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大正4年と明治25年の高齢者数

福岡日日新聞 1917.12.11(大正6)
百歳の長寿者が全国に六百/一番多いのが静岡鹿児島両県/八十歳以上合計三十六万八千
此表に依って見れば百歳以上の高齢者は静岡県の三十二名が最も多く鹿児島県の三十一名が之に次いで居る而うして最も少い沖縄県の一名と山県県の二名とで全然百歳上の高齢者を出さなかった処は秋田県と樺太とである

http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?LANG=JA&METAID=10067174&POS=1&TYPE=IMAGE_FILE


図表(大正4年11月10日現在)をもとに書かれた記事で、図表では80歳以上が2255人、90歳以上が132人、100歳以上が1人となっています。
沖縄の長寿イメージがどこからきたのかは検討される必要があるでしょう。
見やすいようになっている某家の家譜をパラパラめくってみたことがありますが若死の多さと長寿者の少なさに驚いた事があります(時代も生活も全然違いますが)。

沖縄縣内務部第一課による明治25年の「沖縄県治一覧」(発行は同27年、データは同25年)。
画像は沖縄県立図書館貴重資料デジタル書庫からで、切り出して画像加工してあります。

http://archive.library.pref.okinawa.jp/?type=book&articleId=61139#

本籍人年齢別で5年区切りでカウントされ、総人口は男206954人、女211206人、合計418160人。
100歳以上は男女共に0。
95歳以上は男0、女3。
90歳以上は男15人、女66人。
65歳以上は男3068人、女4553人。
ここでも長寿だという印象は受けませんが、最初に引用した大正4年はこの時期に比べると90歳以上の人間が増えています。
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久茂地川の橋脚

沖縄タイムス | 終戦前後の写真140枚収集
http://article.okinawatimes.co.jp/article/2012-07-13_36243


たぶん1枚目の写真は那覇尋常小学校(現上ノ山中学校)ではないかと。
2枚目は東町からバスターミナルを望んだところ。橋脚は鉄道のものだとおもわれます。
参考:グダグダ(β) 那覇上空

"J.K.Hofer"で検索するとrememberingokinawaにページがありました。
同じ写真もあります。

1945-46 J.K. Hofer Photos Page 1
http://www.rememberingokinawa.com/page/1945_hofer_photos_pg1


http://www.rememberingokinawa.com/page/1945_hofer_photos_pg2
http://www.rememberingokinawa.com/page/1945_hofer_photos_pg3


とりあえずNPOの動きをメモ代わりに記録したということで。
ほんとは歴史博物館とかがやったほうがいいんでしょうけども...

楚南明徳

大正5年の沖縄県人事録から。
画像は沖縄県立図書館貴重資料デジタル書庫の「沖縄県人事録/楢原翠邦編(大正5)」からで、切り出して画像加工してあります。

楚南明徳
実業家
那覇区久米町1ノ9 電話15番
君は明治23年を以て那覇区久米町に生る。亡叔玉氏の長男にして兄弟5人あり、家は代々同地の旧家を以て知られ、久米の楚南として其名区内に冠たり。明治38年を持って沖縄県立中学校に入り、其4年を修業せし時半途退学して東京に出で、最初青山学院に学び後転じて私立日本大学に入れり。爾来1年半にして家事の都合上退学するの止むなきに至り、直ちに帰県して其家督を継承せり。君は夙に実業界に活躍せんとの志あり、大正元年を以て将来最も有望なりとせる阿旦葉帽子製造業を開始し。爾来工場を新設して専ら製造に努め、其販売に力を致して漸次拡大し以て隆盛を見るに至れり。大正4年6月沖縄警醒新報社を創立して其社長となりしが、同年秋其関係を断ち、今や更に新事業を画策しつつあれば、其前途や蓋し刮目に値すべし。
沖縄県人事録 (抜粋と編集)


http://archive.library.pref.okinawa.jp/?type=book&articleId=50102

この人はおそらく久米村人(くにんだ)ですね。

関連:グダグダ(β) 阿旦葉帽子会社と軍人遺族救護 (明治38年の新聞記事に楚南叔玉の名がある)

山之内喜左衛門

大正5年の沖縄県人事録からです。

山之内喜左衛門
帽子商会主
大阪市西区南○江二番町 電話西3964番
両面パナマ帽子の発明者として我県の帽子界に令名嘖々たる山之内君は徹頭徹尾奮闘努力を以て今日の大を成せる代表的成功者なり。父喜次郎氏は夙に染料事業に従事して名声高く、現に大阪を中心として和歌山及八丈島に於て製造に没頭しつつあり。君は其の次男にして明治10(1877)年を以て鹿児島市堀江町に生る、夙に一家を成し現に一男一女あり。幼時鹿児島に於て普通学を修め、其13歳の時父君と共に長崎に出で、爾来其経営にかかる樟脳製造に従事して専ら支那人と貿易せしが、数年の後厳父に伴はれて沖縄に来たり、直ちに那覇区石門通に雑貨商を開き、傍ら染料及貝殻類の輸出販売を開始して直接横浜地方と貿易するに至れり。爾来拮居精励以て漸次拡張して隆盛を極めしが、慧眼なる君は夙に阿旦葉帽子の有望なるを知り、遂に明治37年7月を以て之れが製造に着手し、殆んど全力を傾注して業務の拡張を図り、製造数激増するに従ひ那覇区前島町に大工場を新築し、又大阪に支店を設けて直接外国商館と取引を開始せり。其後多年の苦心を以て両面パナマ帽を発明し、之れが特許権を得て益々信望を高め、現に大阪の支店に在りて専ら販売に従事しつつあり。
沖縄県人事録/楢原 翠邦編 (抜粋と編集)


http://archive.library.pref.okinawa.jp/?type=book&articleId=50102
画像は沖縄県立図書館貴重資料デジタル書庫の「沖縄県人事録/楢原翠邦編(大正5)」からです。沖縄大百科事典では大正5年頃には那覇の帽子工場を弟の栄之助に監督させて、本人は大阪の支店でパナマ帽販売に従事したとなっています。

