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那覇はどう変わったか(63年)

市民の友1963年6月15日(第154号)に「那覇はどう変わったか」という座談会があります。
その中から一部を抜粋します。

夢のあとに歓楽街
吊るしあげられた翁長さん
[徳田]戦後、ゼロから出発して復興するまでの苦労はたいへんだったと思いますが、市政の方向といいますか、結論的に—。
[新垣]道路が拡張された。だが国際大通り、あれだけでは間に合わない。現在の、楚辺の道路を舗装して、半分はあれに回すべきだ、開南大通りをご覧なさいよ。もう国際通り以上になっている。平和橋通りから神里原の道路やバス道路をもっと大きくしてもらいたいですね。
[徳田]翁長さん、真和志の思い出といいますか…。
[翁長]今だからいいますが、一高女のあとですね。あそこに琉大をつくるつもりで、2万坪ほど確保して文教学校も、外語も。真和志、大道小学校を付属にしようと、山城篤男さんなんかに相談したが、今の琉大の位置がいいということになりましてね。
[徳田]一高女のあと、今は栄町で歓楽街になっていますが最初からそのおつもりでしたか(笑)。
[翁長]いいえ。実はその件で、ひめゆり同窓会の新嘉喜貴美さんや千原繁子さんらから吊るしあげられましてね(笑)。ひめゆり同窓生の夢の跡に歓楽街をつくるとはなにごとだ(笑)というわけなんですよ。
市民の友1963年6月15日 第154号


登場人物は以下。
徳田安周 司会、ラジオ沖縄編成部長
新垣松助 元那覇市議員
翁長助静 元真和志村長
真栄田世勲 元那覇市議員、沖縄生命社長
島袋和楽 元那覇市役所職員
儀武息睦 元首里市議員
長嶺良松 元小禄村長、三和相銀総務部長 (1908-1971)
源武雄 那覇市史編集委員会副委員長
古堅宗徳 那覇市助役
新里博一 那覇市企画部長
外間政彦 那覇市企画部庶務課長


千原さんも新嘉喜さんも怖いですね(笑)。
ちなみに63年当時は琉大は首里城の位置にありました。

参考:グダグダ(β) 千原繁子
参考:グダグダ(β) 新嘉喜倫篤・新嘉喜貴美
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スラム街地域調査

1962年3月1日付の市民の友にはスラム街実態調査の記事(予告?)があり、3月15日に行うという予告と地図が掲載されています。
その図の範囲は下の図のようになっています。
※牧志ウガン後方は書かれていませんがここもなかなか解消しなかったスラム地域です

6、7、8、9区を中心とする旧那覇市内には木造低層の建築物、つまりスラム街が集中し、那覇市の都心部ともいうべき市街地は、住宅や商社が平面的、無秩序にのびており、そのため、道路、上下水道、都市広場などの都市施設が設置されていないので、防火防災、郵便配達がスムーズにいかず(略)
市企画室ではスラム住宅の多い市内6区、7区、8区を中心とする約4200世帯について来る[62年]3月15日から、総合的な住宅実態調査を実施することになりました。(略)
なお、来る3月15日から実施するスラム街実態調査は、スラム街地域における人に、世帯を確実に把握し、住宅や敷地の所有関係建築物の構造等について総合的に調査するが、調査の結果についてはスラム街改造計画の資料以外に利用するころは絶対にないので、市企画室では調査の対象(別掲地図参照)となる市民のみなさんの積極的なご協力を希望しています。
市民の友 1962年3月1日 第139号(省略と抜粋)


紙面には視察を行う西銘市長の姿やスラム街の風景が掲載されています。下の写真は市民の友にも同じものが掲載されていて「ここは郊外の農村部落ではありません。国際都市といわれる那覇市のど真中にまだこんな住宅が残っているのです。(那覇市消防署松尾出張所裏一帯)」とキャプションがついています。
松尾消防署裏一帯
同じ写真の高解像度版は以下アドレスで見られます。
http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=1786

市民の友148号(63年1月)にもスラム街について触れられています。

[企画部長]大局的に見ますとスラム街化した地域は市の全域に散在していますが、とりあえず防火、防災、都市美のうえから不良住宅が集中的に建っている都心部、すなわち松尾消防署裏から刑務所裏にいたる6区から9区のおよそ8万坪、3700世帯を事業対象に指定し、すでに住宅構造を中心とした総合的実態調査を実施し、現在は土地の調査測量を行っています。この二つの調査に基づいて、土地の利用計画をたて適正な街区を造成し、近代的な住宅建設、すなわちスラム街の解消に着手する考えです。
市民の友 1963年1月15日 第148号(省略と抜粋)


