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儀間商店

「昭和初期の那覇市街図」には大門通りちかくに儀間商店があり、この儀間商店は後年のGIMAかとも思いますが関係ははっきりわかりません。
大正14年の新聞広告から。

新茶入荷
製造元 支那福州南台 太吉洋行
販売元 那覇市東町郵便局向フ大通リ○[※○に吉]儀間商店



図は「昭和初期の那覇市街図」を参考にしました。現代のGIMAの沿革を見てみます。

昭和8年5月 創業
昭和27年4月 合資会社儀間本店設立
沿革|GIMA | ジーマ株式会社|総合卸売業


新聞記事は大正14年で創業は昭和8年ですからハズレかと思われるのですが、こだわってるのは儀間家はクニンダなんですよね。なので久米あたりに土地があるのもわかりますし、泉崎交差点のホテルの土地は確かGIMA所有だったはずです。
話変わってその土地に関して。

那覇市久米町に門中の祠堂がある土地1800坪を、門中の宗家である儀間家が同家の所有地として登記した。これを不服とする中宗家が訴訟を起こした。那覇地裁・高裁とも“門中は権利能力なき社団”であり、土地の所有権は門中側にあるとして、中宗家の訴えを認めた。
儀間家は納得せず、土地の所有は宗家にあると上告。今年2月、最高裁は「門中には明治時代財産管理に必要な諸機関が置かれ、重要事項は門中の長老が集まって決める慣行があった。祭祀やこれに付随する事業を行っている」などの点を挙げ、二審(高裁)を支持した。
戦後の沖縄世相史 p154、155 (抜粋と編集)


門中の土地は誰のものかという戦後にありがちなもめごとなんですが結局門中のものということになりました。
まとまりがないな...
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国際ショッピングセンターのテナント

ゼンリン地図から国際ショッピングセンター内の店舗名を抜き出してみました(同じ名前が二つあるのは間違いではありません)。
下図はショッピングセンターの一階を簡単に描いたもので、店舗名の順番は上(北)から右手(東)を壁沿いにぐるっと回り入口に戻ったところで中央のエスカレータ(赤)両脇に進むようになっています。各階で微妙に配置が違っていますがだいたいは同じです。

※写真は国土交通省のものです(昭和52年)。
http://nrb-www.mlit.go.jp/cgi-bin/WebGIS2/WC_AirPhoto.cgi?IT=p&DT=n&PFN=COK-77-1&PCN=C58&IDX=7&PNO=1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,11,12,13,14,15,16,17,18,19

国際ショッピングセンターの歴史や写真などは下記アドレスが参考になります。
http://www.zukeran.org/shin/d/2011/11/02/kokusai-shopping-center/

真和志小学校周辺

戦前の寄宮での写真。
道などは写真で自分が確認できたものだけ描いてあります。


戦後すぐの寄宮で扱った「那覇復興地図」を基にした図で、オレンジが荒地、緑が水田、赤が住宅、茶が道で破線になっているところは庭園路です。
寄宮(45年)寄宮(47年)

なにが言いたかったのかというと真和志小学校前から上間に向けてのぼってゆく道は戦前からそのままだということです(参照:戦前の字寄宮の民俗地図)。「那覇復興地図」では描かれていなかった点が気になっていたのですが確認できたので一応記録として。


「戦前の字寄宮民俗地図」に描かれている戦前の道などはこんな感じなんですが、現在と同じ道筋である寄宮中学校前の道は描いてありません。

理由は左図。
このピンク色の区分けは土地の区分だと思うのですが現在もそれに準じた形で住宅は存在しています。この辺り一帯の碁盤目でない住宅地はほとんど「戦前の字寄宮民俗地図」に見える敷地の形そのままです(区画整理がおこなわれていない)。
このピンク色の敷地の形は真ん中を通っている道路を中心として作られたのが想像できます。現在の道はこの敷地をいくつか横切る形でまっすぐ通っているのですが、このような道は境界線上にできる自然発生的な道とは違ってなんらかの意志がないと作られないかと思います。
「戦前の字寄宮民俗地図」でも道の表示は敷地の線の上を重ねるように描いてあり他の道とは違います。右図はその様式で、黒が敷地、上にある茶の横線が敷地の境界線を消さずにそのまま書かれたもの(1)、その下が敷地の境界線を消して書かれたもの(2)、そして上下を結んでいる破線が戦後作られた道路(3)です。
「戦前の字寄宮民俗地図」ではピンク内を通る寄宮中前の道は(1)、ピンク色の中心を通る道は(2)、図には書き入れてませんが真和志小後方から黒丸宗にいたる道は(3)の破線になっています。真和志小後方の道は戦後作られたのがはっきりしていますから「戦前の字寄宮民俗地図」での破線はそういう意図で書かれているんではないかと思います。

他の敷地がわかる地図(例:最新沖縄県番地入り地図/74年)などでも戦後新しく出来た道は敷地の境界線を消さずに(1)の形で書かれていて、寄宮だと真和志小後方と寄宮中前の道がそうなっています。
どういう意図なのかの解釈しかねるんですが、違う形で書かれている以上なんらかの違いがあるはずで、一応自分はこういう解釈をしています。
とはいえ那覇市復興地図(米軍撮影写真をもとにしたもの)には道はあることになってるんですよね...

