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牧志のムートゥ(2)

牧志のムートゥに絡んだ図をあげます。
牧志集落図
那覇の空間構造,p61の図に基づき作成。緑が昭和初期の集落分布で青が牧志村創建に関わった子孫です。
前の図では西ヌウタキの側には越来(ギーク)高良が示されていますからこの図とも矛盾しません。
「那覇の空間構造」では屋号の漢字も示されていました。
 •ギーク 越来 <高良家>
 •ウムイ 神歌 <嘉数家>
 •ヤマタイ 山当 <嘉数家>
 •アガリ・ミジハイ 上水張 <高良家>

昭和2年の牧志は人口1701人、423世帯の人間が住んでいたようです。
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牧志のムートゥ

牧志近辺の知り合いに嘉数さんも高良さんもいます(笑)
1969年版のゼンリン地図をみてみると、まとまった形での居住はないですがあちこちにちらほらと見えるので他の地域と比べても高良さん嘉数さんの比率は高いんではないかと思われます。
牧志集落遠景図
那覇市民俗地図から牧志近辺をマッピング。
越来がギークでしょうね。ムートゥの家が中心付近にあってムラガー(井戸)もそばにあり東西にウタキがある。
東側を流れる安里川の川辺にはタムンシチバ(薪置き場)が見える。北には泊の市場もあり、新県道(国際通り)そばのガンヤー(龕屋)の前にも市場がある。
集落にはナカミチ(中道)、メーミチ(前道)、クシミチ(後道)があり、メーミチの前にはメーヌ田、クシミチ側にはクシノ田がある。
見た感じ本当に普通の集落で、のちにここが都会のど真ん中になるとはだれも予想しなかったでしょうね。

牧志の本家筋
牧志にはナナムートゥの本家があるといわれている。現在は次のようだ。
 •ウーニ<嘉数家>
 •ギーク<高良家>
 •ウムイ<嘉数家>
 •ヤマタイ<嘉数家>
 •アガリ・ミジハイ<高良家>
 •八幡ヌタカラ<高良家>
以上の六件だが理由はよくわからぬという。七という数字は昔から縁起がよいからでしょうともいっている。しかし屋号からみると新旧の時代の流れや、同姓からは隣接地域との関係も類推されるということだ。
大昔の話 ー 牧志の地は首里と那覇との間に介在するが住む人が無かったとか。それで王府からの呼びかけで当時人口がわりと多かった小禄村に相談があった。ギークの高良とウーニの嘉数が早めに下見に出かけた。ウムイの嘉数は用があって遅れていった。途中で帰ってくる二人が言うにはわれわれの土地は竹串を立てておいたから注意しろと、ウムイが行ってみたら竹串のある二カ所は平坦で地の利の良いところだった。仕方なくそこを避けて杜の傍の斜面に串を立てた。今でもウーニとギークは隣り合っているがウムイは先の両家の前を過ぎて坂道の突き当たりになっている。
那覇市史資料編第二巻中の7、p477

松田橋

現在は無い松田橋。

オレンジ色で図示されているのが県庁でその左側に仲島小堀があります。仲島小堀から延びる道の先に赤く示されている橋が松田橋。仲島大石のすぐそばですね。
那覇市場のすぐ北側に架かっていたようです。

松田橋
松田橋は現在の国際電々ビル付近の久茂地川に架かり、泉崎の仲島小堀(ナカジマグムイ)と東町の仲毛を結ぶ私設橋であった。松田通信という那覇の寄留商人の姓から出たものだという。
松田は松田橋のたもとに屠獣場を設けたがこれに失敗。いろいろの事業にも失敗したため沖縄から姿をくらましたがその名ばかり「松田橋」として残った。
那覇市史資料編第二巻中の7、p400

龍界寺小路・善興寺坂
右端にあるのが松田橋。

那覇まちのたね通信 | 松田橋・泉崎橋/昭和34年(1959) 12月12日/国道58号・松田橋は今水道管が架かる
http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=3390

宮里辰彦

宮里辰彦[1917(大正6)〜1993(平成5)]
那覇市生。二中、第七高等学校造士館、東京帝国大学経済学部卒。日本興業銀行勤務をへて、軍需省。戦後、沖縄民政府通訳官をへて、琉球列島貿易庁総裁となり、沖縄経済の復興にあたる。昭和27年から父が創業した琉球貿易をひきつぐ。29年デパート経営をはじめ、39年リウボウと社名変更。


http://ryukyushimpo.jp/modules/news/article.php?storyid=43087
http://kotobank.jp/word/%E5%AE%AE%E9%87%8C%E8%BE%B0%E5%BD%A6


戦後の人事録では本籍は「東町2の31」となっています。
この住所は宮里辰雄さんの昭和12年の人事録掲載のものと同じですので親子だと思われます(嗣子辰彦君(21)とも記載)。

