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安里駅

戦前の安里駅は交差点角附近、第一高等女学校(一高女)と女子師範はほぼ現在の栄町です。安里駅は那覇駅から古波蔵を経て北上してゆきます(330号線とほぼ同じ)。
その他路面電車は旧那覇市内をぐるっと回って、崇元寺〜安里〜首里の区間を通っています。安里交差点ではこの二つが高架とトンネルという形で交差しています。
安里駅は南北方向、女学校前は市内路面電車です。
戦前鉄道
那覇まちのたね通信 | 真和志(学校)/沖縄県立第一高等女学校生徒安里駅前にて
http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=1294


入口が一階で線路は二階の高い位置にあります。

那覇まちのたね通信 | 真和志(学校)/沖縄県立第一高等女学校・沖縄県女子師範学校 姫百合橋の下で 2部2年生徒
http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=1286


ひめゆり橋は現在位置と変わらないようです。

那覇まちのたね通信 | 真和志(学校)/沖縄県立第一高等女学校・沖縄県女子師範学校 校舎全景
http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=1285


この写真は線路あたりから撮ったものでしょうか?
安里の交差点や安里駅周辺の写真はこれ以外に目にしたことがありません。桑畑が多かったとかいう話もありますがまとまった記述を探せていません...

「図説・沖縄の鉄道/ボーダーインク刊」には線路が高架だったのがわかる安里駅の正面入口イラストがあったかと記憶しています。それと「おきなわの路面電車/絵・松崎洋作/文・船越義彰」という本でイラストがあるようです。

画像はhttp://manabey.nobody.jp/okirails/romen/jyogako.htmから無断拝借しています(すみません)。
画像が掲載されている下記サイトはまとまっていますのでご紹介。

http://manabey.nobody.jp/okirails/keibin/index.htm
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那覇市内の建築物(戦後)

那覇市内(旧那覇・真和志)の建築物や道路の建設時期などをまとめてみたいと思います。気がついた時に追加してゆくつもりです(更新3/11)。
2012年1月25日に末尾へ道路も追加しました(更新2/1)。
2012年2月3日に末尾へそのほかの建築物・施設も追加しました。

※この項目の更新を都合により停止します(2012年3月30日)。

那覇商業学校の写真

絵葉書をあつめていらっしゃる方のページに沖縄の絵葉書がいくつかありました(無断拝借失礼)。

那覇商業学校
戦前の絵葉書 戦後の絵葉書 楽しめる絵葉書: 戦前絵葉書 沖縄 那覇商業学校 大正
http://ehagakiwotanosimu.blogspot.com/2011/04/blog-post_4913.html


戦前の絵葉書も県立図書館にありますが「貴重資料デジタル書庫」で扱ってくれないかな...
参考:グダグダ(β) 那覇商業学校跡

戦前絵葉書 沖縄 那覇の屠殺場 大正
http://ehagakiwotanosimu.blogspot.com/2011/04/blog-post_2660.html

戦前絵葉書 沖縄 第百四十七銀行沖縄支店 大正
http://ehagakiwotanosimu.blogspot.com/2011/04/blog-post_1454.html

戦前絵葉書 沖縄 那覇大門(うふじょう)前通り
http://ehagakiwotanosimu.blogspot.com/2008/06/blog-post_05.html

子供博物館?

60年代中期の地図には現緑が丘公園内に子供博物館という建物があります(左図)。

右は国土交通省の1977年撮影の写真を自分が加工したものです。
国土画像情報(カラー空中写真) 国土交通省
http://w3land.mlit.go.jp/cgi-bin/WebGIS2/WC_AirPhoto.cgi?IT=p&DT=n&PFN=COK-77-1&PCN=C58&IDX=7&PNO=1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,11,12,13,14,15,16,17,18,19


オレンジがパラダイス通り、ピンクは川沿いの道、緑が公園内を通っている道になります。ポインタは山形屋です。
子供博物館というのは過去存在した建物で別名ペルー館とも呼ばれていましたがいまのところはっきり場所がわかりません。緑が丘公園の敷地内の小高い場所にあったらしく、戦後早い時期に建てられたそうです。

最初の図で赤く示した箇所は子供博物館となっていますし、1977年の写真にも写っています。しかし子供博物館はわりと早く取り壊されてしまったはずなのに77年撮影の写真に建物が写っているのは解せません。そして自分の記憶ではこの建物はPTA会館と呼ばれていた気がします。
結論はありません...

