「沖縄県立図書館 貴重資料デジタル書庫」に「日本名勝地誌 第11編」という本があり、以下画像すべてデジタル書庫からダウンロードし画像加工した物です。
まず表紙。
日本名勝地誌 第11編/博文館/田山 花袋∥編/1901(明治34).12
http://archive.library.pref.okinawa.jp/?type=book&articleId=50104ほうほう。校正なので内容のあれこれには花袋は関わっていないでしょうね。
1899年(明治32年)に結婚し、大橋乙羽の紹介で博文館に勤務し、校正を業とする。
田山花袋 - Wikipedia
そして話は上の画像(p46)なんですが、「
本州人の墓地 若狭町村にあり、道を距てて天尊祠と相対す。」とあります。
下の地図画像詳細は
那覇区全図(大4)を参照して下さい。
他府県人の葬式は、1882(明治15)年ごろ古賀辰四郎の先妻(善次氏母)が死亡した際日本式葬式(大和だび)が行われた。
当時他府県人の墓地は若狭町(西武門前山城産婦人科医院裏側)洪済寺境内に定められ、1885(明治18)年真和志村楚辺原の丘に寄留人の墓地として新たに制定されるまで、この若狭町の直堀り墓地に埋葬されたが、楚辺原(県立二中、現那覇高校の北側丘)に墓地が移され、俗に大和人墓と呼ばれた。
那覇市史 通史編2 p236
グダグダ(β) 大和だび(日本式葬式)地図で赤い点で表示してあるのが山城産婦人科医院、その裏が洪済寺(青ポインタ)、波上宮側の赤いポインタが天尊廟(天尊祠)です。
「
道を距てて天尊祠と相対す。」とあるわけなんですが洪済寺とは道をへだてて相対していません。昭和10年代相当の「
わかさ民俗地図」では天尊廟の向かいあたりには天理教になっています。
那覇民俗地図では洪済寺のそばあたりには「大和人墓跡」とありますが、天尊廟の向かいには天理教がありその他の表記はありません。裏には辻原墓地がありますが...
結論はありませんが、「日本名勝地誌 第11編/博文館」が何を参考にして書かれたのか、もしくは誰がこれを書いたのかがはっきりすればわかることなのかもしれません。
以下余談。
「日本名勝地誌 第11編」は「
日本名勝地誌: 琉球之部」という名称で無料でGoogle Booksにもあります(
Link)。
「沖縄県立図書館 貴重資料デジタル書庫」は写真撮影画像で焼けた紙の色がそのままですが、Google Booksは白黒で文字も読みやすいです。
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