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昭和12年の料理業 2

昭和12年の料理業の続きです。
「日報の沖縄人名録 昭和12年版」という本から料理業の項の後半を抜出します。前回と今回のものは料理業で同じ項目内なのですが、前のものは項目の最初の方にあり今回のものは後半にあって分けられています(中間には離島の料理業があります)。
これがなぜなのかということですが、前半には料亭の名が見え、後半にはカフェーとして名があがる店名があることから業態の違いと解釈しました。

那覇会館
今村静男 西本町2ノ31 電394

ライオン
富坂サキ 西本町4ノ36 電231

天狗
高安高俊 辻町1ノ77 電109

モンパリー
北村チヨ 辻町3ノ38

日満
高出時次郎 辻町3ノ98 電507乙

松月
宮城カメ 辻町3ノ270

名護蘭
座波清信 若狭町1ノ26

ニッポン
大嶺カナ 若狭町1ノ30
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薪の運送

産地
主に国頭方面の山林、東海岸沿いの平安座、奥、久志方面、西海岸沿いの名護、許田、恩名、慶良間列島
輸送方法 
主として山原船による。
那覇にての集荷港
渡地(通堂町)、中の海(西新町2丁目)
薪炭商への運搬
フナングヮ(下泉町)の古波蔵、石原、備瀬などは中の海、渡地で山原船から大型伝馬船に積み替え北明治橋、月見橋、旭橋、松田橋の下を経て集荷していた。この際の運送費は買い主持ちであった。大伝馬船船一隻約千把くらい、久茂地河沿いの薪炭商は泊港より伝馬船で泊高橋。前島の板橋、美栄橋、久茂地橋の下を経て運送していた。
(古波鮫唯施氏談)
那覇市史資料編第二巻中の7、p418 (一部修正)

那覇の薪荷揚げ地
薪の販売業者の多い所は泊で高橋際(高橋2丁目)の通称舟口という所で業者が十余軒もここに集結し、敷場[シキバ/シチバ]には井桁やバラ積みにした薪の小山が並んで、木の香がプンプンしていた。運搬する区域は泊一円はもとより、近隣の町や首里方面にまで及んでいたが、その他の薪の陸揚げ場所は、西新町の中の海それから渡地那覇港南岸の垣花にもあった。
•泊 高橋2丁目
棚原オト、又吉、新田、塩浜、嶺井、伊波、花屋、高井、久場マカト、久高、平良カメ、平敷
•久茂地 久茂地川沿い
古堅、瀬名波、安次嶺、屋宜
•下泉町 泉崎橋際通称フナングヮ
石原世昌、古波鮫唯施、備瀬マカト(松田橋際)
•垣花
真栄里、宮里、仲間
•住吉 監獄所向い
儀間
•西新町 1丁目
伊佐、我喜屋、諸見里
•西新町 2丁目
比嘉モウシ、当間、瑞慶山、古波蔵
那覇市史資料編第二巻中の7、p293、294

図はいくつかの図を参考にして作成しました。
泊(高橋町2丁目)のオレンジ色は舟口で濃い色の点は薪置場となっていて(那覇民俗地図)、明治初年の図ではオレンジ色のあたりはシキバとなっています。ですが「写真で見る泊の変遷」などの図では塩田になってたりするのでくわしいところはわかりません。
西新町1丁目と2丁目の間が中の海。
泉崎のオレンジ色がフナングヮですが(那覇民俗地図)、明治初年の久茂地川河口が埋立されていない時期は仲毛あたりにもシキバと書かれています。

関連:グダグダ(β) 久高将正 (戦前に美栄橋で薪炭木材店)
参考:グダグダ(β) 渡地 (わたんじ)
参考:グダグダ(β) 牧志のムートゥ (安里橋のそばにタムンシチバ)

園田実信

園田実信
ローズ写真館 ローズ美粧院 経営主
那覇市3区11組
氏は明治32(1899)年那覇市垣花町に生る。大正12年長崎高等簿記学校を卒へ、長崎県に於いて税務官吏を勤めたが大正15年沖縄県庁農務課に職を奉じ、じ来10余年誠実職務に勉○し昭和4年農林主事補拝命、 同8年 沖縄県属に任官県勢の向上に努力貢献した。同12年之を辞し上京東京写真学校に写真技術を学んで同15年之を卒へると同時に帰県、上之蔵に於いてローズ写真館を開業し終戦に至る。戦後現在地に於いて再び復活、尚夫人は美粧院を営業、目下両々相まって頗る繁栄を極め今日を迎えている。
琉球人事興信録(1950) (抜粋と編集・直し)