【追記】69年ゼンリン地図にはペルー館として存在、77年のゼンリン地図には2階が「沖縄PTA連合会」、1階が「沖縄出版販売㈱」としてあり、住所は牧志1丁目108?となっています。
早くに取り壊されてしまったと書いたのですがこれは自分の勘違いで、66年に機能を久茂地に移転させたあとも建物は存在していたとすれば辻褄は合うのですが...
それとおそらく開館は54年だと思われます(未確認)。

【追記】遠景に小さく写っている写真がありました。切り出して拡大したものですが「子供博物館」と読めないでしょうか。

那覇まちのたね通信 | 那覇(国際通り)/国際通り 牧志付近
http://naha.machitane.net/old_photo_big.php?id=1983

戦前のトマト栽培

※近日中にまとめ直して改訂します。(2012.08.18)

トマトが出てきたので書き留めておきます。
具志堅宗精さんは明治29(1896)年垣花生まれで大正9年に警察官になっています。

私は、当時、高級野菜をつくっていた。サヤ豆、百合根、キウリ、サヤインゲンなどをつくり、それをかついで高級料亭風月楼や那覇港に停泊中の船にも売り歩いていた。ハシリだから高く売れたが、主要生産物である百合根が世界大戦のために、欧米輸出ができなくなり、農業では食えなくなった。 p28

それでも私は締めようとせず、高級野菜をつくってはせっせと彼女の家に売りに行った。彼女一人いるときは、たくさんおまけをつけてやったり、トマトなどただでやったりして彼女の機嫌をとることを忘れなかった。 p27
なにくそ、やるぞ/具志堅宗精 (抜粋と編集)


こちらは国場で1910(明治43)年に生まれた城間さん。

畑はウージ(さとうきび)の他、芋、タマナー(キャベツ)、シブイ(冬瓜)、グンボー(ごぼう)、レークニ(大根)、人参、トマトなどいろいろ作りました。
グダグダ(β) 国場のくらし


那覇市史には農作物の項目でトマトの名は見えないんですが証言などにはでてくるんですよね。とはいえ農業関係の記録や統計などちゃんと調べてませんからどうだったかの結論はありません...
昭和8年の新聞記事には製造者組合創立の記事があります。

トマト製造者組合生る
きのふ設立総会
那覇市内青果出荷商約30名に依って今般沖縄トマト製造者組合が生れ昨晩乙姫亭に於て設立総会を開き規約役員其の他決定した
沖縄朝日新聞 1933(昭和8)年2月21日


【追記】コメントで戦前の首里では「バンカ」と呼んでいたとの情報をいただきました。
【追追記】「バンカ」は「蕃茄」のようで、方言名ではなく当時の一般的名称(?)のようです。
引用は「昭和沖縄園芸発展史/宮城桃幸」(p153)にある「新聞五十年/高嶺朝光」の転載の孫引き転載です。

それからトマト。大正12、3年頃、一般家庭ではめったにトマトが食膳に上がらなかった。高価でもあったし、食べつけないため、嗜好にも合わなかったようだ。料理屋あたりでトマトを薄くきざみ、砂糖や醤油か塩をふりかけて、酒のサカナにしていた。トマトジュースとなると、とんでもない話で飲んだことも見たこともなかった。それも農事試験場が普及に精出して2、3年で全島にひとがった。そのうちに本土の野菜の需給関係に気がついて(温室栽培はまだ実現しなかった)、本土の野菜が市場に出回る前に沖縄から移出するような商才も育った。
「昭和沖縄園芸発展史/宮城桃幸」p153 (抜粋と引用)

川崎正蔵

寄留商人でもうちなーんちゅでもありませんが沖縄と意外なところで関わっていた人間ということで番外編。

川崎正蔵
川崎 正蔵(かわさき しょうぞう、天保7年7月10日(1836年8月10日) - 大正元年(1912年)12月2日)は日本の実業家、政治家。
---
明治4年(1871年)上京し、明治6年(1873年)帝国郵便汽船会社副社長となり、東京、琉球間の郵便航路開始に尽力した。同社は明治11年(1878年)に三菱汽船会社と合併する。
明治10年(1877年)大阪に官糖取扱店を開き、また琉球反物の運送販売により巨利を得て、念願であった造船業を開始。
川崎正蔵 - Wikipedia


