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Map #6 Naha city center(作業中)

http://www.rememberingokinawa.com/photo/1967_Business_maps/05の「Map #6 Naha city center(1967)」に日本での呼称をつける作業をしています(更新2/17)。


*1 琉球生命安里別館(安里102)/ゼンリン69年
*2 Takara Record Shop/丸高レコード(コメントで教えていただきました)
*3 不明/Izumizakiまでは読める/泉崎病院は1967(昭和42)年
*4 岸本ビル/ゼンリン69年
*5 整備工場?
*6 美栄橋郵便局/ゼンリン69年
*7 古堅兄弟社/ゼンリン69年
*8 大東糖業ビル/琉球セメント[Ryukyu Cement Co.]、大東糖業[Daito Togyo Co.](コメントで教えていただきました)

58号線沿いは別にとりあげます(2/17)。
*a ゼンリン69年には「各種保険損害査定鑑定」とある
*b ボウリング場のはず
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銘苅の稲作

わずかな言及ですが書き留めておきます。

戦前の銘苅地域は、戸数130戸、人口610人、総面積234462坪であった。また小字別の土地利用については別表のとおりである。王国時代は公租の関係から米作が基本であったが、近代(明治期)以降、換金作物としてサトウキビ栽培が主流となり、銘苅地域でも稲作から畑作への転用が進められたと思われる。戦前同地域(小字多和田)に居住していた人の話では、稲作は大湾ガーラ一帯のわずかな場所で行われていたとのことである、宅地は銘苅・宇久増・港川・名護松尾の各小字に偏っており、いわゆる「散村」の形態が見られる。港川・名護松尾の2小字は他地域よりも墓敷地が多いところである。
銘苅古墓群 (2007年) p113(抜粋と編集)

多和田川

散村と集村ですが昔からある村はだいたい集村になっています。左が上間、右が与儀。
上間(当り原)与儀集落
銘苅はこのような碁盤状の集落はなく、道沿いに家が並んでいるような感じです(那覇新都心物語の「旧銘苅民俗地図」参照)。

ボーシチャナー

ボーシチャナー
自由労働者。棒を敷く者の意。棒のみを持ち、それを下に敷いて雇う者を待つことからこういった。葬式のときには死人を弔い、遺体や造花を持つ。賎業とされた。

http://ryukyu-lang.lib.u-ryukyu.ac.jp/srnh/details.php?ID=SN51559


この項目についてはさっぱりわかりません...
田舎の共同体で自由労働者はありえなかったと思いますし、借金による身売り、あるいは小作人や日雇いなどとはニュアンスが違うように思えます。やはり都市部での話ではないかと。龕を担ぐのは田舎であれば平民の普通の若者がやっていたわけですし。

貧乏人が社会構造的に賎業へとはじき飛ばされたことや、癩病患者が「業病」とされて蔑視されていたのは過去に取り上げましたが、ボーシチャナーがどういう人達であったのかは(自分は今のところ)わかりません。

【追記】「沖縄物語/古波蔵保好」でボーシチャナーに触れている箇所がありましたのでそちらを参照して下さい。

参考:グダグダ(β) 那覇の細民
参考:グダグダ(β) 東寿寺(堂小)
参考:グダグダ(β) バクチャヤーとクンチャー

Naha, Okinawa bar area

外人さんから写真を拝借。写真はすべてhttp://vw1assoc.tripod.com/PIscenes3.htmlから。

波上宮から辻方面を望む。小高いところは松の下(Teahouse August Moon)、やぎ写真館というのが見える。


夜はネオンの色が毒々しい。ペプシの配達車がアメリカンです。


木造瓦葺きの建物の入口だけコンクリ建築風ですね。

写真は57年から58年にかけてのもののようですが、軍人は赴任期間があるのでだいたい正確なものではないかと思います。

戦後初期の本屋(作業中)

戦後の本屋がどんな感じだったのかはわかっていないのですが文献などにでてくる記述等をまとめてみたいと思います。雑多な項目になるかとは思いますが...

