国際通りに本社のあった福山商事。
昭和26(1951)年11月/沖縄県那覇市牧志町2丁目282番地の1に福山商事(株)を設立。新聞巻取紙、和洋紙、水道資材、電気通信資材等を販売
昭和32(1957)年 3月/業務拡張のため、那覇市安里443番地の2に倉庫を建築し紙業部を移転
昭和35(1960)年11月/那覇市牧志町1丁目344番地の4に新社屋を建築、旧社屋より移転
http://www.fukuyamacorp.co.jp/history2.html
ゼンリン地図69年版での福山商事の位置は上図。
下図は
牧志大通り(50年代) 2で取り上げた「沖縄主要地・主要商工年鑑(1951)」を参考にしたもので福山商事の位置は赤ポインタ、青ポインタはゼンリン地図69年版での福山商事紙業部倉庫。

以下の創立の経緯等は「沖縄創業20社秘話/島尻雅彦」の186〜196ページを参考にまとめました。
福山朝弘(長男)は大連の進和鉄工で終戦。父親の福山朝規も同地で終戦を迎え両者は東京に引き揚げる。
福山朝計(次男/初代社長)は満鉄の経理部に勤めていたが、昭和17年[ママ]に沖縄戦に参加し生き残る。
朝計は基地内の米軍補給舞台に勤務していたが(資)丸久貿易を立ち上げる。丸久貿易は軍払い下げ物資の販売を主業務とし、昭和26年にはLCブームに乗りビール、サイダー、食用油などを本土から輸入する。
宮崎に復員し農業に従事していた朝一(三男)のところへ朝規と朝弘も移り住むが、沖縄で朝計健在との情報を得て昭和26年に沖縄へ引き揚げる。
親族会議を経て丸久貿易を引き継ぐ形で福山商事株式会社を設立、社長に朝計、専務に朝規、監査役に朝弘でスタートする。
当初は紙と文具を扱う。米軍払下の紙を扱うところから本土の製紙メーカーの輸入に移行、新聞社に巻き取り紙を納入するようになる。その後電気・水道資材や基地関係の電気工事関連業務なども手がける。
昭和33年には日本電気と新日本電気と提携し家庭用電化製品の販売(その頃の本社ビル一階は家電ショールーム)。
沖縄創業20社秘話(抜粋と要約)本社ビルの一部はホテルに貸していたようなんですがゴタゴタもあったみたいです。
続いて、国際通り本社ビルテナントの家賃不払い問題がおきた。地階と3階、4階を借りてナイトクラブとホテルを経営していた業者が家賃をためたままになっていた。訴訟にまでもちこんだが、家賃3年分などの損害を被った。こうした中、苦難の昭和40年が暮れようとしていた。
沖縄創業20社秘話 p192(抜粋と編集)これが
福山商事ビル近辺で取り上げたホテル名の変遷の理由となるんでしょうか。
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