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千歳橋通り/浮島通り(50年代初期)

千歳橋通り(50年代)の続きで、千歳橋通りの栄橋通りとの交差点から浮島通りまでと浮島通りの区間です。参考にしているのは沖縄主要地・主要商工年鑑(1951、52)で、第十二図表は左図で番号のついている区間になります。
千歳・浮島の境は開南から下りてくる中央通りとの交差点です。


51年版(第十二図表)。国際通り方向に向けて。
1新興ラジオ店、美光社看板店。間が空いてだるま屋旅館、ハヘハラ木工所、フジモトガラス店、當山菓子店、間が空いて看板の美術社、球文堂、那覇印刷所、うるま機械製作所、舞鶴、ミゼットラジオ店、料亭清風荘、間が空いて理容館ナイル、つたのや旅館、旅館球陽館、料亭きたらく、沖縄無尽、那覇鋳物株式会社(大きく表示)、松尾派出所(角)
2琉月、鶴屋旅館、えびす屋旅館、金子洋裁店、仲吉商店、間が空いて武洋服店、比嘉菓子店、●工業所(●は○に昌/家具製作所)、協和旅館、●宮城茶舗(●は○に奥)、那覇発動機(角)。中央通りをこえてみつや書店、沖縄海産物那覇出張所(道奥)、道をこえてダンスホールうきしま、うきしまホテル(大きく表示)、沖縄出版社、お菓子ぜいたくや、照屋商店、ベニスパーマネント

52年版。
中央通りから向こう側の浮島通りは以前浮島通り(50年代) 2(第五図)で取り上げてあります。
上で取り上げた範囲での千歳通りは第二十五図(52年版)となっています。千歳通りと栄橋通りの交差点から浮島通りまでの店舗名は以下。
関連:グダグダ(β) 千歳橋通り(50年代初期) 3

1慶田商店(角)、かねこ洋裁店、道奥にエビスヤホテル、鶴屋旅館、表通りに戻って武洋服店
2ロヒー洋裁店、シスター洋裁店、ガナハ薬局、光南商事(諸雑貨貿易商)、三幸通商株式会社、ハヘハラ家具店、藤本ガラス店

参考のために51年版の図に追記したものを追加しました。
ここから先の浮島通りの店舗名は下記を参照して下さい。

関連:グダグダ(β) 浮島通り(50年代) 2
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千歳橋通り(50年代初期)

沖縄主要地・主要商工年鑑(1951)の第十一図表と第十二図表から(左図)。
第十一図表は番号のついている区間です(すこしややこしいですが水上店舗から南島製菓あたりまでということです)。

現在浮島通りは丸国マーケットから国際通りの間を指していることが多いようですが50年代(そして少なくともかなり後まで)は右図の範囲が区別されていたようです。右図で千歳橋通りとガーブ川が交差するところにある橋が千歳橋、川を国際通りに向って下っていった先にあるのが栄橋です。
川沿いの道が市場中通り、栄橋から千歳橋通りにゆく道が栄橋通りです。今回は千歳橋から栄橋通りの区間、左図で12の番号がつけられている区間の店舗名を取り上げます。

まず51年版。1は千歳橋側から。
丸玉製パン所(角)、少し離れてでいご美容院、みなみ写真館、アイデア写真館、かみや商店、また離れて那覇製材所、糸嶺商店、離れて新垣タタミ工場、山城写真館、離れて南島食品加工所 菓子(少し大きく表示してあります)、正確堂(角)
続いて2も千歳橋側から。
古浜タタミヤ(角)、離れて新城商店、食肉組合、大洋製材所。離れて那覇理容館、大黒屋分店、我那覇ミシン店、金城商店、岩姫、ともづれ、のこ目立、博賀文庫、富村金物店、當間製靴店

