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国際通り裏一帯

Images of Okinawa after World War IIHIGH VIEW OF NAHAという写真。

http://digicoll.manoa.hawaii.edu/okinawa/Pages/viewtext.php?s=browse&tid=184&route=browseby.php&city=Naha&by=city&s=browse#
右は自分が推定したもので、写真は山形屋あたりから沖映通りに向けて撮影されたものではないかと思います。


沖映劇場の外観やマークがわかる写真。
那覇まちのたね通信 | 那覇(ガーブ川)/ガーブ川下流より沖映附近(1950年代)
http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=2031

国際通りのむつみ橋近辺。
那覇まちのたね通信 | 那覇(国際通り)/国際通り むつみ橋付近/国際通り むつみ橋付近、沖映本館の並里商会、南陽相互銀行/1955年
http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=1965
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琉球漆器合資会社販売部

Images of Okinawa after World War IIMAIN STREET IN NAHAと説明される写真。
サイトでは1956年となっています。

http://digicoll.manoa.hawaii.edu/okinawa/Pages/viewtext.php?s=browse&tid=182&route=browseby.php&city=Naha&by=city&s=browse
右側にある看板を切り出して縦横の比率を変更すると「琉球漆器合資会社販売部」と読めます。


琉球人名商社団体要覧(59年)には漆器・陶器の項目に「琉球漆器合資会社」があります。そのほかには「沖縄漆器株式会社(安里)」「角万漆器(新生デパート向かい)」「紅房(若狭)」が漆器関連のようです。

琉球漆器合資会社
代表者 照屋林吉
販売部 那覇市政府前十字路
工場 那覇市楚辺2区5班


「沖縄主要地・主要商工年鑑」の51年版と52年版を参照すると国際通りの端、元リウボウの隣りあたりには紅房があったようです(51年度版が第九図表、52年度版が第一図)。

※ここで気がついたんですが現県庁の位置に民政府が移ってきた時期をすっかり忘れていました。51年度版では西側に向いた矢印で軍民政府と書かれています。
ですのでここを調べないとはっきりしたものにはならないようです(すみません)。

まとめると59年の「琉球人名商社団体要覧」では政府前十字路(おそらく久茂地交差点)に琉球漆器合資会社の販売部があり若狭には紅房、51・52年の「沖縄主要地・主要商工年鑑」には国際通り端あたりに紅房。
この食い違いは漆器関連の年表を調べればわかるのかもしれません。
※沖縄主要地・主要商工年鑑(59年)の紅房は後日確認します。

与儀十字路(60年代)

Images of Okinawa after World War IIにある二つの写真。

http://digicoll.manoa.hawaii.edu/okinawa/Pages/viewtext.php?s=browse&tid=230&route=browseby.php&start=16&city=Naha&by=city&s=browse
http://digicoll.manoa.hawaii.edu/okinawa/Pages/viewtext.php?s=browse&tid=231&route=browseby.php&start=16&city=Naha&by=city&s=browse#

撮影地点を推定してみます。
上左の写真が青矢印(北から南)、上右の写真が赤矢印(南から北)、赤ポインタが角にあった南港食堂、青ポインタが琉球銀行。上左の写真にもわずかに銀行の看板らしきものが見える。

上右の写真から看板を切り出してみます。60年代中期の地図では現在与儀公園となっている箇所に店舗がありました。

地図を参考にするとピンク色が敷地だったと思われます。

地図にある店舗名は以下の通り(与儀十字路から寄宮方向)。
新垣医院(独立した部分)、南港食堂(角)、たたみや、大平鉄工所、ひまわりDPE、南部旅行社、よぎ理容館、ユニオン旅行社、沖縄ツーリスト、新里種苗店、沖縄旅行者[ママ]、金城ツーリスト、国際旅行社、かんばん、みその喫茶、第一旅行社、グリーン喫茶、冨士旅行社、写真屋、中村 新垣助産院、大野医院、つるや旅館

