琉球大学リポジトリには興味深い物が結構あります。
下記論文から戦後のマチグヮー発展の背景について参考になる部分を抜粋しておきます。
戦後沖縄における流通政策(1) 経済計画書の分析を中心とする史的アプローチ
http://ir.lib.u-ryukyu.ac.jp/handle/123456789/3129
しかしながら(敗戦から)その後一年間はキャンプ収容の状態であり、衣食住に関する生活必需品はすべて米軍から無償提供された。戦後経済がどうにかすべり出すのは翌1946年5月に貨幣経済が復活してからである。
軍政府は1946年4月24日付け南西諸島米国軍軍政本部名で「沖縄に関する群政府経済政策について」を発表している。これは翌年5月1日からの貨幣経済の復活にあたって、沖縄の経済復興に関する群政府の経済政策を示した物である。
その目標は「現在並びに予見しうる軍事的および政治的情勢の下に、食料、衣服、住居ならびに医療の必要を満たすにたる生産を為しうるがごとき生産活動の規範を設定せんとするにあり」、主として島内生産で消費をまかなっていた戦前と同じ方向に計画を進めることとし、戦前の状態を基準漸進的復興をめざすことを政策方針としている。
通過に関しては1946年4月、同年8月(沖縄群島のみ)、および1948年6月と3回にわたり通貨交渉が行われたが、第三次を持ってB円軍票に統一された。
一方1946年10月には軍政本部指令第14号により琉球貿易庁が設置され、群政府の監督の下に貿易を行っており、1950年まで民間貿易は禁止されていた。しかしながら、当時の配給物資量の不足と配給制度の欠陥により、1947年11月頃には那覇市の開南一帯にヤミ市が自然発生的に生まれ、日本および香港相手の密貿易品を主に50名程度の露天商人によって営まれた。これは後の牧志公設市場の草分けとなったものであり、住民の那覇への集結を促進した。1948年にはこれらの業者が500名をこえたが、島内生産品の販売を主体とする条件の下に公設市場が建設され、ヤミ市は一応解消されたのである。
1948年には、住民の要望に応えて商取引を解放する自由経済実施の布告が公布され、自由取引が実現した。
1950年4月にはB円とドル通貨の交換率が120円対1ドルの単一為替レートに決定され日琉貿易協定も成立し、ここに民間業者が貿易を再開する準備が整った。通貨のレートも決まり民間貿易も始まった1950年くらいからが本格的経済活動の始まりといえそうです。
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