最後に「戦前の字寄宮民俗地図」での畑(緑)と住宅(ピンク)、農業試験場敷地(グレー)を模写したものをあげときます

関連:グダグダ(β) 戦前の寄宮
関連:グダグダ(β) 戦後すぐの寄宮

琉球風画帖

「琉球風画帖」という絵葉書が作られているようです。
作者さんのサイト。

琉球風画帖ラビリンス 琉球風画帖は水彩画の絵はがきです
http://47678hn.blog.fc2.com/


http://47678hn.blog.fc2.com/page-1.html

手前が前島で道の向こう側が牧志、右手が七つ墓でその前の橋は美栄橋でしょうね。
過去記事からこの様子がうかがえるものを再掲してみます。
関連:グダグダ(β) 島小(前島)
関連:グダグダ(β) 長虹堤周辺の地形

今はこの辺一帯に民家立ち並んでいるが、最近までも左右田圃の相田を4、5尺の高さで走り、浮道の面影をとどめていた。
南島風土記 東恩納寛淳

私が現在の那覇中学校の地点にあった那覇市立商業学校(旧制)へ、首里から約一時間くらいを要して、徒歩で通学していたころは崇元寺橋(安里橋)を渡って、牧志の一角に入ると、そのあたりは瓦屋(カラヤー)らしく、民家の軒下には、板のように薄いウミイサー(珊瑚石)だのムチ(しっくい)に混入する切り刻んだわら等が、こんもりと積み上げてあって、一種独特なその蒸れる匂いが、むんむんと鼻をついてきたものだが、大体この辺からは、昔、浮き道、あるいは長虹堤といって海中道路の形をなしていた。
高さが約2メートルに、道幅がほぼ3メートルぐらいある浮き出た道路の北側は海水にひたされ、干潮時には、それが塩田に早変わりするし、南側は一面陥没した畑になっていて、この辺一帯、昔は海であったという名残りをとどめていた。(中略)
七つ墓のある丘陵の裾あたりに美栄橋が築造されていたが、この美栄橋を渡ると、北側は埋立地の前島町、南側が久茂地町の新村渠(ミーンダカリ)で、この辺には、ウコーヤー(黒く平たい線香作り)だの表具師などが、軒をならべていた。
琉球怪談選集 沖縄文教出版 1973年


戦前には道のそばは完全に陸地化して島小(シマグヮー)と呼ばれ住居がたちならんでいました。
この絵の時期というのはいつ頃になるのでしょうか。

戦前の寄宮

寄宮は戦後「字」に昇格した。戦争前までは与儀の一部で、いわゆる“ヤードゥイ部落”だった。
宮城原と寄増原の両方にヤードゥイがあって、のちに寄宮になった。住人は他所から移ってきた者ばかりで、戸数が53戸、こじんまりした部落だった。何度か与儀から分離、寄宮の「字」昇格を当時の村当局に働きかけたが、とうとう戦争前には字としての独立は認められなかった。当時、各字単位に「農事実行組合」が結成され、キビ、野菜等の共同出荷にあたっていた。この組合は原則として「字の結成するもの」としていたが、寄宮は組合結成が先行、この異例の措置が人々の注目を集めた。
純然たる農村だった。那覇近郊の部落の例にもれず、ここもキビ作が盛んだった。昭和の始め頃には村全域を網羅する「真和志産業組合」が結成され、直営の製糖工場ができた。とはいってもいまのような近代的な施設にはほど遠く、いわゆるサーター屋をわずかに機械化した程度だった。このほかサーター車も2ヶ所あって、昔ながらの風情を保っていた。

ヤードゥイ部落のため、屋敷も1ヶ所に集中せず、適当に散らばっていた。
名所旧跡がほとんどない。わずかに数カ所に「御嶽」があった程度。この中でも、電電公社近くにあった「トングヮ」は、糸満からの参拝者が絶えなかった。その昔同部落内を流れるカーラ(川)の川幅は広く、糸満出身の人が海から川をのぼり同所に移り住んだ。この跡地に出来たのがトングヮの御嶽との伝えがある。

字昇格は戦後、いち早く実現した。発足式を摩文仁で持ったエピソードがある。真和志村民が望郷の念を抱いて摩文仁に集結した頃のこと。戦後の再出発にあたって「字に昇格しよう」との話がトントン拍子にまとまった。地元に帰って、村との交渉の結果、長年の願いであった「字寄宮」が誕生した。他所から移り住んだ人達はこの時はじめて「自分たちの部落」をつくった。
沖縄タイムス連載「思い出のわが町」 昭和52年3月10日 (編集と抜粋)