1948年 牧志に初の書店幸地、松尾に貸本山田 /戦後の沖縄世相史 p35

幸地長順(幸地書店)は戦前から書店経営、戦後は1947年に石川で貸本屋を開業し後に那覇へ移転。
松尾の貸本屋は山田親度経営で1949年7月7日に開店(のち閉店)、1949年12月に牧志で球陽堂を開店する(国際通り物語)。

仲井真元楷は47年3月、松尾の高台に那覇最初の劇場を建てた。48年、新栄通り会長となる。当初はゲタ・線香・野菜をほそぼそと売っていた。50年12月の新聞には「新栄通り 仲井真書店」とある。
戦後の沖縄世相史 p32


50年4月、土地所有権が公布されると商店の建築ラッシュが続いた。神里原通りに雑貨店44軒、飲食店・料理屋が11軒、洋裁店9軒、美容店7軒ほか書店・衣料店・製氷店・旅館・金物店・畳店・ビンゴ屋・湯屋・ダンスホールなどが100軒あまりあり、裏通りにも100軒余の商店が軒を並べる。
戦後の沖縄世相史 p36


沖縄の書店の創業年月を見ると、1950(昭和25)年前後に営業を始めているのが多い。文教図書、みつや書店、高良書店、崎間書店、せんき書店(後の3店は国際ショッピングセンターから牧志郵便局間で営業していたが、いずれも7〜10年前に閉店)などがこの頃の創業である。
「沖縄・国際通り物語—「奇跡」と呼ばれた一マイル/大浜 聡」 1998年発行p86


安村書店、浦崎書店(第一図表/市場本通り)、屋宜書店、文楽堂書店、みつや書店分店(第二図表/市場通り)、花井書店(第三図表/新栄橋通り)、仲井真書店(第四図表/新栄橋通り)、仲地書店、幸地書店(第五図表/牧志大通り)、球陽堂書房(第六図表/牧志大通り)、みつや書店(第十二図表/浮島通り)、みやざと書房、松山書店(第十三図表/樋川大通り)、太陽堂(第十六図表/神里原商店街)、文林堂(第十七図表/神里原商店街)、盛光堂書店(第二十二図表/沖縄劇場通り)
※○○書店のようにはっきりわかるもののみ(○○堂などは未抜粋)
沖縄主要地・主要商工年鑑(1951)


みつや書店(第五図/浮島通り)、球陽堂書房、新星堂書房(第六図/国際大通り)、仲地書店、幸地書店(第九図/国際大通り)、安村書店(第十六図/市場通り)、浦崎書店、(第十七図/市場通り)、振興堂書房(第二十七図/新栄通り)、百編堂書店(第二十八図/新栄通り)、松山書店、開南書店(第三十図/樋川大通り)、博賢書店(第三十二図/神里原中央通り)、沖縄書籍(第三十四図/バス道路[神里原])、城岳書店(第三十六図/刑務所通り)、威光堂書店(第三十八図/沖縄劇場通り)、三原書店(第四十図/三原区4班)
※○○書店のようにはっきりわかるもののみ(○○堂などは未抜粋)
沖縄主要地主要商工年鑑(1952)


63年の琉球商工会議所会員名簿から。
安木屋書店/安仁屋雅一[牧志]、琉球文教図書/當銘由金[美栄橋]、かねこ書店/新垣雅一[那覇市若松橋前]、太陽堂書房/平田綾子[那覇市1区25班]、安村書店/安村善太郎[牧志]、幸地書店/幸地長順[那覇市4区9組]、荒城書店/花城安正[那覇市6区16組]、球陽堂書房/山田親度[牧志]、沖教販/真栄城玄明[美栄橋町1丁目20]、みつや書店/饒平名知寛[那覇市6区17組]、崎間書店/崎間麗詮[牧志]

南風原の資料など

周辺地域の資料もあげておきます。

南風原の戦後ー社会と文化
http://www4.ocn.ne.jp/~myoo/b-38-haebaru.htm


那覇も中心部以外はあまり変わらなかっただろうと思われます。特に上間や仲井真などは南風原と隣接してますし、交通等の条件もとくに違ったものはありません。

「60年前の南風原 南風原町歴史民俗地図/沖縄県南風原町史編集委員会民俗部会編(1994)」

戦前相当の民俗地図です。

国場組

国場組のサイト。
社史も戦前は国場幸太郎の苦労話ばっかりで建設に関しては詳細な情報はあまりないのですがサイトもそんな感じです。特設サイトも社史以上の情報はありません。