明治10(1877)年に鹿児島生、13歳の時に長崎でその数年後に沖縄ですから19歳くらいに来ています。ということは大体明治29年くらいでしょうか。沖縄では石門通りで雑貨商と染料と貝殻の輸出、明治37年からはパナマ帽製造です。

写真は「山之内帽子商店」で画像は下記サイト様よりお借りしています。

大正時代に沖縄に在った企業 (66) - 昔の写真と資料 - Yahoo!ブログ
http://blogs.yahoo.co.jp/pusan_de/3418693.html

間造船所


左写真は戦前の奥武山にあった間造船所、右図は「垣花町跡」内の図から作成したもので2が間造船所です。
写真は下記サイト様よりお借りしています。m(_ _)m

大正時代に沖縄に在った企業 (21) - 昔の写真と資料 - Yahoo!ブログ
http://blogs.yahoo.co.jp/pusan_de/2766459.html


参考:グダグダ(β) 奥武山 2

上原仁徳

上原仁徳
1880(明治13)年〜没年不詳。
那覇区垣花2丁目29番地に生まれる。1896年那覇高等小学校卒業。卒業後父次郎に追従して国頭と那覇を往復して藍の売買に従事する。その後、1904(明治31)年7月12日に僅かな資本を持って宮古島へ渡り寄留する。初め雑貨店を経営するが、後に砂糖委託販売業を開始して巨利を得る。(中略)
宮古に寄留して10年余、上原は巨額な富を築き上げ、那覇区の東町にも店を開いて繁栄、那覇区会議員となって、那覇区政にも尽力貢献した。
平良市史 第8巻 資料編6 p202(抜粋と編集)


宮古島での砂糖委託業に成功した人ですね。
1904(明治31)に来島してから10年余りで富を築いて東町にも店舗を持つ、ということですから明治の終わりごろには那覇に店舗を持っていた事になります。
大正5年の沖縄県人事録もほぼ同様の内容になっています。

模造パナマ帽産地の制度比較

パナマ帽について面白い資料がありました。
「太平洋経済圏とアジアの経済発展 : 戦前期における日本・東アジア間の共時的構造と制度的差異に着目して」という論文の第6章が沖縄と台湾のパナマ帽についての話になっています。

第6章 模造パナマ帽産地の制度比較 - DSpace at Waseda University
http://dspace.wul.waseda.ac.jp/dspace/bitstream/2065/5272/9/Honbun-4253_07.pdf


台湾と沖縄の違いを考察しているのですが、沖縄での製帽業の変化などにも触れられていて興味深いです。
戦前期沖縄での製帽業に興味のある人は読めるんではないでしょうか。

宮里辰雄

昭和12年の沖縄県人事録から。

宮里辰雄
宮古商会取締役支配人
日本石油会社那覇油槽所主任
那覇市東町2ノ31
君は明治27(1894)年を以て那覇市垣花町に生る。現在株式会社宮古商会取締役支配人並に株式会社日本石油那覇油槽所主任たり、少壮事業家として本県実業界を風靡す。嘗て那覇市会議員に当選し市政壇上に獅子吼したることもあり。昨今では只管業務に専念し居たりしが、昭和12年推されて再び市会議員に当選し現任中なり。傍ら那覇商工会議所常議員に推され、実業界及政界に於ける其の地位は着々堅実な歩みを遂げ、大成を期されて居り、殊に本県漁業の南進については一見識を備へ夙に君の主張するところにして今後に於ける遠洋漁業の発展には君の慧眼に俟つもの多しとされ将来たるや蓋し刮目に値すべし。趣味読書。
【家庭】妻ヨシさん(41)、嗣子辰彦君(21)、次女靖子さん(13)、次男喜三君(11)
沖縄県人事録 (抜粋と編集)


平良市史の宮里三郎の項目に名前が出て来ますので抜粋します。

当時の商業界には2つの流れがあった。宮里三郎(山小百貨店)を中心とする垣花商人、それに大野八十介、渡辺覚之丞らの内地商人一派で、彼等は早くから宮古に来て相当の資産を作り商売繁盛していた。宮里三郎、大野八十介、渡辺覚之丞、上原仁徳、金城三郎、金城清一、宮里辰雄らは宮古商会をつくり那覇に支店をおいて石油、漁業用品、材木など殆ど独占していた。
平良市史 第8巻 資料編6 p423(抜粋と編集)


りうぼう(琉球貿易)の宮里辰彦さんの父のようです。
参考:グダグダ(β) 宮里辰彦  (戦後の人事録での本籍が東町2の31で同一)

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