52年版(参照:第二十一図、第二十五図)。
1丸玉製パン所(角)、那覇ラジオ電機商会、でいご美容院、みなみ写真館、アイデア写真館、神谷薬局、道があって糸嶺商店、アサヒアイスケーキ、スタイル生地店、我那覇運動具専門店、新垣タタミ店ナハ支店、山城写真館、大城商店(はきもの専門)、南島製菓所、我喜屋支店
2古浜タタミ、知花洋服店、米琉商事株式会社、那覇食肉組合、大洋製材所、、宮古堀川商店連絡所、ナハ理容館、大黒屋分店、我那覇ミシン専門店、玉井商会、浦波商店(食料品諸雑貨)、吉井商店(洋品、雑貨、生地卸)、宮里刃物店、博○文庫、各種金物店、當間製靴店(角)

真和志郵便局周辺(51年)

沖縄主要地・主要商工年鑑(1951)の第十九図表から。

図は左が北で一番下が330号、右下の交差点が大浜第二病院があったところです。左にある道の特定はできていません(日野通りか共和通りのはず)。

1は図の下から共同バス修理工場(角)、新垣材木店、大秀組。そして花城書店、沖縄土建、鳴海食堂、真和志郵便局(角)
2阿嘉鉄工所、第一複製興行社、脇道に入って●セメント瓦工場(●は○に伸)、濱川組。表通りに戻って松田兄弟社(角)、八幡鉄工所、具志堅醸造所
3は真和志郵便局方向から竹中組、八重山工業協会沖縄出張所、新里鉄工所、料亭田鶴
4は330号方向からあづま材木店、田嘉里組。脇道に入って御宿冨士。表通りに戻って●金城組出張所(●は○に金)
5は図の右から伊波木工所、あがた洋装店、お宿藤屋、料亭幸楽、少し離れて三島鉄工所です。
aが宵待旅館、bが●食堂(○に和)照屋セメント瓦製作所、cが奄美会館です。

60年代の地図では2の松田兄弟社と思わしき場所は松田木工、その向いは沖縄出版があります。またこの通りは真和志郵便局通りとなっています。

【追記】1958年の市民の友(第85号)に「那覇真和志の道路改修」の記事があり「6. 3区の金宮組(旧奄美会館)前」と書かれています。戦後の那覇の区では3区はほぼ壺屋ですので奄美会館は58年にはもう無かったと推測できます。

開南中学校(樋川)

戦前にあった開南中学校(図中のB)。位置は「那覇市旧跡・歴史的地名地図」で確認できます。
仏壇通り

Wikipediaの開南小学校の項では「同校の敷地には、戦前開南中学校(旧制)が置かれていた」ことになってるんですが、それは泉崎の現在地ではないです。

昭和22年3月31日/沖縄民政府より開南初等学校設置認可される
昭和22年6月6日/壷屋初等学校より当区域の児童,男396人,女382人,計778人を引き取り,元開南中学校跡に校地を設定し,開南初等学校として開校(8年制)職員18人,学級16。
昭和27年3月22日/上泉町の現在の敷地に移転(コンセット14教室を移設)
昭和27年4月1日/学制改革により開南小学校と校名改称
開南小学校ホームページ

http://www.nahaken-okn.ed.jp/kaina-es/ennkaku.html


文部大臣から認可された県下唯一の旧制私立中学校。1936年4月、真和志村与儀樋川原(現那覇市樋川)に開校、第2次大戦で消滅。創設者は志喜屋孝信、中谷善英。県立中学校が4校しかないなか、教育振興に貢献した。
開南中学校 (かいなんちゅうがっこう) - 琉球新報 - 沖縄の新聞、地域のニュース

http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-40874-storytopic-121.html

蔡温橋通り(52年/69年)

沖縄主要地主要商工年鑑の52年版から下図の範囲を取り上げます。

前に2の範囲にあった大川家具を取り上げました。創業時は現ホテルロイヤルオリオン向い、後年蔡温橋そばの「おきぼう」があった場所へ移転しています(上図での強調箇所)。

