤去が難しい、権利関係等理由はいろいろ考えられますがともかく残っています。

図をみて分かるのは山形屋周辺の高台とガーブーの水面よりは高い牧志集落の間を水が流れているということです。ガーブーが左折しても左側は現緑が丘公園の高台で右側は七つ墓の間の低地を流れています。
長虹堤の途中にあった入り江の側は現在も墓が残るこんもりとした丘で、ガーブーから分岐した流れが入り江に繋がっていたとしても高台の右側を流れるしかありません。
浮島(那覇)で海岸線の形成について考えましたがこの低地は古海岸線の様子を反映しています。
浮き島1
図の左が長虹堤の建設によって右の図へ変化していったわけです。島小の入り江というのは右図の前島付近にある白いところでしょう。図には書かれていませんが明治期の地図にはこの入り江はガーブーと繋がっているとされている。
島小入り江周辺の背後は現在整地されて空き地ですが周囲からわずかに低いのが確認できます。また不自然なほど真っ平らでなんらかの整地が行われたと考えるのが自然でしょう。
また沖映通りのそばは大通りから入るとすぐ少し低くなっている箇所が多いです。

結論は特にありませんが(汗)墓がある箇所はだいたい石灰岩の高台になっていること、過去の地図でみるかぎり平地はあまり土地利用が行われていないこと、改修される以前の那覇の河川沿いは低地になっていること、などからガーブー周辺は川に向かう緩やかな傾斜の湿地と石灰岩の墓地地帯だったと考えます。
ガーブー周辺の基準面は沖映通りではなく周囲の少し低くなったあたりでしょう。
沖縄の海岸でよくある岩の岸壁やキノコ岩が古海岸線の時代の美栄橋の風景だったはずです。

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