当時は現那覇署の位置に日本政府南方連絡事務所(Wikipedia)や出入国管理部がありましたから旅行社や写真店の需要があったのだと思われます。
余談としては図中の茶色の線は道となっていて、店舗がある部分の北は公園予定地となっています。

中央通り界隈(51年)

沖縄主要地・主要商工年鑑(1951)から第四図表。
図は両方とも右が北になります。


1は開南方向から新栄橋を右に曲がるところまで。
仲井真書店、崎浜商店、球美理容館、赤嶺時計製作所、當間商店、當山商店、開南靴修理所、玉城理髪所、百○堂、美松製菓店(角)、木之屋製菓所、大城製靴所、仲田洗濯店
2は開南方向から新栄橋まで。
西銘商店、玉那覇商店、渡久地商店、高良商店、上原商店、豊里看板屋、長峯商店、崎山茶舗、田畑無線○○、翁長農機具店、金城商店、新田家具店
3の中央通横筋は開南方向から。
中央旅館、西岡工務店、あづま食堂、味の家食堂、友寄製菓所、御宿冨美屋、喜多八飲食店
4は中央通横筋は開南方向から。
沖縄畜産加工株式会社、屋富祖畳工場、喫茶食堂花房
5は中央通から中央横通に曲がるところまで。
嘉手納印刷所、中央洋裁店、前本木工所、高宮商会(角)、平岡兄弟○製○所、金城灸治療院、印刷の美晶堂
6は開南側から。
うきな旅館、那覇工業所、中央劇場、鍼灸○原療院
aは奥間○事務所、bはタカマツ理容館、cは上津事務所、dはベニス洋裁店、eは那覇発動機修理所、fは松月旅館。

沖縄自動車練習所(安謝)

よくわからないとこがあるのですがとりあえずメモ代わりに記録しておきます。

沖縄自動車練習所経営
比嘉勇輝
岡野区5班
大正6年首里当蔵生、昭和11年一中卒。卒業後千葉陸軍自動車学校に入隊、13年除隊。
戦後沖縄警察局交通課、1956年7月1日沖縄自動車練習所開設。
琉球人事興信録(1950)

※このデータは間違っていないと思うのですが引用先の書名が間違っています。

1966年の「現代沖縄人物三千人」では沖縄自動車練習所代表者、1968年の「沖縄人名年鑑」は「沖縄自練 那覇市西新町3の80 比嘉勇輝」となっています。
50年代は安謝の岡野区でしたが新しい埋立地の西新町に移ったようです。

濱田平畩

沖縄県人事録(大正5)から濱田平畩さんです。
画像は「沖縄県立図書館 貴重資料デジタル書庫」にある「沖縄県人事録/楢原翠邦編(大正5)」の画像を加工したもの、文は抜粋です。

濱田平畩
那覇区東町2ノ60
君は明治2年を以て鹿児島県鹿児島郡谷山村松崎に生る。亡清兵衛氏の三男にして明治16年養子となって現浜田家を嗣げり。幼時郷里の松崎小学校に修業せしが13歳の時家事の都合上半途退学し、明治14年1月父と共に来県して商業に従事し、爾来実兄と同居して大に家業を励みしが、同31年1月分家して現住所に店舗を構へて荒物繊維商を開業し、年々隆盛を来すに連れて漸次拡張して傍ら銃器火薬等も販売するに至れり。又業務拡張と主に他の有望なる事業常に銓衡中なりしが、醤油業の有望なるに未だ大規模なる設備なく其多くを輸入に仰げるを見て之れに着目し、遂に命じ42年巨額の資本を投じて久米町に醤油醸造場を設けて其醸造販売に努めしが、年々盛大に赴き今や県下の模範を以て称せられ、本業と共に益々隆盛を極めつつあり。君が巨万の資本を擁するにあらずして今日の成功を得たるは、艱難辛苦の賜にして後進者の以て亀鑑とするに足るべし。性温厚荘重加ふるに博識多才の好人物なり。