経済の背景(2)

経済の背景(1)のつづき。

基地経済志向の時期(1950 - 1958)
朝鮮戦争を背景とした基地工事建設ブームにより消費支出の増加(大意)

那覇市の壷屋から神里原の問屋街、平和通りの市場街も形成され、いわゆるLC族なる名称の発生をみるほど商企業は活発になったのである。百貨店は近代都市を象徴するものの一つであるが、この頃小規模ながらも神里原に現在の山形屋、リウボウなどが開店をみている。

軍工事ブームは朝鮮戦争(1950年6月/1953年7月)の終結に伴い1954年には一段落し経済はデフレ傾向を示し商業も一時不振となった。しかし1955-57年にかけて本土の神武景気の余波をうけ、いわゆるいわゆるスクラップブームとよばれるスクラップ輸出の好調や、軍用地料の値上げや援助等の基地収入の増加、また本土政府からの年金・恩給の支払い等が始まったことにより消費面は再び活気を取り戻した。
1955年にはバスターミナルが統合建設されたが、これにより交通の幹線は完全に牧志を中心とする国際通りに移転した。これに伴い商業の中心地もそれまでの壷屋・神里原一帯から国際通りに移っていった。

これは神里原・壷屋一帯がヤミ市から発展していったもので道路事情も悪く密集していったためその後経済が回復していくにつれ手狭になっていったことや、朝鮮動乱による消費景気で土台を築いた商企業がこの機会に拡張を期して移転を計画したことが原因であろう。
1954年にはリウボウが、1955年には山形屋が現在の場所に移転し、問屋街も一部は蔡温橋通りに、一部は若松通りに移転してゆく中で、一時は劇場や百貨店、専門店、飲食店などが建ち並びにぎわいを見せた神里原一帯もその後は文字通り灯りが一つ一つ消えていった。

このような政策(物品税法/1952)は国産品保護でもなく自由貿易でもない結局どっち付かずのものであり、「とりあえず島産品でまにあうものや、贅沢だと思われるものの輸入を避け、つとめてドルを節約してその分を生産原料、資材設備などの輸入に振り向けなければならない」とする政府の期待は裏目に出て、外国製時計や洋酒、外国製の缶詰・菓子類等が家庭生活に深く入り込み、結果として「奢多傾向」を助長しこれらを扱う商企業の乱立に拍車をかけたともいえよう。


まず「LC族」について。貿易でいい目を見た連中のことです。
「LC 貿易」で検索してみて下さい。

山形屋は戦前からある鹿児島に本店を持つ企業でした。
戦前の1922年に開業した山形屋呉服店沖縄支店が始まり。その後、沖縄戦を経て、1950年に元社員により当時の中心地であった那覇市神原に移転。1955年には国際通り沿いに移転した。
沖縄山形屋 - Wikipedia


リウボウは少し複雑です。
アメリカ軍に占領された沖縄では、日本本土を含めた外国との貿易が禁止されたが、その中で唯一貿易を認められたのが、琉球列島米国軍政府の琉球貿易庁であった。
1948年に貿易庁の関係者により琉球貿易商事株式会社が設立されたがこれが同社の起源である。
貿易規制解除以降は自由な貿易が行われるようになり貿易庁は琉球政府の商工部に吸収されたが同社は解散することなくその後も事業を行い続けた。
リウボウ - Wikipedia

琉球貿易商事株式会社ゆえリウボウということですな。

>問屋街も一部は蔡温橋通りに、一部は若松通りに移転
この記述ですら若い人はわからないかもしれません。かつて蔡温橋のあたりにはぽつぽつと問屋っぽい建物がありましたが今はわからないですし、若松問屋街は浦添の卸団地に移転してしまっています。
戦後の琉球民政府時代、民問による自由取引きが認められるようになった昭和26年頃から、蔡温橋通りには卸売り業者が軒を並べ、商店街としての街並みが形成されてきた。
那覇市国際蔡温橋通り商店街振興組合
http://www.ocnet.or.jp/okishinren/o-kokusai-saionbasi.html


>外国製時計や洋酒、外国製の缶詰・菓子類等が家庭生活に深く入り込み
現在の時計店や外国菓子卸などのルーツもこの辺にあります。

経済の背景(1)

琉球大学リポジトリには興味深い物が結構あります。
下記論文から戦後のマチグヮー発展の背景について参考になる部分を抜粋しておきます。

戦後沖縄における流通政策(1) 経済計画書の分析を中心とする史的アプローチ
http://ir.lib.u-ryukyu.ac.jp/handle/123456789/3129
しかしながら(敗戦から)その後一年間はキャンプ収容の状態であり、衣食住に関する生活必需品はすべて米軍から無償提供された。戦後経済がどうにかすべり出すのは翌1946年5月に貨幣経済が復活してからである。