沿革 | 企業情報 | 國場組
http://www.kokubagumi.co.jp/corpinformations/%E6%B2%BF%E9%9D%A9

80周年特設サイト | 國場組 | 國場組80周年特設サイト
http://www.kokubagumi.co.jp/80th-anniversary/


国場組は戦前には美栄橋の現在位置に近いところにあり、戦後は一時石川や壺川にありました。1954年には美栄橋に商事ビルというのを建てていたようですがこのビルが現在の国場ビルの位置にあったのかどうかは調べられていません。
沖縄タイムスフォトギャラリーにビル新築から間もない1970年の写真があります。

沖縄タイムスフォトギャラリー
http://photo.okinawatimes.co.jp/list.php?event_id=C&page=5


No:C_154824
1970年撮影 久茂地方面 国場ビル


沖縄テレビあたりから国場ビルに向けての撮影。

No:C_154823
1970年撮影 国際通り


むつみ橋陸橋の上(どこだろうか)から国場ビル方面を撮影ですが周囲には高いビルはないのがわかります。
むつみ橋陸橋自体が写ってる写真はあまりないのですが、この写真からは少なくとも1970年には存在したことが確認できます。陸橋は水上店舗を建設してからしばらくしてできたのかもしれません(60年代後半?)。

大同火災

大同火災は71年に合併により誕生していたのですがこれは復帰に備えて郷土系がまとまったらしいです。

1950年9月 「琉球火災海上保険株式会社」を設立。
1953年12月 「沖縄火災海上保険株式会社」を設立。
1954年3月 「南西火災海上保険株式会社」を設立。
1961年8月 「球陽自動車保険相互会社」を設立。
1963年9月 沖縄火災海上保険と南西火災海上保険が合併して「共和火災海上保険株式会社」となる。
1963年12月 共和火災海上保険が球陽自動車保険より契約及び財産の一切の業務を譲り受ける。
1971年12月10日 琉球火災海上保険と共和火災海上保険が合併して「大同火災海上保険株式会社」となる。
1972年5月15日 沖縄の日本復帰により、日本の元受損害保険会社となる。
大同火災海上保険 - Wikipedia


「共和火災海上保険」は久茂地のタイムス本社向かいあたりにあったようです。3階建てくらいか?

那覇まちのたね通信 | 沖縄タイムス社前
http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=604



「KYOWA INSURANCE CO」「共和火災海上保険」の字が見えます。

本土復帰に対処して経営基盤を確立するため1971(昭和46)年12月に対等合併して設立された会社です。
当社のあゆみ|大同火災について|沖縄の損害保険会社 大同火災


社章は“大同”の大の文字を図案化したもので、 左右の三角形がそれぞれ琉球火災と共和火災を意味し、中央の三角形をむすび支えているという意味です。
つまり、社名の由来である“大同団結”が意味する 「多少の違いを捨てて、ひとつになる」ことによって誕生した大同火災を中央の三角形が象徴し、その母体である琉球火災と共和火災が、しっかり支えている という意味が込められています。
社章の由来|大同火災について|沖縄の損害保険会社 大同火災


【追記】1950年は戦後経済活動の開始年です。
「戦後米軍がしていた仕事を5年後に一般企業に任せたんじゃないか」。
その証拠は次に訪れた大同火災海上保険にあった。照屋侑社長の手には英文の「保険事業従事免許証」。同社の前身、琉球火災保険にあてた黄ばんだ証書には「琉球一円を通じ火災保険業務に従事することを認可し証す」とあり、末尾に「軍政府長官の命により」。当時、米国の琉球復興金融基金で住宅建築への融資が始まり、住宅物件に付ける火災保険制度が必要になり、創業につながった。

http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-170552-storytopic-222.html

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