神里原大通り(52年) 2では神里原にあることになっています。

沖縄写真史-年表
http://rca.open.ed.jp/city-2002/photo/4nenpyo/index.html

町田宗正

琉球人事興信録(1950)から町田宗正さんです。

町田宗正
大正食堂経営主
那覇市10区9組
氏は大正3(1914)年那覇市牧志町に於て生る、郷学を卒へるや、上阪昭和10年4月大阪市関西料理学校卒業、徹頭徹尾洋食の研究に没頭して、洋食の殿堂たる神戸市在東洋ホテルに招聘され洋食の粋を蒐めて外国人をして驚嘆せしめ、更に大阪市大洋軒グリルにコック長として敏腕を揮い錦を故郷に飾り、昭和13年那覇市西本町キング食堂に懇ぼうされてコック長を勤め沖縄の洋食王としてうたわれ、戦後1947年5月那覇製パン工場を経営1949年4月現在の大正食堂を設立、自ら其の店主として、多年の技りょうを発揮し同業界より嘱望されている。


牧志出身で関西方面で活躍し昭和13年帰郷、その後は市内で飲食業経営のようです。
戦後の区
参考:グダグダ(β) 戦後の那覇の区

10区9組は国際通りの現在のOPAのある角一帯です。

宮城譲治

1950年の人事録からパラダイス通りの宮城譲治さんです。

宮城譲治
ニュパラダイス経営主
那覇市10組[ママ]6組
氏は大正2(1913)年を以て首里市汀良町に生る。郷学を卒へるや青志おさへがたく進んで関西大学に学び之を卒へるや迎えられて日活映画脚本部に入り後大阪朝日新聞社記者となり其敏才は認められて将来を属目させられしも期する所とありて之を辞し新大阪ホテル、レストランアラスカ、兼大阪商業会議所食堂の支配人として采配をふるい阪神地区に名声を轟かす、昭和19年12月南洋に渡航シンガポール東亜交通公○南方ホテルれい明支配人として活躍終戦となり 1946年2月帰郷し米軍部隊の通訳として郷土復興に貢献し同年5月ニュパラダイスを開設、オキナワ唯一のダンスホールとして一般に知られえい業隆盛を極め今日に至る 氏は社交に長じ商才に秀で内外の信用大なり
琉球人事興信録(1950)

参考:グダグダ(β) パラダイス通り
参考:グダグダ(β) 戦後の那覇の区

ニューパラダイス経営者は下記アドレスの「オキナワ・ストリートウォーカー」では伊藝教永さんとなっています。
http://www.okinawajoho.net/pc/street/paradise/index.html
「那覇市旧跡・歴史的地名地図」では山形屋裏の位置(ストリートビュー)にニューパラダイスがあった事になっています。オキナワ・ストリートウォーカーも伊藝さん本人にインタビューしていますし確かなものだと思いますが、この食い違いがなぜなのかはわかりません。

石川逢篤

戦前の酒造関係で名前のでてくる石川逢篤さん。

昭和3、4、5年が[酒造]業界にとっては一番苦しい時期で、多くの酒造所が倒産のやむなきに至った。二代会長は南洋酒造株式会社の平尾喜三郎氏、三代が大城昌貞氏で任期はそれぞれ2年ほどであった。昭和10年8月、大城会長の後を受けて四代会長に私[石川逢篤]、副会長に佐久本政良氏が就任した。昭和10年頃より業界も活況の兆しが見え、12、13、14年にかけて販売拡張のため東京や大阪、福岡などに宣伝隊を繰り出し大々的な泡盛PRをした。
酒連50年/戦前の酒造業界 石川逢篤 p143、p144(省略と抜粋)


高橋町
22270/102076/(酒造)石川逢篤
沖縄日報 1937(昭和12)年7月9日(編集)

