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寄宮区画整理関連新聞記事

「那覇市議会史第4巻 資料編3 新聞にみる議会 アメリカ統治期(合併後)」は1958(昭和33)年から1972(昭和47)年5月までの議会・行政関連の新聞記事を集めたものです。
その中から寄宮の区画整理関連の記事をタイトルのみ抜出します。

地主、減歩率に反対/寄宮の区画整理/頭を痛める市当局
沖縄タイムス 1963.6.23

“不良住宅化”を防ぐ/寄宮地区区画整理事業認可
沖縄タイムス 1964.1.25

あすから工事開始/那覇/寄宮、壺川の区画整理
琉球新報 1964.3.8

進まぬ区画整理/那覇市、地主説得に全力
沖縄タイムス 1965.12.26

寄宮区画整理/減歩率で審査/市は方針通り施行の意向/那覇市建設委
沖縄タイムス 1966.1.24

寄宮地区区画整理/反対押し切って着工/地主、すわり込み続ける
沖縄タイムス 1966.2.15

“傍聴”でもめる/寄宮の区画整理/当局は強行の方針
沖縄タイムス 1966.2.19

寄宮区画整理/あくまで着工/建設委で市当局が表明
沖縄タイムス 1966.3.9

那覇市/今日臨時議会/寄宮区の区画整理/打開策を話し合う
琉球新報 1966.7.5

仮処分申請を決定/寄宮区画整理/人民党の反対押し切る
沖縄タイムス 1966.7.5

“都計法は無効”/寄宮区画整理事業/初回公判開く
沖縄タイムス 1966.9.26

異議制度を明確に/寄宮区画整理問題/那覇市長、主席に要請
沖縄タイムス 1966.10.14

八年ぶりに和解/那覇市と寄宮重民/区画整理事業再開へ
沖縄タイムス 1972.4.20


【追記】公文書館に1966年5月の「那覇市寄宮宅地造成地主松岡政保行政主席へ陳情」という写真がありました。

琉球政府関係写真資料 221 写真番号:059883
http:..www.archives.pref.okinawa.jp.hpdata.DPA.HTML.GRI.R29.059883.html
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故白石武助は常に有隣生命保険会社の被保険人に候処去五月末死亡候処其後右武助の在命中医師及死去後の医師転任不在等に依り本社へ差出べき手続きの書類太きに延引仕り八月初めに至り手続一切那覇東町申込所堀之内寿次郎取次き那覇代理店永山新太郎へ差出最近郵便より本社へ差出相成候九月初保険金全額五百円正に受領候條本社の●実なるを信用せり本社の被保諸君へ謹告す
三十一年九月十五日
大宜味間切塩屋村
鹿児島県人白石武助長男

白石武八郎
亡武助妻白石ミヤ

※●は不明文字
琉球新報 明治31年10月7日(旧字改め/カタカナをひらがなに)


関連:グダグダ(β) 白石武八郎

変わった広告ですが、要約すると医師の不在により保険会社への書類手続きが遅れたが代理店に取り次いでもらって支払いがあったということなんでしょう。
とりあえずは寄留商人の白石武八郎さんの父母の名前がわかるということで記録しておきます。

未開通の潮渡川


左写真は一号線工事以前、右は現在に近い地図で、各ポインタは赤が那覇商業(現那覇中)、青が兼久、緑は崇元寺です。潮渡川は七つ墓のあたりで久茂地川と分かれて若狭団地方向に向けて流れてゆくのですが、左写真の埋立前は潟原そばの入り江といった雰囲気です。
1958(昭和33)年の沖縄タイムスにこの流れが一号線で寸断されていたというのがわかる記事がありましたので引用します。

一号線に架橋を/水害防止、那覇市が申請
那覇市の真中を流れるガーブ川の支流の一つである前島町から1号線を通り市営住宅に通ずる排水路は、1号線でたち切られているため、大雨のたびに附近に浸水さわぎをおこさせているが、那覇市では9日、主席に1号線を通して橋をかけるよう申請した。
去る2月7日の豪雨でガーブ川をはんらんさせ、公設市場一帯に1億円の損害を与えたのも一因はこの排水路の水のはけ口がないためだといわれているが、1号線の工事は技術的にも困難だといわれ乏しい那覇の財政ではできないとあって政府に工事申請をしたもの。(後略)
沖縄タイムス 1958年5月13日[那覇市議会史p28より抜粋]


未架橋状態の潮渡橋の写真もあります。
那覇まちのたね通信 | 58号線(旧1号線)/前島から若松方面を望む
http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=1767
那覇まちのたね通信 | 58号線(旧1号線)/前島付近の1号線/1961頃
http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=1766


