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花百合採種圃と指導園

「昭和沖縄園芸発達史」から花百合採種圃と指導園について抜粋します。

三、花百合採種圃ならびに指導園設置
花百合は従来何等の施設なく、ほとんど生産者の栽培に任せたのであったが、昭和13年度に採種圃を設け、優良系統の普及を図り、さらに昭和14年度に指導園を設置し、肥培管理の改善を期し、着々高価を挙げるにいたった。
事業の概要は次の通りである。
---
年次|事業別|予算額(円)|設置個所|面積(反)|生産球数(球)
昭和13年|採種圃助成|500|23|20.0|641000
昭和14年|指導園助成|800|32|20.0|
「昭和沖縄園芸発達史」p22(抜粋と編集)


昭和に入ってから行政が輸出・移出作物へのてこ入れを図り、栽培方法や品種等を指導する一環として作られたものが採種圃と指導園だと思われます。
戦争で海外輸出が中断するまで(?)はかなり伸びています。

参考:グダグダ(β) 昭和初期の繁多川の農業
参考:グダグダ(β) 百合に関する数字  (順調に伸びている)
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山城高興について

1938(昭和13)年3月の「月刊琉球 第2巻第5号」に「人間としての祖父 山城高興を語る/山城 高保」というお孫さんのエッセイがあり、銀行山城の半生が語られています。

祖父の父は薩摩の人で、本名を荒巻高寧、通称山野新兵衛と云ふて琉球と薩摩を往来してゐた。書画に通じて、秀谷と号し、余暇をさいては書画に没頭して居たらしくまだ家にも幾らか残されてゐる。母は査氏国吉の娘で祖父は琉球と薩摩の血を受けた訳である。父が薩摩に帰って行った後間もなく母を失った祖父は頼るべき人とても無く、ただ残された遺産のみを頼りに世の荒波に放り出されてしまった。
月刊琉球 第2巻第5号 (抜粋と編集)


その後は山野の知り合いの船長が困窮を知り、山野の遺産のいくらかを船が入るたびに運んでくれることになったようです。生活が安定した高興は漢学者に就いて学ぶことになりますが、しかし数年の後には遺産も届かなくなります。
その頃第百四十七銀行沖縄支店ができることになった際に初代銀行長(支店長)の田代のもとを山野が訪れて高興の事情を打ち明けて将来を託します。入行することになった高興は沖縄県最初の銀行員となり、順調に出世し、押しも推されもせぬ山城高興(ギンコウヤマグシク)として有名になります。

戦前の長者番付ではだいたい上位にいて、昭和14年からは孫の山城高保になっています。(大正5年の人事録では高元と高義の2人の息子がいることになっているのですが)。

大正4(1915)年/山城高興|499/3位
大正7(1918)年/山城高興|778.84/2位
昭和14(1939)年/山城高保(金貸業)/1位
グダグダ(β) 多額納税者(大正4、7、昭和14)


大正の人事録では多数の家屋と三万坪余の土地を有していることになっていますが、戦後那覇市の土地所有長者番付では山城高常さんが2位です。
推測ですが銀行山城の家業は子息(高常)に引継がれ、沖縄戦前に山城高常さんは疎開して52年当時は在福岡だったと思われます。

在福岡 山城高常 /9699坪40/2位
グダグダ(β) 土地所有長者番付(1952)


そのほか昭和12年の新聞記事にも名前があります。

参考:グダグダ(β) 那覇長者番付(S12) (百万長者級に東町の山城高興氏)
参考:グダグダ(β) 那覇長者番付(S12) 3  (貸金/山城高興)

【追記】山城高興は戦前(昭和13頃?)に没しているようです。

琉球政府告示第76号、105号(1953)

検索していたら面白いものを見つけました。

琉球政府告示第七十六號
一九五二年十二月二十九日付指令第七〇五號で那覇市に許可した牧志街道拡巾工事竣功によりこれに伴う政府道路の路線を左記のとおり變更及び廃止する。
一九五三年六月二十二日
行政主席 比嘉秀平