1962年の間に調査が行われていたことや調査が続行中であることなどがわかります。

影山萬平

「沖縄県人事録(昭和12)」と「大典記念沖縄人事興信録(昭和4)」から影山萬平の項目を抜粋して引用します。

影山萬平
影山食料品店主
那覇市東町4ノ31
君は明治15(1882)年を以て原籍地岐阜県恵那郡中津町に生る。大正3年沖台拓殖製糖会社御用達商として本県に来たりしが、同社の解散により沖縄炭坑株式会社に入社し昭和2年2月自ら食料品店を経営し那覇市に定住して今日に至る。亀甲萬醤油、銘酒菊正宗の特約店たり、其他和洋食料品専門屈指の店舗として家業隆盛を極めつつあり、以て其大成を期待される実業家なり。
長男美郎君(明44)、長女静子さん(大10)あり頗る円満である。

沖縄県人事録(昭和12)

大正3年11月中頭郡嘉手納に於て開店
大正6年11月那覇に開店と同時に沖縄炭坑株式会社出張所主任となる
大正15年10月退社
昭和2年3月28日現在の所に開店以来場所柄もよし日に月に繁盛しつつあり
氏は日露戦役に出征し勲八等旭日章を賜って居る
---
妻 ムメ子(44)、長男 美郎(18)那覇商業学校5年生、長女 三輪子(15)高女3年在学、次女 静子(8)
大典記念沖縄人事興信録(昭和4)(部分抜粋)




東町の大門前通りで商いをしていた影山萬平は寄留商人では少数派の岐阜県出身者で、沖縄に寄留したのは遅めです。この人事録が書かれた昭和12(1937)年で影山萬平は55歳、長男は明治44(1911)年生で26歳ですから跡継ぎもいることになります。
確証のない話になるのですが何かの本で奥さんは沖縄県人であったと書かれたのを読んだ覚えがあります(あとで確認します)。

以下余談扱いですが波之上近くの埋立に影山という名前が出て来ます。

諮問第7号
公有水面埋立免許申請について(諮問)
別紙の通り琉工土第1577号を以て首題の件について公有水面埋立免許申請手続第2条第4項の規定に基づき当市に諮問がありますので議会の意見を問う。
那覇市臨時市長 東江誠忠

(写)琉工土第1577号
1958年度諮問第20号
那覇市
貴管内の公有水面埋立免許申請について
那覇市美栄橋町沖縄企業株式会社影山義郎から別紙のとおり申請があったので左記事項について貴市議会の御意見を承りたく諮問致します。
1957年12月16日
行政主席 当間重剛
一 埋立場所 那覇市波の上南方周辺
二 埋立面積 19,653坪12
三 目的 総合文化アパート及び住宅建設

那覇市議会史 第5巻資料編4 p490(編集)


両人事録では「美郎」、市議会では「義郎」となっていますが読みは同じ「よしろう」と読めます。

小学校系統図

旧那覇と真和志の小学校の図です。

小学校系統図
小学校系統図2
小学校系統図3

図は那覇市歴史資料室発行の「写真でつづる那覇戦後50年」の巻末資料、「戦後 那覇市小・中学校系統図」(p194)を参考にして作成しました。
元の資料は「開南小 1947.3.31(1947.6.6)」のように書かれていて、括弧内は開校日、その前の日時は設立認可年となっていますが、図では設立認可年を記載しています。開校日はたいてい翌年の4月からになっています。

図には書いていませんが「戦後 那覇市小・中学校系統図」では神原小と与儀小は「楚辺小(1946.2.25)」を前身として持っていることになっています。他の資料では楚辺初等学校は「1946.5.1」、その他にも真和志第二初等小学校(1946.2.19)があることになっています。戦前の学校の流れでは真和志小学校が1880.3.5設立で、そこから1928.1.10に古波蔵馬場に分教場が設置され1940年4月に楚辺尋常小学校になり楚辺国民学校に変わっていっています。ですが「戦後 那覇市小・中学校系統図」は那覇市が関わったものなのでその見解が公式となるのでしょう。
このあたりには突っ込まないことにします。

甲辰尋常小学校は甲辰国民学校になり閉校となっていると考えられますが、開南小に受け継がれていると考える人もいるようです。上記「戦後 那覇市小・中学校系統図」では受け継がれているとは考えられていません。
安里小は現在の博物館あたりにあったものが土地収用のため移転、名前も変わっています。前身の存在をどうかんがえるかは大道国民学校、安里国民学校では受け継いでいると言えそうです。
ですがこの辺は解釈次第ということになってしまうでしょう。

この図と解釈に関しては「戦後 那覇市小・中学校系統図」に従うことにしてこれ以上の検索はしないことにします。正直手に余りますのであしからず。

【追記】確実であろうものとして「沖縄県公立小学校変遷史 資料編/ 沖縄県教育庁総務課編(1994)」という本があります。

那覇市埋め立て地図(戦後)

