「沖縄現代史への証言」の「明治、大正、昭和の社会相/宮里栄輝」から仕明地関係の発言を抜粋します。
その小作料のとり入れの時には、今でいえば役所みたような感じがしたですね。ちゃんとした書記みたようなのがおって、100人以上も来たんではないですかね。
ええ、小作人が。それが遠く豊見城あたりの人もおったですね。(略)小作させている土地は、たいがい開拓して造成した土地だったようです。開拓といっても、おもに河川 - 川べりを開拓しておりますね。川べりは不毛の土地が多かったんでしょう。それを開拓して、耕地をつくったんでしょう。(略)その辺[神原中学入口付近]から上流与儀公園や琉大病院付近にかけて、本家の開拓地があったように覚えていますね。
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[本家が豊見城にも持っていた土地も]みな仕明地ですね。
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私のおじいさんの兄さんという人が一番働き手だったらしいが、この人の時にはすでに財産は相当できておったそうですからね。だから、その人より先代か、そのもっと先の時代ではないですかね。
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大地主というのは真和志ではね、うちの本家と仲井真にシェーキムチ(仕明地持ち)がおったようです。それから真和志の北部では松川の富山嘉本の本家 - それくらいのもんですね。いま覚えているのは。
仲井真の方なんかも相当に土地を持っておったそうです。そこもやっぱり国場川の近くですから、国場川の周辺を開拓したんだろうと思うし、富山もやはり松川部落近くの安里川を開拓したものとおもわれますね。
川のほとりを田んぼにするのが、割にやりやすかったんではないかと思うんですがね、開拓は。そういうところにたいがい金持ちが発生していますね、シェーキムチがね。
例えば、中部でも海岸べりですね。あの大城昌夫君なんかは非常に沢山土地を持っていますがね。熱田ウェーキーといって…。そういう人たちがみんな中部の海岸べりの開拓をしていますね。西原とか中城 - あの辺は一番その開拓に都合がよかったはずですよ。与那原から中部に行く県道ですね。その県道から東よりは、ほとんどみな開拓した土地らしいですね。宮里家所有の土地の規模について。
1町歩が3000坪ですから、せいぜい10町歩ぐらいだろうと思いますがね。
だから3000坪ですね、それが中部の具志川あたりでは、もっと多いようですが、真和志辺では10町歩は最高ではなかったんではないですかね。このインタビューを参考にすれば与儀周辺の宮里家のほかには、国場、仲井真、松川あたりに仕明地持ち(シェーキムチ/セーキムチ)と呼ばれる地主がいたことになります。また開墾が容易だった川沿いに仕明地があるという指摘も気になります。
あとは屋取と仕明地の関係とかも知りたいとこですが...
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