潮渡川が海に向かって開通したのがいつなのかはまだ調べられていません(後日追記します)。

牧志ウガン角力場/野外舞台

俗に牧志ウガン(牧志御願)と呼ばれる場所に存在した階段状の建築物について(とりあえず)まとめます。

牧志ウガンは牧志部落の拝所であり、東のウタキ(アガリヌウタキ)です。俗に牧志ウガンと呼ばれている公園の丘の上にあります。この一帯は牧志町の共有地であったが戦後市有地になっています。
牧志ウガンと呼ばれる公園の正式名称は牧志公園で、公園内に拝所があったことから俗称として定着したと思われます(公園化の前からあるのだから逆なんでしょうけども)。
牧志公園(以降統一)内には角力場があり、戦前から角力大会等が行われていたようです。この角力場は現在も公園内のグラウンドに存在し、沖縄角力(シマ)の大会が行われています。
戦後の1957年7月に階段状の建築物(野外舞台)が市によって建設されます。公園内のグラウンドを取り囲むよう野球場の観客席のような形で作られました。この野外舞台(以降統一)は闘牛場と形が似ている事から闘牛場とも言われているようですが、那覇市の広報誌によると野外舞台とされています。この野外舞台がいつ無くなったのかは今のところ確認できておらず、少なくとも平成4(1992)年頃に行われた現牧志公園内の発掘調査の写真には存在していません。また国土交通省の1977(昭和52年)撮影の写真にも存在しないように見えます(後述)。
那覇市が発行する「市民の友」での野外舞台完成記事は牧志ウガン野外舞台を参照して下さい。

整理すると、牧志ウガンは牧志公園内の拝所で東のウタキの別称牧志ウガンという呼び名は現牧志公園の別称としても使われる。これはもともと戦前から拝所とその敷地で角力が行われていたような関係で、現牧志公園がすべて牧志ウガンであるともいえる。
角力場は牧志公園内のグラウンドに設置されたもの野外劇場は戦後の牧志公園内に一時期存在した角力場(グラウンド)を取り囲むように作られた建築物ということになります。

航空写真を基にした絵(彩色写真か)が野外舞台の形状について良くわかります。
牧志ウガン角力場
元画像掲載元:http://www.rememberingokinawa.com/photo/cpc_naha_shuri_1/28

また野外舞台内部から撮影されたとおぼしき写真もあります。
https://picasaweb.google.com/lh/photo/LjBlcKK4Ta87XvAycZVxNQ
https://picasaweb.google.com/lh/photo/bdE8NEBS6_oinbq-U_KESQ


この彩色写真は安里から牧志方向に向って撮影されています。彩色写真には上図につけた説明はありませんが、ほぼ同じアングルで撮影された別写真についている説明を流用しました。
牧志ウガン角力場」と書かれているのは「新郷土地図 第一巻/沖縄タイムス社/1957年発行」6ページにある空撮写真で、「牧志ウガン角力場(MAKISHIUGAN WRESTLING RING)」という説明がつけられています。
この新郷土地図に使われているのと同じ写真がまちのたね通信にあります(1956年頃となっていますが)。
参考:http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=1859

以降は余談として。
現在牧志公園のそばの川沿いは崇元寺まで道路が通っていますが、これは平成5(1993)以降のことです(工事開始日や開通日をまだ調べていません)。
この工事を行うにあたって発掘調査が行われており、「牧志御願東方遺跡 モノレール関連街路事業(崇元寺姫百合線)に伴う緊急発掘調査報告(1995)」という報告書にまとめられています。野外舞台がいつ頃なくなったかという検証に使った写真はこの報告書にあったものです。
工事以前の牧志公園とその周辺についてざっと述べると、公園内の丘が現在の道路に広がっていてその周辺の川沿いは俗にスラムと呼ばれる状態でした。
 
左図内の左側は報告書p7内の「グリッド設定図」を模写して現在の地図に重ねて描いたもの、右は現在の地図です。右側の写真は国土交通省の1977(昭和52年)撮影のものですがこの写真を見ても野外舞台はすでに存在しないように見えます。
右写真の掲載アドレスは下記、写真の加工等は自分がしたものです。

http://w3land.mlit.go.jp/cgi-bin/WebGIS2/WC_AirPhoto.cgi?IT=p&DT=n&PFN=COK-77-1&PCN=C58&IDX=7&PNO=1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,11,12,13,14,15,16,17,18,19


左は少し前の地図で右は現在の地図です。左図の赤い矢印は最初に掲載した「牧志ウガン角力場」の撮影方向を示しています。
左図は「崇元寺姫百合線」のうちひめゆり通りから壺屋小までの区間が開通しているが牧志公園から崇元寺までの工事がまだ始まっていない頃のものです。工事はひめゆり通り国際通り間が最初に行われています。

牧志町の共有地であった牧志公園一帯が戦後に市有地になったのはニミッツ布告の影響です。ニミッツ布告に関しては下記リンクを参照して下さい。
参考:神道指令 - Wikipedia
参考:学制百年史 資料編 [一 教育法規等 (一) 連合国軍最高司令部指令]
参考:ニミッツ布告
牧志公園の元共有地問題がわかる新聞記事があるので引用します。