那覇長者番付(S12) 6


https://hs32.drive.ne.jp/zuisen.co.jp/aboutus/legend/article_11.html
また、昭和十二年の『沖縄県人事録』(高嶺朝光編)には、何人かの酒造業者がとりあげられており、それぞれの銘柄が記載されている。たとえば「朝日泡盛」の那覇市通堂町の石川蓬篤氏、「美栄泡盛」の那覇市久茂地の大城昌貞氏、「神泉泡盛」の那覇市上泉町の神元繁宜氏、「喜屋の梅」の首里崎山町の喜屋武幸俊氏、「松藤泡盛」の首里崎山町の崎山起松氏、「咲元泡盛」の首里烏堀町の佐久本政良氏、「太平泡盛」の那覇市垣花町の津波古充章氏、「清水泡盛」の垣花町の仲村清栄氏が銘柄とともに紹介されている。


石川逢篤商店
酒造業 石川逢篤商店/沖縄県人物風景写真大観/上原永盛編/沖縄通信社/1935年10月31日発行(昭和10年)/P52/丸写真は店主の石川逢篤氏

写真は那覇市のもので上のような説明がついています。これまでの引用では昭和12年の長者番付に高橋町で名前があり、昭和12年の沖縄県人事録では「朝日泡盛の通堂町の石川逢篤」として名前があります。
戦後の人事録ですが1954年の「沖縄名鑑」でのプロフィールを引用します。

石川逢篤
明治30年10月11日生
石川逢篤氏は、那覇市通堂町に生る。大正8年沖縄県第一中学校を卒業、実業界に進出し酒造業を起し家運隆盛を極む。昭和元年沖縄県酒造組合連合会長に推され同14年那覇商工会議所副会頭、同15年沖縄県酒類販売株式会社社長等の重職を歴任し、名実共に堅個な基礎を築き上げ、すでにして其の将来の大成を期待された。
1946年琉球中央銀行監査役を筆頭に、沖縄食料株式会社取締役、沖縄相互銀行監査役兼務の傍ら同50年琉球火災海上保険株式会社創立と共に副社長に就任し現在に至る。
沖縄名鑑(1954) p15(抜粋と編集)


生家が酒造業かどうかわからなかったのですが「私の戦後史 第2集」に生家のことについても触れられていましたので要約、そのほか垣花に首里から石川が来たという那覇市史の部分を引用します。

父逢厚、母ゴゼイの長男(一人っ子)として渡地に生まれる。
父は首里出身で渡地で泡盛を販売、垣花に酒造工場も持っていたが焼失、後に泊の前道に工場を持ち販売も手がける。
甲辰尋常小、嘉手納時代の二中に入学、3年次に一中へ転校。卒後家業の酒造業に従事する(泊)。
大正14年那覇市議に当選。

[垣花]部落は那覇港に面して立地しているため宮古、八重山からの寄留民も多かったが、大正時代に首里三カから、イシチャーグヮー(石川小)、津波古、知念ほか一軒が転入して酒屋を開業していた。
那覇市史資料編第二巻中の7、p54


戦前の石川逢篤さんは家業の酒造業に従事、戦後は経済界で様々な活躍をするが泡盛製造とは関係しなかったようです(オリオンビールとは関係してますが)。

上泉町(湧田)

上泉町
古くは湧田村と称した。下泉町より高台地になって、家々は立派な石垣と屋根門(ヤージョウ)を構えていた。中でも一向宗で有名な仲尾次家をはじめ、大家旧家は、すっと後までも昔のままの姿を残していた。また、湧田瓦屋でも名が知られ、1617年に朝鮮人陶工、張献功が窯を開き、陶器造りの指導にあたったが、そののち、仲村渠致元が大改革を行い、陶器の町としても定着していた。日秀上人が地蔵堂に題して「現世安穏後世善所」といったのも、この静かな住宅街をいっているのであろう。
近くに県庁や、県立二中があったせいか、官吏や教師など勤め人が多かった。地蔵堂の坂上には牛乳屋が二件あった。「湧田ヌ先」あたりには、藺サバツクヤーや、マーミナ(もやし)、櫛、チュージナクーツクヤーがいた。他町のものがこの附近をさして俗に「湧田サバカチ」と称したが家で仕事するのが多かった。
地蔵堂の下方にあった、ウガン(勢治荒御嶽)の広場には人力車の駐車場があって、その隣りには泉崎の村学校跡の古い建物が残っていた。エーマヤード(八重山役人の宿泊所)跡の旧家も近くに残っていた。
那覇市史資料編第二巻中の7、p31、32(抜粋と編集)