川崎重工の創始者は薩摩人ですか。薩摩人で砂糖と反物でぼろもうけとなれば寄留商人の姿と重なります。
大阪・東京の糖商のことも知っておいた方がよさそうだけど大変そうだ。

サイドカー

画家の山元恵一さんの父の話が面白かったので引用します。
画像はhttp://www.flickr.com/photos/24443965@N08/3440267242/in/set-72157609823200760/から切り出したもので、元画像は1919(大正8)年に現在位置に移転した県庁正門前の写真です。時期的にもありえない話でもないので写っているひとは山元さんの父なのかもしれません。
戦前の那覇市内をサイドカーで走り回っている人がいたというのは愉快ではあります。

筆でちょこっと八の字ヒゲを引いたような、童顔で、しかもどこか渋い役柄をこなすフランスの俳優に似ていて、山元恵一氏は愛嬌があった。
思い出されるのは、恵一氏の父君が、那覇署長をしていた頃の話である。さすがに親子で、父君も氏にそっくりの顔立ちだった。この父君には妙なクセがあった。それはサイドに部下の警官を乗せ、サイドカーで那覇の街を走るというクセである。普通は船の方に上司がおさまり、ハンドルを握るのは部下だが、那覇署長の場合はアベコベである。真面目な顔で運転する姿は街の話題になった。
那覇市久米町に産まれ、たしか小学校は那覇尋常小学校で、私も同じ学校だった。1932(昭和7)年県立二中を出て、38年東京美術学校油絵科を卒業、41年から県立二中に勤務、戦後派首里高等学校美術教諭をへて、52年琉球大学美術工芸科の助教授となり、苦心の指導にあたるかたわら沖縄タイムス社の主催する沖展運営委員として活躍した。
1977年逝去。
沖縄人物シネマ(抜粋と編集)

 
※この写真はCC BY-NC-SA 2.0で提供されており、当ブログでも継承(SA/Share Alike)の条件に従います

1913年5月13日、那覇市西村生まれ
山元恵一|作家紹介|美術館|沖縄県立博物館・美術館
http://www.museums.pref.okinawa.jp/art/artists/painting/yamamoto_keiichi/index.html


山元姓は内地姓かなとおもったら士族に山元姓で名乗りが「恵/惠」の人がいました。
「沖縄県人事録(大5)」には士族で医師の「山元惠孝」さん、士族かどうかはわかりませんが「沖縄県人事録(S12)」には「山元惠順」さんがいます。

山本と山元は同じ読みですが、「元」を使う姓は鹿児島に多いようです。また検索すると首里の阿氏に山元姓がいるようです。
このへんはさっぱりわかりませんよ...

首里から見た真和志


画像は下記ページより無断拝借しております(すみません)。
金城町あたりから繁多川方面を望んでいるのだと思うのですがなにもないようにみえます。

http://www.a-nero.com/syuri.html

またページ内には部落内の石畳道の道路拡張の様子がわかる比較もあります。
石畳道は王府時代よりそのままだと思っている方も多いと思いますが、実は水道管他の敷設などで戦後に拡張されています。このあたりは那覇市広報誌の「市民の友」などを参照するとわかります。
識名部落内の道路拡張では識名部落の道路拡張工事を取り上げましたが、昭和中期に古い集落のほとんどは道路が拡張されています。

戦前から旧那覇市では水道の敷設がすすめられていたのですがわずかなものでした。戦後に水道を付設してゆくのですがほぼゼロからの工事なので昭和中期に至っても簡易水道などで済ませている地域も多かったのです。また水道がきていても圧力不足で水が出ないなどの事情もあり、その対応のため上間水タンクなどは作られています。
那覇市の水源も宜野湾などからのものでしたが、水源の水質悪化などのため山原からの水源に切り替えられて現在に至っています。那覇市内で水の質量ともに満足できるようになったのはそれほど昔の話ではありません。

【追記】金城町の道路についてはこれなども参考になるんではないでしょうか。
那覇市首里金城地区における細街路整備の経緯と意義(農村の景観と自然環境, 農村計画)
http://ci.nii.ac.jp/naid/110006330051

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