牧志御嶽土地問題解決促進町民有志会(高良嘉永会長)の代表ら8人が[平成4年1月]16日、那覇市役所に親泊市長を訪ね、「現在市有地となっている牧志ウガンの所有権を牧志町民に返して欲しい」と要請した。同会は 1989年10月にも同じ要請をしたが、「市から回答もなく、誠意が感じられない」と市長に迫った。親泊市長は回答がなかったことをわびた上で、「法的問題など関係部による委員会を内部でつくって検討したい」と答えた。
牧志ウガンは国際通り沿いにある拝所。戦前までは牧志町の共有地だったが、戦後、神道の護持を排するため、ニミッツ布告によって寺社仏閣などは私有地・共有地として登記できなくなり、市有地になった経緯がある。
牧志ウガンは近く、モノレール関連道路の工事で敷地の約1000平方メートルが削られるが、同会は「モノレール事業には協力する」とした上で、(1)牧志ウガンの牧志町民への返還(2)モノレールつぶれ地の補償(3)由緒あるお宮と井戸の移転・復元費の負担などを求めている。
琉球新報 平成4年1月20日[那覇市議会史p438より抜粋]


那覇市史での記述。

[牧志]町内には村中央の拝所と牧志ウガンの2つがあり、牧志ウガンは旧5月5日にはウガミの後、ここで相撲大会があって首里、那覇をはじめ中南部に、その名が知られていた。現在の蔡温橋近くの子供あそび場がそれである。
那覇市史資料編第二巻中の7、p33


この項は野外舞台取り壊し日時と国際通り崇元寺間道路の開通日と工事日時を後日追加して終わりたいと思います。

【追記】那覇市議会史別冊年表に1977年3月に牧志ウガン児童公園完成とありました。

上の芝居・下の芝居

旧那覇にあった上の芝居と下の芝居(沖縄座)です。

上の芝居・下の芝居上の芝居・下の芝居

端道そば[辻町1丁目1番地]に住んでいた金城芳子さんの話。
グダグダ(β) ゆたか屋
一帯の家主であった山里[永吉]家。
グダグダ(β) 山里永吉

千原繁子さんの下の芝居そばの宇良てんぷらの思い出。
グダグダ(β) 庶民とフクミン
グダグダ(β) 油のひみつ

54年沖縄地図

1954(昭和29)年の沖縄本島地図がありました。
オリジナルは5000x3778px、4.3 MBです。

Hoja Naha del Mapa Topográfico de Japón 1954 - Mapa mundi - Adimapas.com
http://www.adimapas.com/asia/japon/txu-oclc-6900707-ng52-6-2nd-ed.jpg-es.html


那覇の部分と説明欄を切り出し。
54年

時期的には那覇市内の解放が一段落ついたところですね。
参考:グダグダ(β) 旧那覇地区の解放順序

【追記】同じものですがダウンロード先はこっちのほうがいいかも。「NG 52-6 Naha」が沖縄になります。

Japan AMS Topographic Maps - Perry-Castañeda Map Collection - UT Library Online
http://www.lib.utexas.edu/maps/ams/japan/

高相杰夫人

辻美人第演劇大会はひきつづき大人気にて、一昨夜は初日より観客者増え、殊に初日のうす暗き舞台が徳田商店の寄贈にかかる9個のガス燈にて白昼の如く光、舞子音楽隊はこれがために一段の見ばえありき。12時打出し。
当日の観客が殊に人目をひきしは支那婦人鄭氏の観臨にして、舞子等の手踊りをさも珍しそうに打眺めながら、気色満面、何やら連れの男とささやきなどして極めて愉快に見えたりき。
(大正2年5月6日)
【註】鄭氏とは大門前の占春魁主人・高相杰(こうさいしゅつ)氏夫人のことで、2、3日前革命騒ぎをおそれて福州から呼び寄せたばかりで、新聞はインタビュー記事を二日つづけて掲載していた。
沖縄の遊郭 p639


那覇の東町大門前の<占春会>(福建人で書家・詩人・茶商の高相杰[こうしょうけつ]経営)の手伝いをするが、
グダグダ(β) 呉賢貴


高相杰は「こうさいしゅつ」「こうしょうけつ」どっちでしょうか?

Wikimedia Commons

Wikimediaにも古い写真集などから写真をあげている人がいます。

Category:United States administered Okinawa - Wikimedia Commons
http://commons.wikimedia.org/wiki/Category:United_States_administered_Okinawa


「今日の琉球」や「守礼の光」といったものは著作権うるさくないのかなと思いますがその他の写真などは権利はどうなってるんでしょうか。
とはいえこのブログもグレーどころではないのであまり言えたもんじゃないですが... クリアできるならあげたいものはけっこうあるんだけど。

米国民政府発行の住民を対象とした月刊誌。1957(昭和32)年の創刊時の発行部数は1万5000部。陸軍第7心理作戦部隊発行の『守礼の光』とともに、民政府施策の宣伝誌。72年の施政権返還で廃刊。
『今日の琉球』 (こんにちのりゅうきゅう) - 琉球新報 - 沖縄の新聞、地域のニュース

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