画像は動画からのスクリーンショットで、中央の大きな建物が大川家具です。
2の範囲は再開発によって大きく変化しました。

左は上がGoogleMapの地図で下が同じアングルの航空写真。右は大川家具で使用した図で赤が創業当初、紫が後年の位置(69年にはおきぼう)です。
航空写真でもわかりますが川の流れを変えました。右図は少し前の地図からのものなので川は国際通りと平行するように大きくうねっています。

沖縄主要地主要商工年鑑(52年版)の第九図と第十図から店舗名(蔡温橋側から)。

1糸満屋大城商店(角)、貿易商上里商店、翁長商店、たまき商店卸部、那覇土建、看板活陽社、蔡温理容館、琉球火災、琉球電気産業株式会社、丸共商会(食料雑貨)
2玉栄商店、沖縄貿易会社、旭ガラス商会、玉城食料品店。道奥(?)に●自動車修理工場(●は
金城商店、津波古商店(台湾銘茶その他 台湾産物)、日進運輸ナハ営業所。 道奥(?)にサービスステーション
桃原農園営業所、知花歯科院、福島商店(銘茶 銘酒 雑貨)、宮城文興商店、栄行商会、大黒屋直営業所、丸政商事株式会社(三ツ○運動靴)、パリス美容所、新里商店、湧川商会、琉球火災保険会社(角)

ゼンリン地図69年版から。
1丸吉商会、おおみね名刺店、手芸材料オナガ、おなが技術学院、タマキ商事、美荘看板店、狩俣サンゴ店、三栄商社、光生商会、サロンコンパル、第一商事、琉石プロパン、テーラー照屋
2平良商店(角)、玉○食堂、おきぼう、沖縄漬物。(道)。石福商事、津波古茶舗、旭履物店、サイオン売店。(道)。桃原農園(角)、津堅商店、ラセーヌ、琉○家具センター、三光電機商会、二見理容館、あじさいベーカリー、丸金薬局、昭和観光安里支店、大川家具店、又吉商店、琉球火災(角)

福山商事

国際通りに本社のあった福山商事。

昭和26(1951)年11月/沖縄県那覇市牧志町2丁目282番地の1に福山商事(株)を設立。新聞巻取紙、和洋紙、水道資材、電気通信資材等を販売
昭和32(1957)年 3月/業務拡張のため、那覇市安里443番地の2に倉庫を建築し紙業部を移転
昭和35(1960)年11月/那覇市牧志町1丁目344番地の4に新社屋を建築、旧社屋より移転

http://www.fukuyamacorp.co.jp/history2.html


ゼンリン地図69年版での福山商事の位置は上図。
下図は牧志大通り(50年代) 2で取り上げた「沖縄主要地・主要商工年鑑(1951)」を参考にしたもので福山商事の位置は赤ポインタ、青ポインタはゼンリン地図69年版での福山商事紙業部倉庫。


以下の創立の経緯等は「沖縄創業20社秘話/島尻雅彦」の186〜196ページを参考にまとめました。

福山朝弘(長男)は大連の進和鉄工で終戦。父親の福山朝規も同地で終戦を迎え両者は東京に引き揚げる。
福山朝計(次男/初代社長)は満鉄の経理部に勤めていたが、昭和17年[ママ]に沖縄戦に参加し生き残る。
朝計は基地内の米軍補給舞台に勤務していたが(資)丸久貿易を立ち上げる。丸久貿易は軍払い下げ物資の販売を主業務とし、昭和26年にはLCブームに乗りビール、サイダー、食用油などを本土から輸入する。
宮崎に復員し農業に従事していた朝一(三男)のところへ朝規と朝弘も移り住むが、沖縄で朝計健在との情報を得て昭和26年に沖縄へ引き揚げる。
親族会議を経て丸久貿易を引き継ぐ形で福山商事株式会社を設立、社長に朝計、専務に朝規、監査役に朝弘でスタートする。
当初は紙と文具を扱う。米軍払下の紙を扱うところから本土の製紙メーカーの輸入に移行、新聞社に巻き取り紙を納入するようになる。その後電気・水道資材や基地関係の電気工事関連業務なども手がける。
昭和33年には日本電気と新日本電気と提携し家庭用電化製品の販売(その頃の本社ビル一階は家電ショールーム)。
沖縄創業20社秘話(抜粋と要約)