トングヮはイユサギ毛で取り上げました。図を再掲。
イユサギ毛
薄いピンクなので見えにくいですが居住地域も書いてあります。ここと寄宮十字路から真和志支所にかけての道路沿いと真和志小学校北に散発的に住居があります(参考:戦前の字寄宮民俗地図、真和志民俗地図)。

米軍の空撮写真ではこんな感じ。

大正8年の地図を見ても真和志小学校を中心とした一帯には部落をしめすものがまったくありません(集村形態ではなく散村形態というせいもあるでしょうけども)。同じ地図で銘苅を見ると中心的なところは集落扱いとなっていますが周辺部の家がぽつぽつある一帯は集落扱いとなっていません。

参考:グダグダ(β) 那覇はどう変わったか(63年) 4

アンガー 2

アンガー(壺川)を取り上げたのですが場所はいまいちわからないでいました。
とりあえずここではないかという場所をマッピングします。

一番上は「戦前の壺川民俗地図」によるアンガーで、位置は「那覇市旧跡・歴史的地名地図」を参考にしていますがこの地図にはアンガーの記載はありません。ピンポイントの位置はわからないので図ではピンク色のどこかのつもりです。
少し下がって小学校の側はアンガーガー跡(那覇市旧跡・歴史的地名地図)、アンガーガァ(戦前の楚辺民俗地図)です。
フチサの下、黒潮会館のそばにあるのはアタカーガー(戦前の壺川民俗地図、那覇市歴史地図)。
一番下はミーガー?(那覇市歴史地図)。

アンガーは古波蔵の南のはずれ、俗称阿田川原[アタカーバル]にあります。ウイクー三郎は、その阿田川原のアンガ(淵下)にあるアンガーの泉の水を汲んで「くみたての真水、マーサ水」とふれあるいた
グダグダ(β) アンガー(壺川)


図中の緑の破線は鉄道跡で、ここを境にして図の上側が阿田川原になります。
アンガーは淵下にあったそうですから条件的にはアタカーガーがぴったりなのですが...

参考:グダグダ(β) フチサ(フチシヤ 淵佐)

市街地拡大過程

那覇における居住地の形成過程と市街地類型に掲載されている図を切り出して少し加工しました。切り出しておいてなんですが自分は居住地・住宅地・市街地の区別がついてないんですよね...
※末尾に注意点をまとめてあります。


左が1945年まで、右が1952年までですが1948年までの市街地が描かれています。

左図は52年から72年まで、右図は72年以降。論文は2001年のものですからそのころまでのものでしょう。注意したいのは図中の市街地区域の年代の刻みが1948、57、67、75という刻みになってることです。
大変化はほぼ三番目の図の期間である50年代から復帰までの期間に起こっています。論文中には「1951〜1952年、那覇の旧中心部が解放された。(中略)那覇市は解放された地区に対し1950年に制定した那覇市都市計画条例、市街地建築物制限条例を根拠法令とし美栄橋地区・那覇第一地区の戦災復興土地区画整理事業を実施した。」と説明されています。
ちなみに52年頃までに解放された旧那覇区域はこんな感じ。
那覇返還
参考:グダグダ(β) 旧那覇地区の解放順序

那覇における居住地の形成過程と市街地類型

那覇における居住地の形成過程と市街地類型」という資料をご紹介。「新市街地・計画的街区」「旧市街地・計画的街区」「非計画的街区」の3つのタイプに分類しています。

http://ci.nii.ac.jp/naid/110006601335

「新市街地・計画的街区」は「行政の体制が確立してから市街化が進んだ地区」で、さらに戦災復興区画整理型(1969年の土地区画整理法以前)、区画整理型(1969以降)、移転集落型の3つに分類。移転集落型は「移転集落に対して米軍の援助で行った宅地造成」と説明されています。
旧市街地・計画的街区」は「戦前に形成された街区構成を保っている地区」で、さらに旧市街地型、農村集落型の2つと分類していますが旧市街地型は首里を想定しています。
「非計画的街区」は「戦前の混乱期に形成された地区と市街地の拡大に伴い集落周辺に形成された地区」とされ、さらに集落周辺スプロールと戦後密集市街地の2つに分類しています。

※図はpdf中の図を切り出して加工したもの。

論文は首里や小禄を含んだ那覇市を対象にしているので、「旧市街地型」の首里や「移転集落型」の小禄も入っています(垣花から重民町と銘苅から寄宮の例もありますが小禄に比べれば小さい)。
ざっと整理されるとわかりやすいんですが、時系列を考慮して下水道や道路の新設などの要素を加えて考えるとなかなかめんどくさいのです(笑)。

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