軍政府は1946年4月24日付け南西諸島米国軍軍政本部名で「沖縄に関する群政府経済政策について」を発表している。これは翌年5月1日からの貨幣経済の復活にあたって、沖縄の経済復興に関する群政府の経済政策を示した物である。
その目標は「現在並びに予見しうる軍事的および政治的情勢の下に、食料、衣服、住居ならびに医療の必要を満たすにたる生産を為しうるがごとき生産活動の規範を設定せんとするにあり」、主として島内生産で消費をまかなっていた戦前と同じ方向に計画を進めることとし、戦前の状態を基準漸進的復興をめざすことを政策方針としている。

通過に関しては1946年4月、同年8月(沖縄群島のみ)、および1948年6月と3回にわたり通貨交渉が行われたが、第三次を持ってB円軍票に統一された。

一方1946年10月には軍政本部指令第14号により琉球貿易庁が設置され、群政府の監督の下に貿易を行っており、1950年まで民間貿易は禁止されていた。しかしながら、当時の配給物資量の不足と配給制度の欠陥により、1947年11月頃には那覇市の開南一帯にヤミ市が自然発生的に生まれ、日本および香港相手の密貿易品を主に50名程度の露天商人によって営まれた。これは後の牧志公設市場の草分けとなったものであり、住民の那覇への集結を促進した。1948年にはこれらの業者が500名をこえたが、島内生産品の販売を主体とする条件の下に公設市場が建設され、ヤミ市は一応解消されたのである。

1948年には、住民の要望に応えて商取引を解放する自由経済実施の布告が公布され、自由取引が実現した。
1950年4月にはB円とドル通貨の交換率が120円対1ドルの単一為替レートに決定され日琉貿易協定も成立し、ここに民間業者が貿易を再開する準備が整った。


通貨のレートも決まり民間貿易も始まった1950年くらいからが本格的経済活動の始まりといえそうです。

戦後那覇・真和志の公設市場

戦前と戦後では立ち入り禁止制限解除の段階解除により戦前とは商業空間の位置が変わってしまいました。
那覇(首里と小禄を除く)の公設市場を確認しておきたいと思います。

•東町公設市場(閉鎖)
1963に完成した鉄筋コンクリート4階建て。
現存する那覇市の市営住宅では最も古く、1階は約160平方メートルの公設市場で上階は36世帯の居住区。
※2010年取り壊し

http://www.okinawatimes.co.jp/article/2010-07-04_7767/


•若松公設市場(閉鎖)
昭和42〜43年建設。1階は市場で上層は若松市営住宅。
1991年若松卸問屋街が浦添西洲に移転後衰退。
2011年閉鎖決定。


•真和志公設市場(閉鎖)
地下に存在していた。地上階は真和志支所、水道局(新都心に移転)、真和志消防署。

•第一牧志公設市場
•第二牧志公設市場(2001年3月閉鎖)


東町公設市場などはアパートの一階が店になっているような外観で牧志の公設市場などを想像すると肩すかしを食います。アパートの一階に商店が何軒かあるといった風情だったように思います。

那覇市営住宅配置図
http://www.city.naha.okinawa.jp/jyutaku/index.htm
この図の東、若松が公設市場の位置と同じです。那覇市が団地建てるついでに一回を市場にしたというのが正解で団地の一角になにかを併設するパターンはまだあったかもしれません。
書いていない市場はあとで追記します。

※このブログは旧真和志村(市)と旧那覇の区域を主に扱うため首里小禄の情報は省略します。

那覇市場(ナーファヌマチ)

戦前の那覇最大のマチグヮーであった公設那覇市場の昭和15〜16ごろの図です。
ナーファヌマチ
那覇市史資料編第二巻中の7、p284 の図より引用(省略と違いあり)
※比率なども歪んでしまって正確とはいいがたいので参考程度にお願いします


しかし沖縄はブタジョーグーの島ですわな(笑)
左下の省略されたところは左から砂糖、トゥブシ(松明)、雑貨、果物、たこです。

場所は現在のバスターミナルから58号線を隔てた一角になるでしょうか。
右から下へ横切っている黒い線は軽便鉄道の引き込み線です。

左側の下側は野菜市、その上はもやしやこんにゃくや豆腐などとまんじゅう等です。
原図ではまんじゅうは二種類「天妃前まんじゅう(テンピヌメーマンジュウ)」と「の字まんじゅう」が書かれています。女の人が集まる場所にはやっぱり甘い物なんでしょうか(笑)
天妃前饅頭 - Wikipedia
のー饅頭 - Wikipedia
左側のちんし市は結婚用品や年忌供物用品の商いのようです。

あと図示できませんでしたが壷屋市の下側にふな、うなぎ、かえるを商うターイユマチがあります。フナや鯉はクスイムンとして煎じたりしますね。
すぐそばではカマボコや漬け物が売られていたようです。

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