本社ビルの一部はホテルに貸していたようなんですがゴタゴタもあったみたいです。

続いて、国際通り本社ビルテナントの家賃不払い問題がおきた。地階と3階、4階を借りてナイトクラブとホテルを経営していた業者が家賃をためたままになっていた。訴訟にまでもちこんだが、家賃3年分などの損害を被った。こうした中、苦難の昭和40年が暮れようとしていた。
沖縄創業20社秘話 p192(抜粋と編集)


これが福山商事ビル近辺で取り上げたホテル名の変遷の理由となるんでしょうか。

大川家具

安里にあった大川家具。

1961年 5月 (昭和36年)
那覇市安里にて個人経営の家具販売業を開設/店名「大川家具」
創業者 外間完和

http://o-kawa.jp/history/


創業にまつわる話が面白かったので抜出してみます。

1961(昭和36)年、沖縄物産展が那覇市久米町で開かれた。その時沖縄の人たちの目をひいたのは地元産の商品をはるかに凌駕する本土産の高級家具の数々だった。それらは家具の名産地福岡県大川の工業会が持ち込んだ大量の家具だった。しかし、当時の沖縄の所得からするとすべての家具を売り切ることはむずかしく、売れ残りがでてしまった。
沖縄の産業物産展に福岡県大川の家具を販売する企画をもちこんだのが、大川家具創業者の外間完和である。そして、売れ残りに責任を感じ、それを引取県内で販売を始めたのが外間が家具販売業をはじめる端緒となる。
創業者43歳の頃で、場所は今のホテルロイヤルオリオンの向いである。
沖縄20社創業秘話 p33、34(抜粋と編集)


69年のゼンリン地図では青ポインタが現ロイヤルオリオン、赤の位置が「大川家具店」、紫の位置は「おきぼう」となっています。

本土復帰の前年1971(昭和46)年に現在の土地建物をオキボウより購入。
沖縄20社創業秘話 p33、34(抜粋と編集)


以下余談。2008年頃(?)の一帯の風景。画像は動画からスクリーンショットで作成。

まもなく消えゆく国際通りの街並み~牧志・安里再開発事業~ - YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=3eBgozqt3r4


創業者の外間完和さんはキャラウェイ旋風当時の琉球政府金融検査部長であったようです。

キャラウエイ旋風/命令なかった - 琉球新報 - 沖縄の新聞、地域のニュース
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-113434-storytopic-86.html

参考:ポール・W・キャラウェイ - Wikipedia (在任:1961年2月16日 - 1964年7月31日)
参考:キャラウェイ旋風 - Wikipedia

中央通り(52年)

前に中央通り界隈(51年)で沖縄主要地・主要商工年鑑(1951)の第四図表を取り上げました。
今回は52年版の第二十六図を取り上げます。

左は図を模写したもので、右は左図にある道です。
店舗名は以下。
1は角に二軒、中央食堂、開南食堂。下に降りていって那覇工業所、食堂長富、中央常設館(曲がり角)、ちどり食堂
2は開南方向からちとせ食堂、玉屋高等洋服、奥間土建測量事務所(角)
3仲地紀彦医院、中央電気社、道の奥に宮城医院
4は新栄通り入口側に二葉商店(食料雑貨)、天通易断鑑定所、オモロ写真館。脇道の曲がり角にはとうましちや
5は離れたところに仲嶺しちや、大通り沿いに精美印刷社、中央洋裁店、丸宮商会(角)、金城歯科医院
6は図の右手奥から丸一食堂、日乃出洋裁店、うきな旅館、亀川商会、ベニス洋裁店、那覇発動機製作所(角)

中央通り近くには質屋が二軒見えます(とうましちや、仲嶺しちや)。後年中央通りは質屋が集中するんですがこの頃からの流れがあったのかもしれません。

中央通り界隈(51年)の図を再掲。52年と比較できそうなのは5と6か。

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