一 舊牧志街道に替るベき(那覇警察署−南部税務署)間の新設道路を變更道路とする。
二 右道路新設に因る舊道路を廃止する。

http://japan.road.jp/Law/S33_RyukyuK76.htm


こちらは抜粋します。

琉球政府告示第百五號
道路法(一九五二年立法第四十號)第九條の規定に基ずき、政府道を次のとおり定める。
一九五三年九月二十八日
行政主席 比嘉秀平
牧志線|那覇市美栄橋町、真和志村字安里|真和志村字松尾、那覇市、牧志町

http://japan.road.jp/Law/S33_RyukyuK105.htm


前者は造成を行って竣工した那覇警察署〜南部税務署間(現パレット向い角、松尾三叉路角)の区間の認定、後者は政府道の表のうち国際通りだけ抜粋しました。
後者は復帰前に329号や330号等がどう呼ばれていたかがわかります。

国際通り周辺の地形

等高線がある那覇地図(昭和初期?)があったので新県道(現国際通り)がどこを通ったか見てみます。
下左図は昭和初め頃の新県道未開通の地図に推定して書入れたもの、下右図は空襲後の空撮と那覇民俗地図です。国際通りは妙にカーブしていますが、現在の通りは戦後に拡張と直線化をされています。

地図には地名や目印がないのでいまいちわかりづらいのですが、等高線と川の流れを見ることで牧志ウガンがわかり、その前を通っている部分が推定できます。
わかりづらいのは造成工事が行われた県庁から国映館付近なのですが、久茂地小から続く道と那覇高校から尾根を伝って通っている松尾大通りを描いて空撮と比較することで推定しました。松尾の現ブンリンドウ付近はおそらく切り通し工事が行われています。
その他浮島通りは低地、国映館付近から山形屋への丘は連続していることで推定しました。

山形屋からむつみ橋までの区間は造成工事が行われていて写真も残っています。リウボウから松尾三叉路までの区間は造成工事が行われて地形が変化しているはずなのですが、その変化がわかる写真は探せていません。

球陽堂

球陽堂を「沖縄・国際通り物語—「奇跡」と呼ばれた一マイル/大浜 聡」(以下国際通り物語)を参考にしてまとめてみます。
国際ショッピングセンター建設以前の球陽堂はこんな感じで、それ以前は松尾の現山城時計店向いにあったようです。

創業者の山田親度さんは1901(明治34)年に松下町で生まれ、師範学校を出て長らく北部で教職に就き、戦時中は喜如嘉国民学校校長です。
本好きの山田はたくさんの本を買っては大切に保存していた。北部で教職についていたおかげで山田は生き長らえた。しかも、戦後、山田が書店を経営する元になった多くの蔵書は、国民学校の校長舎宅に一冊も失われずに残っていたのである。
国際通り物語 p78(抜粋と編集)

この本がのちの元手になります。
終戦後はCP(シビリアンポリス)になるが、元教職ということで1946年に田井等高等学校辺土名分校(英語教師)、翌年奥間初等学校校長に就任しますが1948(昭和23)年4月退職し那覇へ移動。
那覇では宮里辰雄(琉貿社長)と友人関係にあった山田親徳(叔父)に頼み込んで7月に設立されたばかりの琉球貿易株式会社に就職。しかし半年程で退職し貸本屋を始めます。
自分の蔵書が有効に活用できる。一石二鳥だ、と山田は思った。本棚には戦災をまぬがれた『日本文学全集』など、60冊の本がいっぱい飾られた。貸本料金は1冊2銭にした。こうして貸本屋「山田書店」が誕生したのである。
p81
---
琉貿を辞めて半年後。1949(昭和23)年7月7日、松尾でトタン屋根5坪(店の部分はわずか1.5坪)の小屋を建てて、貸本屋を始めた。大黒屋(現在の山城時計店付近)の斜め向い側、松尾街道(国際通り)から少し現在の八汐荘側に入った辺りである。松尾街道に面した所は低い土手があったため、家は建てられなかった。
p80
国際通り物語 (抜粋と編集)