戦後の埋立地域です。この図は私が制作したものではなく、以前webから保存してあったものですが、現在保存元アドレスがわからなくなってしまっています。
那覇埋立図

下の図は「那覇市議会史 第5巻資料編4」の冒頭図を模写しました。
63年以降なので50年代の埋立である前島(重民町)などは書かれていません。

60年代以降の埋立

西新町にあった施設

西新町にあった施設の写真を見てみたいと思います。 西新町は1、2丁目がフルガタ(古潟?)、辻側の3丁目がミーガタ(新潟?)と呼ばれています。
写真は総て「昔の写真と資料」さまよりお借りしています。m(_ _)m
http://blogs.yahoo.co.jp/pusan_de
西新町
まず3丁目の大正劇場(左)と偕楽軒(右)です。この劇場は真教寺から少し海側に行ったところにありました。偕楽軒は西洋料理店です。
大正劇場偕楽軒
そして大阪商船株式会社。こちらの出島のような二つの島は通称フルガタ(古潟?)です。埋立の順番による名称だと思うのですが根拠は今のところ見つけられていません。
大阪商船那覇支店
位置は那覇民俗地図を参考にしています。

西新町に見える施設は他に以下のようなものがあります。
•硝子工場、三丁目クラブ、宝来館、南陽旅館、日の出自動車、当間タクシー、金城組(建築業)、旭商会、日本共立生命(以上ミーガタ/3丁目)
•通堂倉庫、沖縄製糖会社、野間商会、平良製材、十倉鉄工所、早瀬川造船、西クラブ、昭和自動車、東自動車工場、共和商行、友寄仕立て屋(2丁目/フルガタ)
•百四十七銀行倉庫、税関、水上警察、沖縄無尽、那覇商運組(1丁目、フルガタ)
これらは「那覇民俗地図」と「昭和初期の那覇市街図(国場組社史)」を参考にしました。

ほかには花月(楼)[写真下]も西新町にあったようですが、こうして見ると埋立地はなかなか賑やかそうですね。
花月
花月 和洋料理店
本店 那覇区西新町三丁目
那覇区における四大料理店の中(略)同店は元埋地の一隅に極めて小規模のものを設立せるに始まり、このあと数年を出でずして大発展を来し、新埋地なる海岸に宏壮精麗なる数棟の建築を起し、(以下略)

泊北方の丘陵

安里から泊の後方(北側)にはいくつか名前のついた場所があります。
左図は「那覇市旧跡・歴史的地名地図」を参考にして作成、右図は地図から推定したもの。

那覇市史でこれらに触れられている箇所を抜粋します。

また泊の後方をとりまく丘陵は、東側から白森、黄金森、高真佐理、洋順(えんじゅん)とつらなり、茅原であったり松林であったり芝生だけのところであったり絶勝の地であった。
那覇市史資料編第2巻 中の7 P37


「那覇市旧跡・歴史的地名地図」ではナンジャンムイ跡は「白山療養園跡」とも書かれています。那覇市史の記述では東側(安里側)から<白山・黄金森・高真佐理[タカマサリ]・洋順>と続くようですからナンジャンムイは白山と考えていいのではないかと思います。
現在は黄金森は公園、高真佐理(タカマサリ/タカマサイ)も公園、ヒータティ毛は泊浄水場跡地です。

【追記】
東の裏の丘がクガニムイ、ナンジャンムイと呼ばれていた。高真佐理の丘とクガニムイ、ナンジャンムイとの連なりとの間が大きく割れ、大溝(ウフンジュウ)と呼ばれるところがあった。そこから農道が泊後原に通じていた
「写真で見る旧泊 崇元寺町 高橋町 前島町の変遷」 p11(編集と抜粋)


参考:グダグダ(β) 白山療養園

みなと村の範囲(原名)

戦後の一時期存在していたみなと村は那覇と真和志の一部を区域としています。

みなと村は、現在の那覇市に位置していた特別な村。
1947年5月1日に那覇市と真和志村の一部が分離して誕生した。
1950年8月1日に那覇市に編入し消滅した。
http://ja.wikipedia.org/wiki/みなと村

場所はこうなっています。
那覇市のほぼ中央、那覇港と漫湖にはさまれるように位置していた。
現在の地名で言うと奥武山町・壺川・旭町・楚辺・泉崎・古波蔵の一部である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/みなと村


左の図が原名(はるなー)と町名、右が那覇市議会史に掲載されていたみなと村の範囲です(みなと村のペリー区ははみでていて表示できていません)。


みなと村内の行政区は、松尾区、美田区、楚辺一区、楚辺二区、奥武山区、ペリー区、壺川区で、設置の流れはこうなっています(みなと村のあゆみ巻末年表より)。
1947.5.1 
みなと村設置
楚辺原の一部、美武田原、長作原の一部、阿手川原、赤畑原、那覇市通堂町の一部

1948.4
真和志村の字二中前一区、松尾、県庁前、旧那覇市の上泉町を編入
総面積233234坪になる


例えば楚辺原の一部がみなと村になりますが、図示されている楚辺原のどこか一部でしかないということがわかるのではないでしょうか。
旧那覇市・真和志村(と小禄)の図。

旭町、上泉町が那覇、奥武山も那覇市通堂町になります。

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