那覇(東側)

湧田サバカチのサバは草履のことです。
久茂地の河原端(カーラバンタ)、譜嘉地の新村渠、湧田の先、若狭町の東より、牛マチの西側、久米村の堂小屋敷(ドウグヮーヤシキ)などは那覇の場末で細民街であった。
湧田先の草履作り、新村渠の木かんざし作りは那覇名物で、つげの木地を手頃に裂いて荒削りのままざるにいれて女客をまっていると先の鋭い切り出しで削り鮫皮で磨きをかけ、旧藩時代一本5、6文で売ったようである。
グダグダ(β) 那覇の細民

チュージナクーチュクヤー /cjuuzinakuucukujaa/
チュージナクー cjuuzinakuu(洗い粉)を作る人。主に女性の仕事だった。ワクタヌサチ 'wakutanusaci (湧田崎)の人に多く、ざるに入れて行商もしていた。

http://ryukyu-lang.lib.u-ryukyu.ac.jp/srnh/details.php?ID=SN51096


湧田地蔵堂は開南小学校のそばになるでしょうか。上泉は道がすっかり変わってしまっているのでおもかげはありませんが開南小学校そばで弧を描いている道あたりに地蔵堂はありました。
上泉湧田地蔵堂

参考:グダグダ(β) 那覇人気質 2 (湧田のあだ名について)
参考:グダグダ(β) もやし (上質な泉崎のもやし)

木下藤吉(木下味噌醤油/木下籐吉商店)

戦前の若狭には裁判所向かいの若狭町大通り沿い、タコーヌスージそばに木下醤油という店がありました。
木下味噌醤油
場所はわかさ民俗地図を参考にしています。名称は若狭民俗地図では「木下醤油」、昭和初期の那覇市街図では「味噌醤油木下」となっています。
若狭町大通りはこんな感じ。

若狭町大通りは西武門から潟原までの広い通りである。潟原に向かって右側は、医院、家具店、新聞社などの他、那覇地方裁判所、検事局裁判官舎が目だち、潟原に向かって左側は医院、写真屋、えびす堂、商店、ぬりもの店、しょう油製造業、酒造業、鍛冶屋があってにぎわっていた。若狭大通りは中頭青年からはウーマク(暴れん坊)の多いところとして注目されていた。
この通りは大きな町屋はなく、裁判所と大正時代の島尻郡役所跡に海外移民の宿泊所で三階建ての開洋会館があり、大通りから少し入った若狭町アガリ(東)の海岸近くに那覇市立商業学校があった。
若狭町大通りは中頭方面から砂糖を積んだ馬車がひっきりなしに通り、ときどき西新町の屠獣場に送られる牛を牛バクヨー(博労)たちが曳いてきた。しかし若狭町あたりにきて白い泡を出してへたばっている牛もよく見かけた。
那覇市史資料編第二巻中の7、p299


戦後ですが「目で見る琉球・琉球写真案内 1963年版」には木下藤吉商店の項目があります。

木下藤吉商店
木下味噌醤油工場全景
品質を誇る - ○の味噌醤油
那覇市大道区大通り
目で見る琉球・琉球写真案内 1963年版 p247

※○は
大道大通りは坂下から安里へ向かう通りです。
短いものですが文は写真のそばに付けられたもので、写真には平屋とコンクリートの建物が写っていて、平屋には「味噌醤油醸造元 木下藤吉商店」とあり、コンクリートの方には「木下味噌醤油工場」と書かれています。
下図は沖縄主要地主要商工年鑑(1952)からですがピンポイントな位置はわかりませんのでご注意。

1954年の「沖縄名鑑」に木下藤吉さんの項目がありました。

味噌醤油製造業
木下藤吉
明治25年11月26日生
真和志市大道区7班2号
氏は那覇市若狭町に本籍を有す。
尋常高等小学校を香川県小豆島にて卒え、家事に従事していたが後マル金醤油株式会社に入り、三ヶ年間醤油製造の実地研究を重ね、大正5年沖縄に来島若狭町にて味噌醤油醸造業を経営した。
終戦後昭和20年現住所に移転。
沖縄名鑑(1954)p61 (省略と抜粋)


本籍云々が意味するところが少し謎ですが木下姓は内地姓だと思われます。

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