松尾が商売的にはいまいちのため移転を考えていた頃、宮里が訪れ本屋(貸本屋?)をやりたいと言われます。山田も移転を機に貸本屋から書店へ切り替えたいと思っていたようですが、山田は宮里来訪の際には琉貿社長が貸本屋に加わることに否定的で、その時にはいずれ本屋をやる時に加勢してくれということで話は終わったようです。
そして移転地を探す山田は大城鎌吉の土地が売りに出されているのを知り、宮里と叔父に書店の共同経営も持ちかけ同意を得ますが、土地販売がまとまらず没。別候補の牧志郵便局付近の売地はすぐ近くに書店(幸地書店)があったため没。
山田書店の客だった久高将信(久高木材店縁者)に良い土地がないか聞いてみたところ、久高木材店向いが売りに出ていることを知り3人は購入を決定。この土地が冒頭写真の位置で、後の国際ショッピングセンターとなります。
1949(昭和24)年12月に4坪の店舗としてスタート、「球陽堂」という名称は宮里の案。
しかし半年程後にゴタゴタがあり3人体制を解消し1人でやることになる。経営は順調で、その後8坪、11坪と店舗を拡大し、1972(昭和47)年の国際ショッピングセンター建設の時には一階72坪(売り場面積60坪)、2階専門書コーナーは(40坪)の広さになる。
山田親度さんは1985(昭和60)年に85歳で没します。

没後は長男(親夫/琉大教授)が大学を辞めて後継。
国際ショッピングセンター建て替え計画(後に頓挫する)があったため1990年12月に沖映通りに本店(6階建て)をオープン。1996年国際ショッピングセンター店を拡張し、沖映通りの本店を閉じて統合。

ここまでが1998年1月発行の「沖縄・国際通り物語—「奇跡」と呼ばれた一マイル/大浜 聡」の内容をまとめたものになります。この後の話になるのかもしれませんが牧志市外バス停付近にあった2階建ての店舗も自分は覚えています。
国際ショッピングセンター閉店と新都心での開店の時系列などはよくわかりませんが、このブログはだいたい復帰あたりまでをターゲットにしてるのでこれくらいで終わっておきます。
最近球陽堂買収のニュースがありました(2012.08.18)。

全国で書店運営を手掛けるくまざわ(東京都、熊沢真社長)が、球陽堂書房(那覇市、山田親夫社長)を買収し、営業を引き継ぐことが17日、分かった。くまざわは新会社の球陽堂(那覇市)を3日に設立。今後、同社が球陽堂書房を吸収し、資産、約32人の従業員と業務を引き継ぐ。県内にある2店舗、書店名も継続。9月16日から新会社が営業する。
http://article.okinawatimes.co.jp/article/2012-08-18_37895


個人的にも球陽堂にはお世話になりました。
改めて感謝申し上げると共に歴史も記憶しておきたいと思います。

真和志のセーキムチ

「沖縄現代史への証言」の「明治、大正、昭和の社会相/宮里栄輝」から仕明地関係の発言を抜粋します。

その小作料のとり入れの時には、今でいえば役所みたような感じがしたですね。ちゃんとした書記みたようなのがおって、100人以上も来たんではないですかね。
ええ、小作人が。それが遠く豊見城あたりの人もおったですね。(略)小作させている土地は、たいがい開拓して造成した土地だったようです。開拓といっても、おもに河川 - 川べりを開拓しておりますね。川べりは不毛の土地が多かったんでしょう。それを開拓して、耕地をつくったんでしょう。(略)その辺[神原中学入口付近]から上流与儀公園や琉大病院付近にかけて、本家の開拓地があったように覚えていますね。
---
[本家が豊見城にも持っていた土地も]みな仕明地ですね。
---
私のおじいさんの兄さんという人が一番働き手だったらしいが、この人の時にはすでに財産は相当できておったそうですからね。だから、その人より先代か、そのもっと先の時代ではないですかね。
---
大地主というのは真和志ではね、うちの本家と仲井真にシェーキムチ(仕明地持ち)がおったようです。それから真和志の北部では松川の富山嘉本の本家 - それくらいのもんですね。いま覚えているのは。
仲井真の方なんかも相当に土地を持っておったそうです。そこもやっぱり国場川の近くですから、国場川の周辺を開拓したんだろうと思うし、富山もやはり松川部落近くの安里川を開拓したものとおもわれますね。
川のほとりを田んぼにするのが、割にやりやすかったんではないかと思うんですがね、開拓は。そういうところにたいがい金持ちが発生していますね、シェーキムチがね。
例えば、中部でも海岸べりですね。あの大城昌夫君なんかは非常に沢山土地を持っていますがね。熱田ウェーキーといって…。そういう人たちがみんな中部の海岸べりの開拓をしていますね。西原とか中城 - あの辺は一番その開拓に都合がよかったはずですよ。与那原から中部に行く県道ですね。その県道から東よりは、ほとんどみな開拓した土地らしいですね。


