忍者ブログ

グダグダ(β)

メンテナンス中/内容について一切保障できません
3/24アクセス解析再設置/不快に感じられる方はJavaScriptオフを推奨

MENU  ブログ内検索は左のMENUからできます

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

戦前の寄宮

寄宮は戦後「字」に昇格した。戦争前までは与儀の一部で、いわゆる“ヤードゥイ部落”だった。
宮城原と寄増原の両方にヤードゥイがあって、のちに寄宮になった。住人は他所から移ってきた者ばかりで、戸数が53戸、こじんまりした部落だった。何度か与儀から分離、寄宮の「字」昇格を当時の村当局に働きかけたが、とうとう戦争前には字としての独立は認められなかった。当時、各字単位に「農事実行組合」が結成され、キビ、野菜等の共同出荷にあたっていた。この組合は原則として「字の結成するもの」としていたが、寄宮は組合結成が先行、この異例の措置が人々の注目を集めた。
純然たる農村だった。那覇近郊の部落の例にもれず、ここもキビ作が盛んだった。昭和の始め頃には村全域を網羅する「真和志産業組合」が結成され、直営の製糖工場ができた。とはいってもいまのような近代的な施設にはほど遠く、いわゆるサーター屋をわずかに機械化した程度だった。このほかサーター車も2ヶ所あって、昔ながらの風情を保っていた。

ヤードゥイ部落のため、屋敷も1ヶ所に集中せず、適当に散らばっていた。
名所旧跡がほとんどない。わずかに数カ所に「御嶽」があった程度。この中でも、電電公社近くにあった「トングヮ」は、糸満からの参拝者が絶えなかった。その昔同部落内を流れるカーラ(川)の川幅は広く、糸満出身の人が海から川をのぼり同所に移り住んだ。この跡地に出来たのがトングヮの御嶽との伝えがある。

字昇格は戦後、いち早く実現した。発足式を摩文仁で持ったエピソードがある。真和志村民が望郷の念を抱いて摩文仁に集結した頃のこと。戦後の再出発にあたって「字に昇格しよう」との話がトントン拍子にまとまった。地元に帰って、村との交渉の結果、長年の願いであった「字寄宮」が誕生した。他所から移り住んだ人達はこの時はじめて「自分たちの部落」をつくった。
沖縄タイムス連載「思い出のわが町」 昭和52年3月10日 (編集と抜粋)


トングヮはイユサギ毛で取り上げました。図を再掲。
イユサギ毛
薄いピンクなので見えにくいですが居住地域も書いてあります。ここと寄宮十字路から真和志支所にかけての道路沿いと真和志小学校北に散発的に住居があります(参考:戦前の字寄宮民俗地図、真和志民俗地図)。

米軍の空撮写真ではこんな感じ。

大正8年の地図を見ても真和志小学校を中心とした一帯には部落をしめすものがまったくありません(集村形態ではなく散村形態というせいもあるでしょうけども)。同じ地図で銘苅を見ると中心的なところは集落扱いとなっていますが周辺部の家がぽつぽつある一帯は集落扱いとなっていません。

参考:グダグダ(β) 那覇はどう変わったか(63年) 4
PR

Comment

お名前
タイトル
E-MAIL(任意)
URL
コメント
パスワード

× CLOSE

ブログ内検索

アクセス解析

カレンダー

04 2025/05 06
S M T W T F S
1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31

最新コメント

[08/08 なちょうらーざ]
[07/19 shimoji]
[07/19 shimoji]
[03/21 2階の店舗の娘]
[03/05 福島敏彦]

× CLOSE

Copyright © グダグダ(β) : All rights reserved

TemplateDesign by KARMA7

忍者ブログ [PR]