明治14年の来県は早い方で、沖縄への寄留先は実兄の山下清左衛門の経営する山下商店だったようです(参照:近代沖縄の寄留商人)。
「戦前の久米・天妃町民俗地図」には大門前通りの那覇郵便局と広島屋の間に「浜田醤油」という名前が見えますが(下図)、住所は大門通りを挟んで郵便局側が天妃で向い側が東町になっているので、「東町2ノ60」の位置は市役所の真向かいくらいではないかと思います。これについては後述します。
※沖縄県人事録にある「東町2ノ60」の位置は東町(昭和4)を参照して下さい


西里喜行さんの「近代沖縄の寄留商人」から引用しますが、それによると「東町2ノ60」は新築・移転した本店、郵便局隣は支店となるようです。
「近代沖縄の寄留商人」には西本町の濱田商店の写真が掲載されていてかなり大きな店舗だった事がわかります。東町大火以前の店舗かとも考えられますが説明はないのでわかりません。

新式醸造法を学んで山夕印の醤油を沖縄全県下にひろめるようになり、大正期に入ると、年間千石の醤油を生産するにいたった。業務の拡張をつづけた浜田は、1913(大正2)年には東町大火の焼け跡(大門前通り郵便局の向い角)に本店を新築・移転し、郵便局の東隣の店を支店とし、さらに久米町の醤油醸造所を経営して生産・販売を兼ねた実業界の大立物としての貫禄をしめした。
近代沖縄の寄留商人 p90


濱田さんは大正17年(13位)、14年(11位)の沖縄県多額納税者、そして第一回那覇市議会議員選挙で当選し再選もしています。

【追記】タイトルで平畩の読みを「へいぴ」にしてありましたが、沖縄県人事録(大正5)では「へいげき?」と読め、大正14年の市会議員候補者告知(沖縄朝日新聞 1925.6.16)では「へいけり」とふりがながつけられています。
下記サイトでは訓のみで「けさ」と読むようです。

参考:畩 - ウィクショナリー日本語版

小沢朝蔵

以前青山書店/小沢書店で少しだけ取り上げた小沢朝蔵さんです。
画像は「沖縄県立図書館 貴重資料デジタル書庫」にある「沖縄県人事録/楢原翠邦編(大正5)」の画像を加工したもの、文は抜粋です。


那覇区会議員
書肆博愛堂主
小沢朝蔵
那覇区松下町1ノ1
君は茨城県行方郡香澄村の人、明治3年を以て生る。亡利兵衛氏の次男にして現に四男三女を挙げ(略)
小学校を卒へて後郷里に於て師に就き漢学を修め、又千葉県英学専攻会に入って3ヶ年を修業せり。其後専ら家業に従事せしが或る事情の為め裕福な一家も破産の厄に遇ひたるが動機となり、茲に発奮して大に期する所あり。即ち明治30年多大の希望を以て沖縄に来り、最初売薬業を営みしに漸次隆盛を来せしかば、更に郷里より梅を仕入れ、又其外驚くべき敏捷を以て巨利を博せり。其後土地整理局時代に時計商に転じ、茲に初めて資金を得て、同36年遂に現書肆を開業し、県下国定教科書特約販売店を為す外、金庫、楽器類及理化学器其他石版印刷の注文に応ずる等愈々拡大隆盛するに至れり、大正3年推されて那覇区会議員となれり。君や来県以来19年、今にして思へば殆ど夢にも似たらん。