宮里家所有の土地の規模について。

1町歩が3000坪ですから、せいぜい10町歩ぐらいだろうと思いますがね。
だから3000坪ですね、それが中部の具志川あたりでは、もっと多いようですが、真和志辺では10町歩は最高ではなかったんではないですかね。


このインタビューを参考にすれば与儀周辺の宮里家のほかには、国場、仲井真、松川あたりに仕明地持ち(シェーキムチ/セーキムチ)と呼ばれる地主がいたことになります。また開墾が容易だった川沿いに仕明地があるという指摘も気になります。
あとは屋取と仕明地の関係とかも知りたいとこですが...

西新町の移り変わり

西新町の変化を地図から見ます。

左上は明治44年の文書からで、右上もおそらく明治。右下は那覇区全図(大4)、左下は昭和初期
左上はアジア歴史資料センターのもの。
海岸海面及河川1(3)
【 階層 】防衛省防衛研究所>海軍省公文備考類>⑩公文備考等>公文備考>明治>明治44年>「公文備考 土木12 巻112」
【 レファレンスコード 】C07090245300【 画像数 】52


西新町1丁目から2丁目の三重城までの埋め立て前の様子は唐船小堀(明治初期)を参照して下さい。

園芸関係のメモ 2

「昭和沖縄園芸発達史」の巻末資料からの引用を続けます。

園芸作物の栽培技術の普及を図る為県農事試験場の園芸指導園と連絡し左記組合に指導圃を設置し移出園芸作物の生産改良発達に資せんとす
県指導圃設置計画左の如し
---
真和志|国場|蕃茄10反、里芋1.5反|総計25
「昭和沖縄園芸発達史」資料1(p222、223)  (抜粋と編集)


昭和7年の実施計画の真和志は「蕃茄2、茄子1、胡瓜1、冬瓜0、南瓜1、西瓜0、越瓜0、里芋1、甘藷0、菜豆1、木瓜0」。(参照:昭和7年度県立農事試験場園芸指導園配置計画表 p223、224)

割と先進的な規約。

第二条
移出農産物の生産並に販売の改善統一を図るを目的とす
第四条
第二条の目的を達せんが為本組合に於て施行すべき事業左の如し
共同採種圃の設置、共同育苗圃の設置、栽培試験地の設置、生産品の検査施行、生産品の共同選別荷造、出荷に要する諸材料の共同購入、視察員の派遣、講習講話会の開催、展覧会品評会開催、資金の造成融通、優良生産者の表彰、其他総合に於て決議せる事項
「昭和沖縄園芸発達史」資料1(p238)  (抜粋と編集)


資料1は昭和7年、資料2は昭和9年3月。
資料2の「出荷機関統制系統図」を参考にすると<部落生産出荷組合 - 市町村出荷組合 - 共同集荷場>の順で出荷され、この後は本土の販売斡旋所から中央卸市場、そこから問屋・仲買となったようです。
資料2の出荷組合設立成績(昭和9.2現在/p247)を見ると、昭和6年に18、昭和7年に77、昭和8年に120の「部落生産出荷組合」が設立されています。
「都市別組合調」(p248)では組合数合計221組合(5326人)、そのうち島尻郡で109組合(2525人)、那覇で3組合(33人)、首里で12組合(198人)です。
「市町村別組合調 2市10町村」((p248、249)では、真和志村は13組合262人です。

「昭和8年度園芸指導圃設置表」(p273)では真和志は「蕃茄12反、茄子3反、菜豆7反、甘藍3反、大根5反」。
「園芸指導園配置表」(p274)では「蕃茄1、胡瓜1、南瓜2、里芋1、菜豆1、甘藍1」の7ヶ所あったようです。

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