戦前の酒造関係で名前のでてくる石川逢篤さん。
昭和3、4、5年が[酒造]業界にとっては一番苦しい時期で、多くの酒造所が倒産のやむなきに至った。二代会長は南洋酒造株式会社の平尾喜三郎氏、三代が大城昌貞氏で任期はそれぞれ2年ほどであった。昭和10年8月、大城会長の後を受けて四代会長に私[石川逢篤]、副会長に佐久本政良氏が就任した。昭和10年頃より業界も活況の兆しが見え、12、13、14年にかけて販売拡張のため東京や大阪、福岡などに宣伝隊を繰り出し大々的な泡盛PRをした。
酒連50年/戦前の酒造業界 石川逢篤 p143、p144(省略と抜粋)高橋町
22270/102076/(酒造)石川逢篤
沖縄日報 1937(昭和12)年7月9日(編集)
那覇長者番付(S12) 6https://hs32.drive.ne.jp/zuisen.co.jp/aboutus/legend/article_11.html
また、昭和十二年の『沖縄県人事録』(高嶺朝光編)には、何人かの酒造業者がとりあげられており、それぞれの銘柄が記載されている。たとえば「朝日泡盛」の那覇市通堂町の石川蓬篤氏、「美栄泡盛」の那覇市久茂地の大城昌貞氏、「神泉泡盛」の那覇市上泉町の神元繁宜氏、「喜屋の梅」の首里崎山町の喜屋武幸俊氏、「松藤泡盛」の首里崎山町の崎山起松氏、「咲元泡盛」の首里烏堀町の佐久本政良氏、「太平泡盛」の那覇市垣花町の津波古充章氏、「清水泡盛」の垣花町の仲村清栄氏が銘柄とともに紹介されている。
酒造業 石川逢篤商店/沖縄県人物風景写真大観/上原永盛編/沖縄通信社/1935年10月31日発行(昭和10年)/P52/丸写真は店主の石川逢篤氏写真は那覇市のもので上のような説明がついています。これまでの引用では昭和12年の長者番付に高橋町で名前があり、昭和12年の沖縄県人事録では「朝日泡盛の通堂町の石川逢篤」として名前があります。
戦後の人事録ですが1954年の「沖縄名鑑」でのプロフィールを引用します。
石川逢篤
明治30年10月11日生
石川逢篤氏は、那覇市通堂町に生る。大正8年沖縄県第一中学校を卒業、実業界に進出し酒造業を起し家運隆盛を極む。昭和元年沖縄県酒造組合連合会長に推され同14年那覇商工会議所副会頭、同15年沖縄県酒類販売株式会社社長等の重職を歴任し、名実共に堅個な基礎を築き上げ、すでにして其の将来の大成を期待された。
1946年琉球中央銀行監査役を筆頭に、沖縄食料株式会社取締役、沖縄相互銀行監査役兼務の傍ら同50年琉球火災海上保険株式会社創立と共に副社長に就任し現在に至る。
沖縄名鑑(1954) p15(抜粋と編集)生家が酒造業かどうかわからなかったのですが「私の戦後史 第2集」に生家のことについても触れられていましたので要約、そのほか
垣花に首里から石川が来たという那覇市史の部分を引用します。
父逢厚、母ゴゼイの長男(一人っ子)として渡地に生まれる。
父は首里出身で渡地で泡盛を販売、垣花に酒造工場も持っていたが焼失、後に泊の前道に工場を持ち販売も手がける。
甲辰尋常小、嘉手納時代の二中に入学、3年次に一中へ転校。卒後家業の酒造業に従事する(泊)。
大正14年那覇市議に当選。[垣花]部落は那覇港に面して立地しているため宮古、八重山からの寄留民も多かったが、大正時代に首里三カから、イシチャーグヮー(石川小)、津波古、知念ほか一軒が転入して酒屋を開業していた。
那覇市史資料編第二巻中の7、p54戦前の石川逢篤さんは家業の酒造業に従事、戦後は経済界で様々な活躍をするが泡盛製造とは関係しなかったようです(オリオンビールとは関係してますが)。
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