沖縄に来てからの変化も面白いです。

玉陵問題 2

玉陵問題の続きです。
新聞記事を引用したのですが経過等がわかる文がありましたので抜き出してみます。

1959年12月、キリスト教団体の沖縄聖公会が玉陵の一部に学生センターを設立すると発表した。当時の琉球新報は(略)意外なほど手放しの歓迎記事を掲載した。
「学生センター生れる/来春霊御殿前に/沖縄聖公会の手で/総工費13万ドルの豪華版
図書館、レクリエーションホール、ロムトリー、礼拝堂等からなり全部鉄筋コンクリート建て。尚家河の要望も入れて外観は琉球格調ゆたかな強いデザインで仕上げ内観は近代的な明るい感覚の設計を取り入れ、裏側になる尚家の霊御殿も十分生かした総合的な立派な設計だ。
琉球新報 1959年12月13日」

新聞報道の時点では学生センターの建築は文化財保護委員会に届けられていなかった。委員たちは報道でこのことを知り非常に驚いたようだ。新聞報道から三日後、玉陵の管理者である護得久朝章は文保委に対し玉陵の敷地の一部を聖公会に売却させてもらいたいという現状変更願を出した。聖公会も同じ日に文保委に対し、学生センター建築許可申請所を提出した。
(中略)
そのあと少し時間をおいた1962年7月に、事態が動き始めた。いつまでたっても作業が進められないことに業を煮やした聖公会が整地作業に入ったのだ。実は那覇市は聖公会に対して1962年3月15日付で建築確認通知を出していた。
郷土の文化を守る会の理事名度山愛壙が、現地視察に着ていた聖公会のハイオ司祭と小競り合いになり周囲の人に引き離されるなど状況が緊迫化した。ハイオ司祭は現場に立ててあった那覇市職労首里市部の旗を持ち帰ろうとしそれを名度山が奪い返そうとした。名度山は司祭の車に挟まれて数メートルひきずられ全治一週間のけがを負った。興奮した司祭は奪った旗を持ってUSCARの公安局に局長を訪ねた。
(略)
ハイオ司祭は那覇署に告訴した。反対派もハイオ司祭が赤旗を無断で持ち去り、さらに名度山を車でひきずり負傷させたことで司祭を告訴した。双方からの告訴により警官隊が出動する騒動となり、両者間の緊張状態は極限に達した。
しかしこの一件が両者が面と向かって話し合う場を作った。現場では那覇署長のとりなしで名度山の父、名度山愛順とハイオ司祭が話し合った。司祭は「琉球政府か尚家がこの土地を買いたいというなら筋が通るので18000ドルで売ってもいい」としたのに対し、名度山愛順は「それならばわれわれがその方向に全力を尽くし返事をしよう」とこたえ、この場は円満に収まった。結局、琉球政府が博物館の建物用地としてこの土地を買い上げたことで問題は決着した。
玉陵問題/源河葉子「戦後をたどる|那覇市歴史博物館編」 p86、87(抜粋と編集)


この本は「那覇市史 通史編」の三巻です。
護得久朝章、名度山愛順、名度山愛壙が登場してますね。護得久朝章は尚家の土地管理をしていたので玉陵の土地売却は尚家の了承があったと思われますが、一部とはいえ先祖の墓所売るか? 一応琉大(現首里城公園)は手狭で不便をかこってましたから教育のために協力して欲しいという要請に応じた可能性もあるかとは思います。
上記引用では省略した箇所が多くてなんか司祭が悪者みたいですが、「反対を押し切ってまで設置する意志はないので他の場所を世話して欲しい」と反対派と対話を求めたりしています。建築許可も出て土地売買も終了しているので聖公会側に手続き上の不備は無いのですが、結局は文化人等の反対派が運動により建築中止の方向に押し切りました。

契約金額は27000ドルで、政府は尚詮氏らから寄付金3000ドル、博物館敷地買い入れ資金6000ドルのほか、工業高校拡張費からもふりわけることになっている。
沖縄タイムス 1962年9月26日


最後は尚家の売った土地を行政があわてて買い戻したという形になり、尚家は差額分の収入があったわけです。

参考:尚詮 とは - コトバンク
参考:グダグダ(β) 玉陵問題

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